「あの胸にもういちど」

~ダニエルという名の男~
1968年 英/仏 ジャック・カーディフ監督



テレビの深夜映画で、これを最初に観たのはティーネイジャーの頃だと思う。自分の部屋のテレビでこっそりと観た。大した映画じゃないのだけど、なんだか魅力のある映画で、時折ふと思い出し、また観たいなぁと思っていたらスターチャンネルがついこの前放送してくれた。いつもそうそう掘り出し物があるわけではないのだが、たまにはこういう事もある。

「ギルバート・グレイプ」

~けなげな息子~
1993年 米 ラッセ・ハルストレム監督



この作品を最初に見てからずいぶん経つが、何度観ても、いつ観ても、毎回瑞々しく、切なく、そして清々しい印象は変らない。そして毎回、けなげなギルバートに胸がしめつけられる思いがする。最初に見たときは、達者で目立つ「障害者演技」のデカプーの方に目が行ったのだけど、2回目あたりから、あんなにも厄介なことがテンコモリの家庭の中で、必死に働いて生計を支え、ヤケクソになって暴走するなどという甘えた事も一切なく、どんなに遣り切れない時も小さなため息ひとつでなんとか自分をなだめ、日常と取り組むギルバートを淡々と演じるジョニー・デップに惹き付けられてくる。どんどん目線がギルバート寄りになってくるのだ。



「ジャケット」

~時を駆ける男~
2005年 米 ジョン・メイブリィ監督



全く知らないで観たのだけど、これは「愛の悪魔」と同じ監督による作品であった。7年の間の作家としての成長が伺われる作品でもある。まあ、作品の梗概などはここを見ていただくとして。
画面の色が、やはりグリーンのフィルターがかかっているせいか、冒頭、主人公スタークス(エイドリアン・ブロディ)が戦場で怪我を負ったあたりから、しんとしみいるようである。印象的に黒が使われていて、雪道を一人歩くスタークスの姿を追って、無理なく映画の世界に入っていかれる。エイドリアン・ブロディは、けして好きな顔ではない俳優なのだけど、画面に出てきて演技をするとやはり引き込まれる。上手いのである。うちの母はこの人の出世作「戦場のピアニスト」が大好きで(エイドリアン・ブロディが好きなわけではないらしい)2ヶ月に一度くらいは、必ず観ているようである。

「愛の悪魔」

~白いデカパン~
1998年 イギリス ジョン・メイブリィ監督



「愛の悪魔」を観てしまった。 なんか、観てしまった、という感じである。
うーむ。
ダニエル・クレイグ。役柄もあって盛大に脱いでいる。白いデカパン一丁の姿がとても印象に残る。なんであんなにデカパンなのだ? あれによって表現しようとしたものは何なのか?…分らない。絡み合うイメージのシーンでは盛大にプリケツも出てくる。バスタブではすっぽんぽん。(この映画は全く無修正である。映倫も最近はかなりユルくなったんだろうか。”ゲージュツ”映画には縛りが甘いのか)そう。そんなにまでダニエルは脱ぎまくり、一生懸命に、アル中で、ドラッグにも中毒してしまっている若者を演じているのだけど、観ていてなぜか強力に印象に残るのはデレク・ジャコビのベーコンの方なのである。デレク・ジャコビ、怪演である。まるで乗り移ったかのような鬼気迫る演技。実際のベーコンがどういう人だったのかは知らないが、デレク・ジャコビの創造した人物像には猛烈な説得力があった。実に、こんな人だったに違いあるまい。入魂の演技である。彼が鏡の前で化粧をするシーンには思わず笑った。入りこんでいる。思わず手を打ってブラボーと言ってしまいそうになった。

「欲望の翼」

~足のない鳥~
1990年 香港 王家衛 監督



これは王家衛のまさしくプライムの作品であろうと思う。近年はあまり惹き付けられないが、かつてはこの人も輝いていた。幾つか好きな作品があるが、中でもワタシが王家衛のベスト1だと思っているのがこの作品「欲望の翼(阿飛正傳)」である。全編、香港キューピー、レスリー・チャンの独壇場ではあるが、グダグダのアンニュイ感で、甘えとセンチメンタリズムがないまぜになった自己破滅型の人物像を演じきれるのは、彼をおいて他にはいるまい。こういう役をやらせたらレスリー・チャンは天下一品であった。もう彼に代わる者は二度と出るまい。

