春樹、ロング・グッドバイ そして羊をめぐる冒険

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それにしても、3月というのにおそろしく寒い。こんな日は飲みに行くよりも、本でも買って早く帰ったほうがいい。…というわけで、分厚い村上春樹新訳の「ロング・グッドバイ」を買ってきた。いずれ通しでじっくりとは読むけれど、まずはワタシの中で幾つかあるチェックポイントをサクサクっと流し読みしてみると…。新聞の評に出ていたごとく、村上訳は丁寧だが清水訳にあった独特のテンポや歯切れには欠ける。そのかわり形容詞などを少しはしょっていたらしい清水訳で、ややニュアンスが伝わりにくかったところは、ほほ-ん、そういう意味だったのか、と納得がいったりするという利点もある。
甲乙つけがたい、といたいところだが、ワタシは慣れ親しんでいるからということを割り引いても、清水訳のリズム感と心地よい歯切れの良さを買って、6:4 で清水訳に軍配、という印象だった。これはもう、読者の好みの問題だと思われる。たとえば、マーロウとテリーが< ヴィクター>で飲んでいて、自分の今の生活を自嘲的に語り、こんな話は退屈だろう?僕にとっても退屈なんだ、と言うテリーに向かってマーロウが
「退屈じゃないよ。ぼくは他人の話を聞くことには慣れている。そのうちに君が甘んじて犬の生活をしている理由がわかるかもしれない」
というセリフは、村上訳だと
「誰も退屈なんかしていない。私は修行を積んだ聞き手だからね。なぜ君がお座敷プードルのような生活を好むのか、そのうちに理解できるようになるかもしれない」 となる。

「お座敷プードルのような生活」よりも端的に「犬の生活」とした方が、やはりワタシには良いように思われる。こういう部分では清水訳の方がいい。しかし、ラストシーンの訳では村上春樹に断然、分がある。この物語にふさわしい余韻がじんわりと漂っていて、ラストの1ページは完全に村上版の方が良い。このラストシーンでは、清水版は歯切れが良過ぎて些か余韻に欠けてしまうのだ。このラストシーンの訳だけでも、村上春樹が新訳を出した意義があろうというものである。やはりファンはこの2つの訳はどっちも必携かもしれない。相互に補完作用がある気がする。

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村上春樹を初めて読んだのはあの赤と緑と金の帯というクリスマス色の装丁で「ノルウェーの森」が大ベストセラーになったあたりだったが、読んだのはそれではなくて「羊をめぐる冒険」だった。
これで一挙に、ワタシは暫く村上ワールドに浸ることになる。続く「ダンスダンスダンス」とともに、今でも折節読み返す大好きな小説である。その他「回転木馬のデッドヒート」「TVピープル」「1973年のピンボール」「風の歌を聴け」「中国行きのスロウ・ボート」などどれもこれも愛読した本ばかりだ。ワタシは村上春樹のピークは「ねじまき鳥クロニクル」の2巻目まで、と思っているが、短編集の「レキシントンの幽霊」の中で最も好きだった「トニー滝谷」が数年前にひっそりと映画化されたのは嬉しかったのでいそいそと見に行った。そして、やはりワタシは今でも「羊をめぐる冒険」が村上作品中で一番好きである。当初、妙に乾いた調子で始まるこの小説を最初に読んだ時に、どこに惹き付けられたかというと、「僕」でもその友達の「鼠」でもなく、黒服の秘書が"羊つきの先生"について語る「奇妙な男の奇妙な話」の部分だった。

