「それから」

~百合と雨と男と女~
1985年 東映 森田芳光監督


“あの青春の決着はついていない”

これも封切り時に劇場へ観に行った。森田芳光松田優作のコンビが「家族ゲーム」に続いて放つのは漱石ブンガクの映画化ということで「それから」という原作も好きだったから、待ちかねて観にいった覚えがある。なんといってもこれにはサン(小林 )も出ているし、ほかにもいい俳優がたくさん出ている。優作が演じる主人公代助の実業家の兄に中村嘉葎雄。巧い。日本の兄弟俳優は大概、兄はスターで弟は兄よりも堅実でうまい俳優である事が多いが、(渡 哲也と渡瀬恒彦、松本幸四郎と中村吉右衛門など)この人もスターだった兄(萬屋錦之助)より味わいの深い役者だと思う。現在では錦ニィの弟というよりも中村獅童の叔父さんという方が通りやすいだろうか。そして代助の父に 智衆。この作品ではいつも仏サマのような 智衆がものすごく厭な顔をして見せるのが印象深い。もののわかった兄嫁に草笛光子、そして代助と三角関係になる旧友の平岡にサン。平岡の妻になった三千代に藤谷美和子、三千代の亡くなった兄役で風間壮夫が友情出演し、代助の学生時代の友人であくせくと翻訳仕事をしている寺尾にイッセー尾形。代助の書生に元誠意大将軍いまは犯罪者の羽賀研二。代助の見合い相手の令嬢に美保 純(庇髪が似合っている)。そして代助の姪でアイドル時代の森尾由美が無邪気な笑顔を見せている。
三千代を演じる藤谷美和子はとにかくルックスが役にぴったりとハマっている。さびしげではかなげな面差しが意に染まぬ結婚をして流産のはてに心臓を悪くしている薄幸な三千代にピッタリだった。ただ、難点はセリフ。鼻にかかったセリフ回しがアマチュアっぽくて耳に引っかかる。それ以外は風情があって言うことないのだけど、ちょっと残念。



松田優作は文句なし。この作品での優作の変貌ぶりはどことなくバート・ランカスターを思い起こさせる。アクション俳優だった人が苦悩するインテリを演じて鮮やかにはまる姿を見ることの映画的カタルシス。それまで村川 透と築いてきたアクション路線から、森田芳光との出会いにより、俳優として新生面を拓いた松田優作。二人のコンビはその後も何年にも渡ってゆるやかに続いていくはずだった。時代や年齢とともに変容しながら、あらたな可能性を模索していく筈だった。コンビ作が2本で終わってしまうなんて、誰も予想しなかった。
眉間にシワのないのっぺりした顔で「高等遊民」を演じる優作。意外に肩幅が狭いことに気づく。

家に恒産があるので次男坊なのをいいことに、食うために働かないなどと言って実家からの仕送りで悠然と日を送る代助は、若き日の永井荷風のようでもある。漱石はこの「高等遊民」という人種に憧れがあったのかもしれない。自らは没落した名主の家に末っ子として生まれ、一時期養子に出されたりしながら、刻苦勉励して官費留学生となり、教師になってあくせく働き、気の合わない妻に手を焼き、養父に折々金をせびられる日々を送りつつ、夢に見ていたのはさびしげな細面の美しい女と生活を離れて思索や趣味的世界に没入して生きる高等遊民である自分だったのかもしれない。
この食うためになど働かないという代助と、世間の荒波に揉まれて、食うために必死な友人たちとの対比は折々鮮やかに描写される。そのために登場するといってもいいイッセー尾形の寺尾。クスっと笑いも提供して印象に残る。寺尾はロシア文学を修めたが、細々と翻訳で食いつないでいる。「わからない個所があるから教えろ」とやってきた寺尾に「面倒だな」と言う代助。「食うに困らんと思ってそう横着な顔をするな。ちっとは俺に金を貸して真面目にしようって料簡はないか?」とさりげに借金を申し込む寺尾。代助はひょうひょうと「真面目じゃ文学はやれんだろう」と突き放す。寺尾はこの返事を聞くと、突如ロシア語で一人語りを始める。イッセー尾形ならではである。