「アイランド」 

~二人の愛ランド?~
2005年 アメリカ マイケル・ベイ監督



ユアン・マクレガーがオビワンなどを引きうける前は、けっこう彼にホの字だったので、出演作品はチェックしていた。「枕草子」の頃のユアンがルックス的にはプライムだった。出来は…であったが。そしてオビワンをやると聞いた時には心底、ガックリしたものである。以降、あまり見るべきものもなく年月が推移し、ユアンがワタシの中で昔語りになった頃、「アイランド」が封切られた。さして前評判も聞かなかったが、何か雑誌の広告でか、この映画のポスターを見た時「お!」と思い、久々にユアンに膝を乗り出した。ユアンが顔もボディもキりっと引き締まった様子だったのと、共演がスカーレット・ヨハンソン(ビッチのスカヨハ!)だったからである。

「いつか晴れた日に」

~そして待ちわびた春~
1995年英・米 アン・リー監督



原題は「分別と感性」 もう、とにかくジェーン・オースティンである。監督のアン・リーは名前だけだと女性のようだが、台湾出身の映画監督。(この人についていまさら説明するのもヤボかもしれない。)前に「ホテル・スプレンディッド」の記事でも少し引き合いに出した「飲食男女」という映画も彼の台湾時代の監督作品である。これは欧米進出1本目。しかし、台湾人の監督が撮っているとはにわかに信じられないほどに18世紀イギリス風味の横溢する画面である。絵画的で、色彩設計が非常に見事。まるでフェルメールの絵でも見ているかのような柔らかい陰影に富む美しい映像で、こういう光はアジアにはないなぁ、と痛感させられる。

プログラムピクチャー 類似系

さてさて。「カジノ・ロワイヤル」最後の劇場鑑賞も終えてしまったところで、昨年11月からワタシを酔わせた「カジノ・フィーバー」も少し一段落。(別にもう飽きたわけじゃないですよ)今後は少しダニエル・クレイグ関連以外の作品についてもレビューを書いて行こうと思う。新作ばかりでなく、過去に見た作品など、心に残ったものについて適宜、記事にしていきたいと考えている。もちろん、ダニエルの旧作や新作を見たら、その都度、その時感じたことを書こうと思っている。(新作が待ち遠しい気持ちしきりである。)

さて。ワタシは不思議なジャンルの映画も愛する人間である。その最たるものが「東映任侠映画シリーズ」などであろうか。(普通の女性はこういうものをあまり愛好しない。)うちは、とにかくよく映画を観る家だったので、劇場にもよく出かけたが、テレビで放映される古い映画もかなり見ていた。だから、こういう東映のプログラムピクチャーの類も、父の解説付きでかなり見たのである。テレビで、子供の頃に。なかんずく、ワタシの心を惹き付けたのは東映の任侠シリーズ中でも白眉の「緋牡丹博徒シリーズ」であった。


 純子
地味な着物をキリリと着こなした 純子が美しい眉をきっと上げて、敵対する悪玉親分に颯爽と啖呵を切る。その胸のすくような姿。艶やかでいながらも、きりっと一本芯の通った凛々しさ。これに、10歳かそこいらだったくせに、ワタシは「かっこいい…」と無条件に痺れた。(断っておくが、ワタシはこの映画のリアルタイムの世代ではない。テレビ放映されるようになってから、テレビで殆どを見たのである)今でも、 純子の映画はたまに観る。そして、子供の頃にいいと思っていた部分が、大人になっても全く同じで、子供の目というのはけしてバカにならないものだと再認識させられる。とにかく、 純子は美しかった。女渡世人という異常な設定の役をやっていながらけして下品にもエロにも流れず、常にそこはかとない静かな悲しみときりりとした気品を保ち、小太刀を抜けば要所要所でシャキっと姿の決まった美しい殺陣を見せる。もう、とにもかくにも颯爽としていた。(娘は何故に似なかった?俳優二世はなかなか親を超えられない宿命のようである。)そして、こういう博徒モノにお約束のシーンとして、敵対する一家と盆の上の勝負をした時に、相手方のイカサマを見破る、というシーンがある。このシーンは全くそっくりそのまま、ル・シッフルのブラフを見破ろうとじっと相手の表情を覗うボンドの様子に重なる。


