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「Godfather」

~甘美な郷愁と皆殺しのバラード~
1972年 米 フランシス・フォード・コッポラ監督

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あまりできのよくない暗黒街物を見たあとで、なんだかどうしても見たくなるのが「ゴッドファーザー」シリーズだ。
1作目と2作目は比類ない傑作で双璧のようにそそり立っているのだが、個人的な好みからPart?のレビューを昨年、先に書いた。なんといってもあれはデ・ニーロが宗教画のように美しい顔で最高の演技をみせた作品であるし、パチーノの無間地獄の孤独にも鷲掴まれた。しかし、この1作目にはデ・ニーロは出ていない代わりに、マーロン・ブランドが出ているのだ。数日前、久々にこの1作目を見て、改めてまたつくづくと堪能した。「ゴッドファーザー」1作目、2作目を超える作品なんて、もうコッポラ本人にも撮ることはできないだろう。そしてPart?のレビューがあって 1作目がないというのも奇妙なものなので、この際レビューを書いてみることにした。
「ゴッドファーザー」は原作者マリオ・プーゾとコッポラの共同脚本が本当によくできている。
今、見返してみてPart?への伏線が淀みなく張られている事にも関心する。
ドンであるビトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)を中心に、長男ソニー(ジェームズ・カーン)次男フレド(ジョン・カザール)そして三男マイケル(アル・パチーノ)の性格がしっかりと描かれ、持ち前の性格がそれぞれの人生に及ぼす波紋もドラマティックに描かれる。そして、俳優がみな巧い。本当に巧いなぁ、といまさらに関心する。それはきちんとキャラを描きこんだ脚本の良さが支えているのだ。
たとえば、短気で粗暴なだけのように見えるソニーだが、偉大な父を恐れ敬い、弟や妹をとても愛しているという側面も過不足なく描かれている。大学坊やとからかいながらもマイケルの身を案じて護衛をつけたり、愛人のところから戻る途中で妹コニーの様子を見に行ったり、自分の妻子よりも妹や弟を愛しているかのような、そのアニキぶりに長男らしい兄貴でもあったんだなぁソニー、とホロリとしてしまうのである。

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短気で単純な性格が死を招く 長男ソニー

そして情けなさ代表のようなフレドを演じるジョン・カザールの巧いこと!彼にも理想はある。尊敬するパパのようになりたいのだ。しかし、彼には何も備わっていない。度胸も胆力も判断力も知性も。何もないのだ。自分には届かない理想のまえに、彼はひたすら酒に逃げ、女の尻を追い回すだけである。妹コニーの結婚式から始まるこの作品で、初登場からすでにフレドは酔っぱらって現れる。腕力に秀でた兄と、賢い弟に挟まれ、気がいいだけで何の取り柄もない次男坊烏のフレドの悲哀はこの時点でも既にうっすらと漂っている。極めつけは殺し屋に狙われた父ビトーのすぐ傍に居ながら、慌てて取り出した銃をお手玉している間に、父は背後から何発も撃たれてしまう。このシーンで、車の脇に声もなく倒れた父を見ながら、腰を抜かして舗道にへたり込み、なすすべもなく頭を抱えて泣き、挙句には「パパ!」と叫ぶ事しかできない無能の人フレド。このフレドのダメっぷりを実に鮮やかに表現するジョン・カザール。この配役の妙。

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次男フレド 無能の人

そして、まだ若くかわいかったタリア・シャイアが演じる男運の悪い妹コニー。男前に弱いコニー。そしてパパが大好きなコニー。晴れの結婚式の日、父ビトーがコニーをエスコートして輪の中央に進み出て、悠然と招待客に身振りで挨拶をし、娘をリードしてあの哀感にあふれたワルツを踊る。コニーは繋いだ父の手にほお擦りし、ワルツを踊りながら、大好きな頼り甲斐のある父に抱きつく。このとき、パパ大好き!という感じがにじみ出ていて、見ていてしみじみする。「ゴッドファーザー」の中でもっとも美しいシーンでもある成人した娘と父のワルツ。この伝統はPart?でマイケルとその娘メアリーに受け継がれる。シリーズを見てきたファンは感無量になるシーンだ。

