「愛の悪魔」

~白いデカパン~
1998年 イギリス ジョン・メイブリィ監督



「愛の悪魔」を観てしまった。 なんか、観てしまった、という感じである。
うーむ。
ダニエル・クレイグ。役柄もあって盛大に脱いでいる。白いデカパン一丁の姿がとても印象に残る。なんであんなにデカパンなのだ? あれによって表現しようとしたものは何なのか?…分らない。絡み合うイメージのシーンでは盛大にプリケツも出てくる。バスタブではすっぽんぽん。(この映画は全く無修正である。映倫も最近はかなりユルくなったんだろうか。”ゲージュツ”映画には縛りが甘いのか)そう。そんなにまでダニエルは脱ぎまくり、一生懸命に、アル中で、ドラッグにも中毒してしまっている若者を演じているのだけど、観ていてなぜか強力に印象に残るのはデレク・ジャコビのベーコンの方なのである。デレク・ジャコビ、怪演である。まるで乗り移ったかのような鬼気迫る演技。実際のベーコンがどういう人だったのかは知らないが、デレク・ジャコビの創造した人物像には猛烈な説得力があった。実に、こんな人だったに違いあるまい。入魂の演技である。彼が鏡の前で化粧をするシーンには思わず笑った。入りこんでいる。思わず手を打ってブラボーと言ってしまいそうになった。
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話としては、やはり男と男の間にも、女と女の間にも男と女の間にも、起こりうる事を描いている。なんら特別なことではない。愛には始まりと終りがあるのだ。ベーコンがダイアーを気に入り、そして、飽きてしまうまでの経緯はよく分る。おもちゃのように愛玩し、自分にない無垢さを愛し、それが創作意欲に火をつけ、愛情生活と創作生活は幸せにリンクする。しかし愛人の無垢さ、などというものは徐々に失われていくものなので、創作意欲を掻きたてなくなると、相手に対する興味は失せてくる。このへんは別にフランシス・ベーコンだけに限ったことでもない。よくある事である。あらたに映画の題材になったのは、ゲイであるメイブリィ監督が自らの体験も踏まえて、愛の消滅により精神的にも破綻する愛人の方にスポットを当てたいという試みからである。ただ、ジョージ・ダイアーについて資料が殆ど残っていないため、彼がそんなにもベーコンに惹き付けられた理由が、どうも映画を観ていてもはっきりしない。なんでそんなにまで取りつかれたように彼につきまとわざるを得なかったのか。お金の問題ではなかっただろう。それまで生きてきた世界と全く別な強烈な世界を引きまわされて、しかも、自分はその中に受け入れてもらえないという事で、益々執着が深まってしまったものであろうか。ダニエルはいつものように、なりきって、不安神経症に脅かされ、どんどんとタバコや酒や麻薬の量が増え、常に悪夢にうなされるダイアーを演じている。演じているのだけど、どうしてそこまで追いこまれていくのか、が、イマイチ分りにくいため、あまりシンパシーが感じられないのである。これはダニエルの所為ではなく、脚本のせいである。ダニエルも折角の黒髪であるが、「シルヴィア」の時とは事変り、素敵印はつかなかった。しかし、印象的だったのは、無知蒙昧な若者らしいしゃべり方をダニエルがしていた事で、いつも殆ど訛りのない滑らかな英語を話す、というイメージのダニエルがコテコテの訛りの入った発音でしゃべるのを聞いているのは楽しかった。「シャンパイン(シャンペン)!」とか叫んだり、ね。

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またも出血の大サービス

ワタシは自分が飽きっぽく、ずっと何かに執着していることができない人間なので、ベーコンの気持ちの方が自然によく理解できた。(それもなんだかう?む、な気分であるのだけど…)
結局のところ、ジョージ・ダイアーはあらゆる物に中毒し、オーバー・ドーズでこの世を去るのだが、彼が一番中毒してしまったのはフランシス・ベーコンに対してなのだろう。この中毒は解毒できなかった。らせんのように抜け出せなかった。
それにしても、あの白いデカパンには参ったなぁ。そしてヨレヨレのランニングシャツ。外側は幾らベーコンに誂えてもらったスーツでパリっとしていても、ダイアーはいつも、下着はこのヨレヨレランニングと白いデカパンである。これは彼の中で変らない(変れない)何かを象徴していたのかもしれない。それにしても、脱いだ服をとても丁寧に畳んで、椅子の背にかけるシーンが印象的である。あれはダニエルのアイデアかな。なんか、そんな感じがする。

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