じっと見極める
ワタシが劇場で「カジノ」を観ながら、なんだか見なれたものを見るような気持ちでこのシーンを観ていたのは、東映任侠映画の残像がまぶたに残っていたせいだろう。この東映任侠映画に少し通じるものがあるという説は、オープニングテーマに関する記事(06/12/19の記事)でも書いたが、肝心カナメの博打のシーンでも同様である。「カジノ」のポーカーはそこそこ手も分ったので、勝ち負けは分かって見ていたのだけど、東映任侠映画の場合は花札勝負だったりして、これはもう、本当に何が行われているのかサッパリ理解不能である。主人公と敵役の表情がクローズアップの切り返しショットでふんだんに応酬される。まあ、その緊迫感と俳優の表情で、勝負のアヤを読み取るのが、こういう映画の定石なのだ。だから「カジノ」でポーカーが分らないからあのシーンは退屈だなどいう意見を読むと、任侠映画を見よ、もっと分らぬ。この手の映画はそうしたものよ、とワタシは心の中で唱えていた。そして、もう1つ共通点がある。それは男女関係が非常にプラトニックであるという点である。ボンドとヴェスパーは一応最終的には肉体的にも結ばれるが、任侠映画のヒーロー、ヒロインは胸のうちでお互いに、いざとなったら相手の為に死ぬ覚悟までしていながら、奥ゆかしい会話のやりとりでほのかに気持ちを通わせるだけで、手ひとつ握り合うわけではない。そして、最後にはどちらかがあの世にいって、けして結ばれずに終わるのである。



東映任侠映画が全盛を極めた背景には、安保でゆれた時代の影もあっただろうが、何よりも高倉 健と 純子という金看板の黄金コンビがそろった事が最大の理由である。とにかくこの二人の絵になることときたら、いまだにインモータルな輝きを放っている。純子主演のシリーズでは、高倉健は流れ者のヤクザで、いろんなしがらみがありつつも最終的には純子と共に悪玉一家に二人で乗りこみ、散々斬りあった挙句に死ぬ。なぜか必ず男が死ぬ。そして修羅場が終わり、一人髪も乱れて血まみれで残された緋牡丹お竜は死にゆく男を抱きしめ、涙する。そして、苦悩を抱えつつ、また一人渡世の旅に出るのだ。どうです?このへん、何か通じるものがあるでしょう。「007シリーズ」ももう21本も撮っているプログラムピクチャーの最右翼である。プログラムピクチャーは巨匠が精魂こめて撮る「名作」などに比べると単なる娯楽とか、金を稼ぐだけの映画、のように扱われたりもするが、しかし、こういう類型的なシリーズものにこそ、凝縮された人間の苦悩とか孤独とか、生き様などのエッセンスが色濃く投影されて味わい深いのである。なお、ワタシが愛好しているのは東映任侠映画の中でも黄金期の「緋牡丹博徒シリーズ」「女渡世人シリーズ」「昭和残侠伝シリーズ」など、純子主演と健さん主演のごく限られた映画だけである。後年の実録ものシリーズ(仁義なき戦いなど)やらもっと後発のVシネなどになるともう一切観ていないし知らない。これらはワタシの愛好するフィーリングとは別物の作品群なのでご縁がない。東映というだけでひと括りには出来ないので、くれぐれもお間違いなきよう、ひとこと申し添えておいた。