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この「黒服を着た先生の秘書」に関する描写がとても面白い。たとえば彼の手に関しては「すらりとした十本の長い指は長い歳月をかけて訓練され、統御されてこそいるものの心の底には原初の記憶を抱きつづける群生動物を思わせた」とくるし、彼が浅黒く日焼けしていることについては「それがどこかの海岸やテニスコートで冗談半分に焼かれたものでないことは一目見ればわかった。我々の知らない種類の太陽が我々の知らない場所の上空に輝いていて、それがこのような日焼けを作り出すのだ。」といった具合になる。今、振り返ってみるとこういう言いまわしは春樹流のチャンドラー節であると分る。この男は日系二世でスタンフォードを出て「先生」の秘書をしている。そして、その先生というのがモロに児玉誉士夫をモデルにしていると分るフィクサーで、秘書の差し向けた運転手付の車に乗ってこの先生の家に行き、先生の羊に関する要望を秘書から聞かされる下りが、ワタシは最も好きなのである。とにかく「先生」について秘書が語る部分がとても面白く、この本を読み返す時にはその部分だけを読み返すことが多い。これを読んだお陰でワタシは児玉誉士夫にも凄く興味を持ってしまって(前に書いたハワード・ヒューズに対する興味と同じ種類のものであろう)あれこれと本を探したりした。そして、児玉誉士夫にはやっぱり羊がついていたんじゃなかろうか、ロッキードの頃に羊が出ていったのでセンセイは倒れてそれっきりになったのかも、なんて想像して面白がっていた。その部分に魅力を感じていたので、「鼠」についてはイマイチ感興が薄く、テリーに対する好意のようなものを「鼠」に抱くことができなかった。(その後遡る形で「1973年のピンボール」、「風の歌を聴け」を読んでも「鼠」にはさっぱりシンパシーを持てなかった)でも、「羊~」を最後まで読むと「僕」が「鼠」に感じていた友情が伝わってきたし、じんわりとした余韻も残った。

「羊をめぐる冒険」を先に読んでいたので、数年後映画の「さらば愛しき女よ」をTVで見てチャンドラーにはまり、あれこれと作品を読むうちに「長いお別れ」にぶつかり、ラストシーンまで行った時にデジャブのような感覚を味わった。この感じは、アレと同じじゃないの、と。コレはアレなんじゃないの? そうでしょ? と。

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ダニエル・マーロウ

そこでワタシは村上春樹が自分流にアレンジして「長いお別れ」を書いたものが「羊をめぐる冒険」なのだな、という事を悟ったのである。「鼠」はテリーほど読者を惹きつけないが、それは紛れもない春樹流ロング・グッドバイなのである。そして、このチャンドラーへのオマージュとも言えるシーンは続編「ダンスダンスダンス」にも出てくる。「僕」がある殺人事件に絡んで警察の事情聴取を受ける場面があるのだが、ここでいかに警察に尋問されても(現代なので暴力は振るわれないが精神的に追いこまれる)「僕」は頑として被害者と彼を繋ぐキーパーソンである五反田君の名前を言わない。五反田君は「僕」の高校時代の同級生で、クラス委員で成績も抜群のハンサムマン。今ではそこそこ有名な俳優になっている。だから彼の名を出したら社会的に葬られてしまうと思い、「僕」は精一杯の男気を出して友達を守るのである。この部分はテリーのことを頑として警察にしゃべらないマーロウを彷彿させる。マーロウはハードボイルドであるから、ガンガンと刑事に暴力を振るわれる。思えば「羊」の鼠よりも「ダンス」の五反田君の方がずっとテリー・レノックスのイメージに近い人物像である。ハンサムでとても感じが良く、世間的には有名であるが、外からは計り知れない内なる問題に悩まされている五反田君。「僕」はひょんな事から久しぶりに再会した五反田君にまじり気なしの友情を抱く。「僕」のアパートに五反田君が訪ねてきて二人で語らいつつ飲むシーンなどは、まさしくマーロウとテリーがバーで飲む様子そのままともいえる。「どうしても嫌いになることができない男」テリー=五反田君という図式がより意図的に描写されていて(五反田君については" チャーミング"という形容詞が多用されている)これもいわば春樹流ロング・グッドバイの、より強力で思い入れの強いアナザーバージョンと言える作品であろう。なお、これらの作品には春樹ワールド独特の「羊男」なるものが登場する。これは何のメタファーなのかいまだによく分らない。作者の村上春樹以外に「羊男」の意味がわかっている人など居ないかもしれない。
ちなみにワタシのHNであるkikiは「羊」と「ダンス」に出てくる"素敵な耳の彼女"キキからも幾分か戴いてきている。もちろんワタシは「魔力的なまでに完璧な形をした一対の耳」など持ち合わせているわけではございませぬが…。 ふほほ。

ともあれ、ここまでチャンドラーを意識してきた村上春樹であるので、今回新訳を出したことは当然のなりゆきではなかったかと思われるのだ。早川書房から依頼がなくても訳しちゃったかもしれない。でも春樹の訳文はちょっとマッタリし過ぎているような気がしなくもないのだけど…。


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