「善き人のためのソナタ」

~包装はいらない、私の為の本だ~
2006年 独 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナー



ドイツ映画を見るのは随分久しぶり。暫くぶりに聞くドイツ語が耳に涼しく聞こえた。ドイツの女優は大柄で、ハリウッド女優のごとく頑張った人工的なプロポーションではないが、そのリアルさ加減もドイツ映画の良さだろう。この映画は、「体制」というものに振りまわされる事の愚かさ、物悲しさを通して、「体制」なるものの胡散臭さと、究極の茶番の中で人間性を取り戻す男の姿に、「人ってなかなか捨てたもんじゃないんだ」と言う事を静かに伝えてくる作品だと思う。
旧社会主義国家ではどこでも秘密警察が暗躍し、国内の思想統制や、不穏分子の弾圧に血道を上げていた。そんな1984年の東ドイツ。秘密警察(シュタージ)の腕利き局員ヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)は、国家に忠誠を誓うガチガチの男。これまでにも多くの反体制分子を取り調べ、冷徹に自白させてきた。その彼が次に目をつけたのは劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)。そこに有力者ヘムプフ大臣からもドライマンの監視命令が下り、その友人の過激な反体制ジャーナリスト、ハウザー共々24時間の監視体制下に置く事となる。だが、この大臣、ドライマンの劇の主演女優で恋人でもあるクリスタ(マルティナ・ゲテック)に邪心があり、邪魔なドライマンの身辺にキナ臭いものを無理にも発見して拘引しようというハラがあった。共産体制下の監視社会では有力者の庇護がなければどんな憂き目にあうか分らない。ドライマンも内心では東側の体制に不満だが、表面的には国家に尽くす劇作家として体制を仕事に利用している。恋人の女優クリスタも、死ぬほど嫌だと思いつつ、スケベ大臣に誘われると断ることができない。デブオヤジの大臣に、クリスタが車の中で否応もなく迫られるシーンでは、あのコマネチも大統領の倅にこんな風に否応なく迫られて拒むわけにはいかなかったんだろうなぁ、と思いを馳せた。

優秀な猟犬のように鼻が利き、機械のように冷徹に任務を遂行するヴィースラー。彼が作業員を連れて白昼ターゲットの家に鍵を器具であけて入り、着々と事務的に盗聴装置を仕込む指示をするシーンは、その非情な局員ぶりを強く印象づける。そして暗い盗聴小部屋に引篭もり、部下と交替でずっと他人の生活を盗聴し、目の前に置いたタイプで適宜報告書を打つ。陰陰滅滅とした業務を淡々と無表情でこなすヴィースラーだが、恋人同士が愛し合い、リベラルに意見を交わし、演劇や小説や音楽を楽しむ様子を盗聴するうちに、次第にこの二人にシンパシーを感じるようになる。が、彼は最初に下見で芝居を見に行った時に、既に女優のクリスタに心を動かされていたのだ。舞台上の彼女に魅せられていた。そして、大臣に遊ばれてその車を降りるクリスタをドライマンが見るように仕向けたりしながらも、戻ってきたクリスタを何も言わずにドライマンが慰めるのをウットリと盗聴したりする。その夜、住まいに戻った彼は衝動に動かされて売春婦を呼ぶ。(やってくる売春婦が大崩れ体型なおばちゃんなのが何やらドイツっぽい)このあたりからヴィースラーはいかに自分の生活が味気ないものであったかに徐々に気付き始めるのである。その翌日、彼はドライマンの留守宅に入りこみ、ブレヒトを一冊持って帰る。そのロマンティックな一節を読むヴィースラーの表情が当初とかなり変化している。そして弾圧された親友の自殺を知らされた日、ドライマンがピアノに向かい、ヴェートーベンの「善き人のためのソナタ」を弾くのを聴く…。 
「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」
親友の自殺をキッカケに、体制に甘んじていたドライマンは密かに反旗を翻すことを考える。そして、危険を侵して西側の雑誌に東の体制を批判する記事を掲載することに成功するが…。

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独裁体制下では文化人の立場は微妙である。庇護を得られなければ悲惨な末路が待っていると知りつつ、主義主張を貫くことができるのか…。自分の名声は体制に支えられたものではないかという不安が拭えず、禁止薬物への依存をやめられないクリスタ。彼女が大臣の愛人になるか否か悩んでいるのを知っているヴィースラーが、思わず禁を犯して彼女の前に出て、あなたは立派な芸術家なのだ。自分を見失ってはいけない、と諭し、クリスタに「いい人ね」といわれて何とも言えぬ哀しげな表情をする。その目の色。
ついに反体制活動を始めたドライマンの行動を報告書に書かず、密かにかばうヴィースラーだが…。

興味深かったのはベルリンの壁が崩壊して以降、新生ドイツになってからは、旧東ドイツの監視記録が閲覧できるということ。自分が監視されていた記録が読めるのだ。壁の崩壊で一本の線が隔てていた価値観も崩れ去る。命がけで潜りぬけたことが資料となって自ら読めるという不思議さ。体制に踊らされるという事の茶番のような馬鹿馬鹿しさ。昨日まで死ぬほど大変だった事が、今日からはなんでもない事になるという「基準の崩壊」。人は管理・統制下で監視されながら生きるようには出来ていない。理想の社会を作ろうと起こした革命が、結局は人間性を全否定する管理社会にしかならないという事実。それが人間の限界ならば、枠の中で全てを封鎖されても本来あるべき姿へと目覚めることができるのも、また人間の可能性である。
性善説であろう監督の、33歳という若さがいい方向に出た作品。一人も抜きん出て強い人間も悪人も登場しない。ある状況下では誰にでも起こりうる、普通の人々の等身大の物語。
自分にとっての「善き人のためのソナタ」とは何だろうか、とふと思った。

徐々に変化していく目の表情をきめこまかく静かに演じるウルリッヒ・ミューエ。ラストの彼の一言と、その洗われたような表情に、映画を見終えて久々に目頭が熱くなった。

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