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最後の鑑賞



行ってきました。見納めに。初見者二人と連れ立って。
この二人、一人はRさんといって、予告編で例の水着姿のマッチョぶりにびっくりし、ひたすらそればかりが脳裏に残り、何かといえば「あー、あの筋肉凄いよねー」ばかり言っていた人。もう一人のHちゃんは、絵に描いたようなイケメン好きで、伊藤英明とかベッカムのファン。ダニエルのことは「あー、あのいけてない水着で海から上がってくるシワの多いおじさんでしょ?」とのたまっていた。ふっふっふ。そんなことを言っていられるのも今のうちだよ。たんと言っていなさい。たんと。
シネコンはざらっと6割5分の入り。まあ、一番頃合の客数だ。今回は、4回のうちで、一番センターで、もっともスクリーンの観易い位置だったかもしれない。
ワタシは3人のうちスクリーンに面して左端に座った。これはけっこういいポジション。初見者の反応をなんとなく覗いつつも、自分だけの感興に浸りたいときには浸れるポジショニングである。我ながらナイスだった。ちなみにワタシの左側にはラッキーなことに誰もいなかった。ワタシの右隣はRさん、その向こうに Hちゃんが座を占めた。
そして、「カジノ」が始まった。モノクロシーンから一転して鮮やかなオープニングに入るあたり、二人とも身じろぎもしないでスクリーンを観ている。このオープニングが気に入った、という事だろう。そこから更に畳み掛けるようにマダガスカルのシークエンスに突入。二人がオープニングで結構画面に入っているようだったので、このあたりはワタシもまた手に汗を握りつつ高層アクションを堪能した。
Mに叱られる場面から一転してバハマのグリーンの海が一面に広がり、例のボンドさんが海から上がってくるシーンが来た。筋肉だけをひたすら言っていたRさんがどんな食いつきをしているかと横を覗うと、彼女は更に自分の隣のHちゃんの方を観ていて肝心の画面を見ていない。あれれれ?と思ったらなんとそのシーンの始まる前にHちゃんがニヤっとしつつRさんの横顔を見たので、恥ずかしくなってしまい、Rさんはついにあれだけそのシーンだけを唱えていたのに、肝心の部分を見逃すハメになったらしい。妙なところで純情である。
マイアミ空港の爆破阻止後のニヤリが終わり、手首に発信機を埋め込まれると、森の中を走る列車が見えてきた。ここは二人なんかに気を取られている場合ではない。ワタシの一番大好きなショット、食堂車でメニューが配られてくる前に一人で窓の外を観ているボンドさんが映るシーンである。なんでもないところだけど、この時の横顔がとっても好きなので、ここを見逃してはならないのだ。なんかこの時の横顔は本当に男前でさりげなくていい。十二分にうっとりさせていただいた。このあと勢いよくヴェスパーが歩いてきて二人の丁丁発止のやり取りになる。横の二人がこのやり取りに興味を持っているのがわかる。その後カジノのシーンに移る。彼女たちはやはりルールが分らないらしく、何やってるのかわからないなりに、どうにか読み取ろうとしている気配が感じられた。でも、やっぱり二人が、というかワタシからはすぐ横のRさんしかはっきりとは分らないのだけど、例のシャワールームのシーンになると俄然、一段階、中に入ったな、というのが感じられた。やっぱり女性客にはあのシーンは最強のカードである。うまく考えてある。でも、Rさんはその前の非常階段の死闘後にボンドが洗面台の前で疲労困憊で傷を洗い流すシーンでも息を詰めて見ている気配が感じられた。う?ん。今日もとても辛そうに血を洗っている。お疲れなのね…。でも、また賭博場に戻るのね。ご苦労さま。
と、まあ、こんな調子で、とにかくその後はもう、流れのままに一気呵成に見て、エンドロールに達した。そして、いつも見ると思うことだけど、非常階段の前のシーンで、ボンドはヴェスパーを連れてル・シッフルの部屋の階に行くことはないし(自分だけ行けばいいのだ)、勝負に勝ったあと何故間抜けなフェリックス・レイターはル・シッフルを取り逃がしたのか(このへんは原作もそういう流れで、全く説明もない)とか、最後の金の受け渡しで、ヴェスパーがわざわざ現金を引き出して自分で持っていく必要があるのか、とか、見せ場をこしらえるためにムリにそうした部分の不自然さというのはどうしてもぬぐえない。(お金については拷問の件で支払い先が変更になったので仕方なく、という事もあるだろうけど、この電子マネー時代に、些か古風すぎやしまいか)そしてベニスの廃屋で、ホワイトは一体、いつの間にどこからケースを拾ったのか。あの爺いめ、と、もう、最後なので、一応妙なところへの突っ込みは入れておくことにした。次回はもう少し???の無い設定で脚本を作ってみてほしい。
というわけで、基本的には、ただ黙って見つめてきました。ボンド別れの晴れ姿。DVDでまた逢う日まで、しばしのお別れである。そして同行の二人はどうなったかというと、劇的に変ったのは否定度の高かったHちゃんのほうだった。「かっこよかった、目が凄いきれい」とちょっとうっとり目になり、明日から PCの壁紙をベッカムからダニエルに変更するとのこと。来たよ、来たよ。ダニエル症候群が。Rさんの方も肝心の水着は見逃したものの、顔が童顔だよねー、時折少年みたいな感じでカワイイとのたまっていた。筋肉だけではない事が分ってなによりである。よりファンになってしまったのはHちゃんの方だったようである。否定から入ると、イメージが逆転した時の反動はその分大きいので、最初から筋肉は肯定していたRさんより、インパクトが強かったのかもしれない。このへんが妙味である。ともあれ二人とも「面白かった」と大喜び。ワタシも4度目ともなると3人ぐらいで見にいくのも悪くないなと認識を改めた次第。ダニエル効果で、誰にとってもハッピーな一夜だった。