代助は生きるためにあくせくする人種をすべからく軽蔑している。「実業」に従事する父や兄を内心では俗物と馬鹿にしている。しかし、その兄や父からの仕送りで生きている自分について矛盾を感じないというのは半チクで甘えた根性だ。しかし、そんな代助にもだんだんに憂き世の風が吹いてくる。ある疑獄事件に実家の会社が関わり、会社のテコ入れのために父と兄は遊んでいる代助を資産家の娘と結婚させようともくろむが、学生時代からずっと忘れずにきた三千代と再会した代助は、家のために好きでもない女を貰うことができない。しかし、三千代は人妻で、しかもその夫は自分が引き合わせて結婚させた旧友平岡(小林 )である。平岡は大学を出て銀行に入り、地方支店に配属されたが、いろいろな事が重なり、失業して東京に舞い戻ってきたのだった。
「君は世間に出たことがないからわからんだろうが」という平岡に「僕だって昔から世間に出ているさ。ただ君の出ている世間とは種類が違うだけだ」と代助は答える。代助の出ている世間は観念の世間である。だが、人が生きるには食べ物も必要なら、ゴミも出る。キレイ事だけでは立ち行かないのだ。
平岡に就職先の斡旋を頼まれる代助だが、思うに任せない。現実的な世界での自分の無力さを思い知らされる代助。そして3年の間に、平岡は昔の純粋さを失い、三千代は不幸な人妻になっていた。代助は甘かった自分の生き方、考え方に、次第に復讐を受けることになる。

この映画「それから」ではセット美術と撮影と衣装が非常によくて、明治時代というよりも、大正ロマンというムードがあふれている。暗いフィルターをかけて彩度を落とした落ち着いた色彩の中で、銘仙の着物の柄や、代助が時折あがる遊郭の襖模様が鮮やかだ。麻の白いシャツに、二重回しの代わりにコートを羽織った優作の姿は大正時代でも現代でも違和感なく通用しそうな装いである。全体の雰囲気に大正カラーが色濃く、夢二の描く挿絵の世界のようでもある。夢二ワールドでは男は大抵なで肩で弱弱しく、ほっそりとした女性と嫋嫋と寄り添っている。代助がしとど降る雨のなか、三千代とひとつ傘に収まって、二人で百合の香りを嗅ぐシーンは、夢二ワールドそのままである。



代助が書生と女中を置いて一人悠然と住まう家は小さいながらも中庭があり、和洋折衷で住み心地のよさそうな家だ。その家で代助は自由気ままに本を読み、音楽を聴きに行き、芝居を見物し、浮世を離れて趣味的世界に生きている。代助は花の香りの官能に浸る男である。原作にもすずらんの花を水盤に浮かべて香りに惑溺するシーンがあったと思うが、花の香りと、それが呼び起こす官能は「それから」に欠かせないファクターである。花を抱えて銀杏返しに結った三千代が代助を訪ねてきて、息が切れたから水を頂戴と言い、コップで花活けの水盤から水をすくって一息に飲んでしまう場面は印象的だ。三千代は物静かで体も弱いが、代助よりも肝の据わった女なのである。いざとなればどんな大胆なことでもやってしまいかねない何かをじっと内に秘めている。この静かだが芯の座った三千代は、表面的には妻として尽くしながらも内心では夫の平岡を受け入れていない。心はずっと代助の傍らにあるのだ。それを事あるごとに感じる平岡は、自分を愛さない妻に焦れ、放蕩を繰り返して借金を増やす。平岡もまた不幸なのである。
三千代は代助に言う。「不親切なんじゃない、私が悪いんです」と。

代助と三千代の間に介在し、二人の想いをつなぐのは百合である。百合の花の香りである。それは三千代がまだ独身だったころに、二人で嗅いだ官能の香りである。そして百合の花の香りにうっとりと酔いしれる二人は同じ精神世界を持っている。それは実際家の平岡には入れない、理解もできない世界である。代助がもっとも通じ合っていた友人は三千代の兄・菅沼(風間壮夫)だった。この兄が早死にをしなければ、二人の人生もここまで縺れはしなかったかもしれないが、兄に死なれて一人になった三千代を愛しながら、友人の平岡に想いを打ち明けられた代助は友のために身を引いて三千代を平岡に譲る。「義侠心」と代助は表現するが、なんといい気な甘っちょろいヒロイズムであることか。この代助の甘っちょろい友情ごっこが自分を含め、周囲をみな不幸にするのである。

好きだった相手が自分ではない人間と結婚してのち、あまり幸せそうでないという噂を聞いたり姿を見たりすることは切ない。そういう切なさを松田優作は静かにせつせつと表現していた。
「そんなに弱っちゃいけない。昔のように、元気におなんなさい」
平岡の留守に一人借家を守り、借金取りに対処する三千代を訪ねずにはいられない代助。

