「静かな生活」

~人の心に巣食う闇~
1995年 東宝 伊丹十三監督



ワタシはその映画に出てくる家が、好ましい、自分が住んでみたいような家だと、その作品が好きになるという傾向がある。これも主人公一家の住居がとても住み心地のよさそうな素敵な家で、それだけでもかなりポイントが高い。さやさやと緑が囁き、常に微風がそよいでいるかのような木々に囲まれた庭のある静かな木造洋館。実にいい感じ。内装も家具も好みなのだ。う?ん、ワタシ、こんな家に住みたいのよねん。

居間の様子

これは伊丹十三が、言わずと知れた旧友にして義弟の大江健三郎の原作をベースに、その長女のマーちゃん(佐伯日菜子)と障害を持つ兄・イーヨーのひと夏の「静かな生活」を描いた作品だ。

障害者の恋愛や性というものをサブテーマにおいているのだけど、人の心に巣食う底知れない闇と、そういう闇と隔絶して生きるイーヨーの清浄な心の世界との対比を描いたもの、なんだろうなと思うが、ワタシには人の心に巣食う闇を描いた部分がとても印象深く残った。

絶対音感を持ち、家族の愛情に守られて、自らのうちなる静かな世界で音と戯れる無垢なイーヨーを演じるのが、渡部篤郎というのが、また、ぷふふ、という感じであるが、これで世に出た彼だけに、非常に頑張って誠実に障害者を演じている。この頃はまだ「リカコの亭主」という髪結いの亭主的存在だった。撮影中に大江健三郎と息子・光が連れだってスタジオを訪問して、「あのネ、この人は僕なんですヨ」と渡部を指差して言った時、渡部が喜びで涙ぐんだのを何かのドキュメンタリーで見たが、そんな「純」な時代もあったのだ。今は昔の物語、である。

スランプに陥り、内面的な危機を迎えた作家のパパ(山崎 努)は夜中に狂言のような自殺を企ててママに叱責され、へたり込む。このママのモデルが伊丹の実妹。映画の中でママを演じるのは柴田美保子だが、優しく大らかで芯が強く、どんなピンチにも揺るがない強さを持ってはいるが、外見的にはしとやかな奥さんである。こういう奥さんが大らかに支えていないと、神経のモロい作家なんて、あっという間にダメになってしまうんだろうな。努ちゃんはいつもより控えめだが、初めて息子の声を聴いた話をするシーンなど、やはり良い仕事をしていると思う。

こうして両親が海外に行った間、留守宅と兄イーヨーを守ることになった娘のマーちゃん。無垢なイーヨーにも生理としてたまるものはたまってしまうので、健全にエネルギーを発散させるため、パパに奨励された水泳のため通い始めたプールで、一見爽やかスポーツマンの新井君がコーチを買って出る。この新井君を演じるのは今井雅之。実にうってつけ。フレンドリーな風を装ってはいるが、チラッチラっと底の知れない恐さを醸し出す様子が、この人が生来持っている、スポーツマン風味と、押さえても洩れ出てしまう胡散臭いニオイにマッチしている。新井君の指導でカナヅチだったイーヨーは泳げるようになり、プールサイドを歩くお天気姉さん(緒川たまき)に一丁前に恋もする。緒川たまきって伊丹十三が好きそうなタイプである。このお天気姉さんも新井君の知合いだし、赤いスポーツカーを駆って新井君のアッシーをやっている人妻(阿知波悟美)もいいように彼にアゴでこき使われている。得体の知れない新井君は女使いの達人である。そして、ニコニコしていたかと思うと急に態度を豹変させる。一見感じが良さそうに見えて人知れない病根を心に巣食わせている人間て割に居ると思う。丁寧に塗った壁面の塗料が綻びた部分に、ささくれた地肌が見えてしまうように、どんなに表面を胡塗していても、僅かな綻びから素が見える時、何かおぞましいものを観たような気にさせられる人間がいる。今井雅之はこういう感じをよく表していた。



新井君はかつて保険金殺人事件の疑惑の渦中にいた人物。作家のケイ(パパ:山崎 努)が彼の話にインスピレーションを得て書き上げた小説を映像化したシーンが、他のシーンと異なるトーンで描写されていて非常に印象的。ここに、伊丹十三の映像作家としての精髄のようなものを感じる。このシーンだけ青いフィルターのかかった画面が、しんと鎮まった奇妙な美しさを湛えている。月明かりの田舎の夜道。さわさわした叢に潜む少年…。彼は思いを寄せていた少女を待ち伏せ、叫ばれてそのつもりなく彼女を殺してしまう…。 月明かりの夜の一本道が網膜に残る。

パパを逆恨みしている新井君の罠にかかったマーちゃんはレイプされかける。ここで佐伯日菜子の白いデカパンがあられもなく露出するが、こんなに真正面からムザと撮らなくてもいい。伊丹流の悪趣味である。妹に助けられてばかりいたイーヨーが、ここ一番で新井君に飛びかかり、妹の危機を救う。
この新井君の住むマンションは、かのトレンディドラマの先駆け「抱きしめたい」で浅野温子の住いとして使われたマンションである。市松模様のタイルに見覚えがある。懐かしい。 …閑話休題。



伊丹十三は、満を持して、自信をもってこの作品を世に送ったが、それまでとは毛色の違うこの作品は他の作品ほど観客には受け入れられなかった。処女作から常に大ヒットを飛ばしてきた伊丹にはショックだっただろう。しかも、これは映画監督としての彼が作家的良心を賭けて撮った作品だと思われるので尚更である。以降、彼はまた娯楽路線に戻った。あのまま長生きしていたら、どういう傾向の作品を撮っていたのかは分らないが、取り敢えず「静かな生活」を残しただけでも、映画監督・伊丹十三としては良かったのではないかと思う。ワタシ的にはこれが伊丹十三のベスト1である。


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