…ダニエル、今日もまた、ちょっとキレイ目の女子二人がファンの列に加わったよ。ニクいなぁ、この女殺し。

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「10ミニッツ・オールダー」星に魅せられて

~百年の孤独~
「星に魅せられて」 = マイケル・ラドフォード監督

2002年 イギリス/ドイツ/スペイン/オランダ/フィンランド/中国 

永遠に年もとらず、死なない。…こんな恐ろしいことはない。ゆかりの人々が全て死に絶え、目に馴染んだ景色がひとつもなくなっても、自分だけは生きつづけなければならない。古代の権力者がみな不老不死を望んで果たされずに来たけれど、実は不老不死こそは、もっとも厳しい永劫の刑罰にもなるかもしれない。前にふと、そんなことを考えたのをこの作品を見ながら思い出した。
「10ミニッツ・オールダー」イデアの森 7話目「星に魅せられて」。原題はADDICTED TO THE STARS だから魅せられるなどという生易しいニュアンスではなさそうだ。

 「レイヤー・ケーキ」

~Tシャツマン~
2004年 英 マシュー・ボーン監督



この作品については、いまさらとやかく内容についてレビューするなんていう感じではないので、そっちの方面では何も書かない。いかにもなUK発のスタイリッシュ・クライム・サスペンスといった色合いの作品である。うっすらとグリーンのフィルターがかかった画面がしんと落ち着いていて綺麗だ。そして、この映画を観ていると漂う空気感が「トレイン・スポッティング」を思い出させる。作品全体のテイストとか、編集のテンポとか、なんだかよく似ている。そう思っていたら、どこかに同じような事が書いてあった。やはりみんなそう感じるらしい。

「シルヴィア」

~骨まで愛して…?~
2003年 英 クリスティン・ジェフズ監督



遅まきながら「シルヴィア」を観た。ダニエル・クレイグ、黒髪で登場である。ダークヘアという範疇じゃなく、漆黒といってもいい黒髪。これまたよく似合っている。額に垂れかかるパラリ前髪である。しかも、モテモテの色男役。劇中でも「いい声」が売りで、詩の朗読なんかして女をウットリさせている。いやはや、参りました。女という女がみんな彼にはハート目になっちゃうので、奥さんのシルヴィア(グィネス・パルトロウ)は気が気じゃない。とても詩なんか書けたもんじゃない。…まあ、お察しします。
しかも、この映画でもやはり脱いでいる。脱いではいるがストーリーの必然に沿った露出なので、そんなに目立つほどではない。が、やはり詩人にしてはいいカラダである。「詩人の顔に闘牛士の体」というのは、こういう男のことをいうのかもしれない。