健康を害しかけ、金にも困り、愛のない夫との結婚に諦めにも似たさびしい微笑を浮かべる三千代。「淋しくっていけないから、また来てちょうだい」なんて言われては、男心は疼いてしまう。
しかし、金を貸してやりたくても自分では一銭も融通することができない代助。兄に断られては兄嫁にせびりにいくのが関の山。「いくら偉くたって駄目じゃありませんか」と兄嫁に言われてしまう。


コキュを演じるサン

妻の心がほかの男にあることで荒み、放蕩に走る平岡を演じるサンは、ある意味優作の引き立て役でもあるのだが、赤い襦袢をひっかけて遊郭で酒を飲む様子などサマになっていてサンらしいわぁとニヤニヤする。べっこう縁のめがねをかけてイライラと不機嫌か、皮肉な微笑を浮かべて嫌味を口にするかであるアクの強い平岡が、最後に三千代に向かって「お前は誰の女房だ!あいつが何をしてくれた。今までもこれからも一体何をしてくれるというんだ!」と胸倉をとって叫ぶシーンは、平岡の苦悩と、まだ捨てきれない三千代への想いが噴き出ている。「死ぬつもりで覚悟を決めています」という三千代を思わず押し倒して泣く平岡の背中に、純粋だった彼が、自分を愛さない妻のためにずっと心で血を流してきた事が伺えるのである。

兄と園遊会に出席するシーンや、代助の実家のシーンなど、ロケもいい。殊に代助の実家として撮影に借りたのはどこのお屋敷なのか、例によって旧華族か財閥系の邸宅であろう。原作ではこんなにすごい金持ちであるという設定ではないと思うけれど(これじゃまるで岩崎家級の資産家みたいだ)、この家の内装などもいい感じである。これまた明治というよりは大正風。兄嫁・草笛光子の大ぶりな束髪も柳原白蓮風で、その衣装はやはり大正風な着物だ。


草笛光子

この兄嫁は兄や父よりも代助にとっては心を許せる相手で、唯一の理解者でもある。
代助は、父や兄の奨める縁談を受けられないと兄嫁に告げる。

「嫂さん、私には好いた女があるんです」
「そんな方があるなら、なぜその方をお貰いにならないの?」

「…貰えないから、貰わないんです」

この兄嫁との会話が契機となり、代助はついに百合の花を買えるだけ買って、
雨の日に、三千代を家に呼ぶ。

「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。 承知してくださるでしょう?」

「…残酷だわ。もう少し早く言ってくだされば。 …仕方がない、覚悟を決めましょう」

彩度を押さえた画面の中で、ラムネの壜や、水盤のガラスの質感が美しく、また百合の花の、雨のしずくにぬれたしっとりとした質感もよく出ていた。そういえば漱石ってよくよく百合の花が好きらしい。「夢十夜」の第一夜にも、もう一度きっと会いに来ると言って死んだ女が、百年ののちに百合に生まれ変わって咲いてきて、鼻の先で骨にこたえるほど匂った、というくだりがある。
百合って、確かにそんな感じのする花である。

原作のセリフをそのままに生かした筒井ともみの脚本、渋い色彩の映像と淡々とした演出、斬新でいながらネオ明治というよりは大正のテイストを程よくにおわせた美術や衣装、徐々に抜き差しならぬ状況へと追い詰められていく代助。そして終盤に至ってカタストロフがどっと押し寄せる構成の妙(兄の怒りはご尤も。父や兄にとっては、のらくらと理屈ばかり達者で最終的に家の名に泥を塗る代助は本当に苦々しい存在にちがいない)など「それから」の世界を見事に映像化した作品。梅林 茂の音楽もしっとりと世界観を盛り上げている。



適宜入ってくる都電の車内の情景は、代助の心象風景だろうと察しはつくが、どういう心象をあらわしているのかは、森田芳光流の遊び心ではっきりとはわからない。
が、アヴァンギャルドなこの都電のシーンには、いかにも森田芳光らしいムードが漂っている。

恋愛のため、ついにあんなにも軽蔑していた「食うために働くこと」をはじめざるを得なくなった代助。しかし、汚名にまみれ、勘当されてまで手に入れた三千代は持病があり、長くは生きられぬ体なのだ。それは罰なのか、それともやっと本当に人生を生き始めたということなのか。

「僕はそう生まれてきた人間だから、罪を犯すほうが自然なんです。
世間の罪を得ても、あなたの前に懺悔することができれば…」

炎天下に職探しに飛び出していく代助を待つのはどんな試練なのか。

誠ハ天ノ道ナリ 人ノ道ニアラズ…。


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