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父と娘のワルツ

執務室でさまざまな人間の陳情を聞き、右から左にさばきながら、父ビトーがじっと目で追っているのは期待の三男・マイケルの姿である。マイケルが恋人ケイを伴って現れたのを、ブラインドの隙間からじっと見つめる父ビトーの眼差し。父を愛しているものの、家業を嫌う息子はなかなか顔を見せない。その父と息子の垣根を取り払ったのは、皮肉なことに父ビトーが襲撃され、瀕死の重傷を負った事だった。
5発も食らいながら命を取り止めたビトー。しかし、ボディガードは警察に追い払われ、父は一人で病院の個室に寝かされていた。そのままにしておいたら刺客に殺されてしまう。マイケルは看護婦に手伝わせて父を病室から動かす。あれだけ強大だった父、家族の上に慈愛と威厳をもって君臨していた父が、今は無力なケガ人として病床にある。死にかけている。この父を危難から救うのは自分の他に誰がいようか。
「心配しないで。父さんは僕が守る」。
期待の息子の言葉に、父の目尻から伝う一筋の涙。満足げに微笑む口元。命の危険と引き換えに、期待の三男が傍に戻ったことに安堵する父の涙…。マーロン・ブランド、さすがの演技である。

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このときのしみじみとうれしそうな表情や、マイケルがついに人殺しに手をそめてシチリアへ逃亡した事を聞いたときの遣り切れない表情、そしてソニーの死を知ったときの表情など、マーロン・ブランドの表情が、100万語の台詞よりも雄弁にドンの心情を物語っていた。
そして半引退して余生に入ると老いた父がこまごまと注意を与え、同じことを繰り返すのに「大丈夫だよ、パパ。ちゃんとハンドリングする」と諭すように言うマイケル。ドン・ビトーもついに老いに掴まれた事を端的に示すシーン。いくら注意を与えてもまだ不安そうなドン・ビトー。その頼りなげな様子に、「老い」が集約されている。父は息子に知恵と力のすべてを授け、孫と遊びながら亡くなる。誰に撃たれたわけでもない平和な死である。平和ではあるが、なにがなし物寂しい主の死。人間、いっときはどんなに栄華を極めても一生を終えるときは物寂しいものなのだな、と無常感が漂う。


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父と息子 
父とは、息子とは、そして親子とは、家族とは一体何なのか? ゴッドファーザーを貫くテーマである

そして、マイケル(アル・パチーノ)。シニカルに父と自分の家についてケイに語っていた傍観者のマイケルが、ずっと避けてきた家業に父の奇禍により宿命的に引き戻され、その枕辺で自分が父を守ると決意したとき、彼は傍観者からついに当事者となる。その時、彼はひそかに副意識下で自らの宿命を引き受けたのだ。父の跡を継ぎ、ファミリーを守ることを。父への愛のために。自分を愛してくれた父のために。大学坊やでも海兵隊(マリーン)の英雄。銃だって撃てる。戦場では散々人を撃ってきたのだ。初めて人を殺すわけじゃない。自分がソロッツォ(アル・レッティエリ)を殺る、と言い出してからは、ソニーに代わって彼がイニシアティブをとり始める。冷静で醒めた目つきの大学坊やだったマイケルは、瞬きもせずにソロッツォと悪徳警官マクラスキーを撃ち殺し、表通りを歩く人から、裏街道の人となるのである。父は彼を表の権力者にしようとしていた。組織はソニーに継がせて、マイケルは議員か知事にしたかった。そして、裏で自分たちの世界を操るような大物になって欲しかった。しかし、マイケルは運命により、否応なく裏社会の人間になることを余儀なくされるのである。

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独特のまなざし

この1作目では、アル・パチーノはハンサムであるが甘いだけの二枚目ではなく、知性と既にしてふてぶてしい落ち着きがある。そして、時折夢を見ているような醒めた目つきをするのが印象的だ。まだ若く美しかったパチーノに、この醒めた目つきはとても似合っていた。兄も死に、父も死んで名実ともにドンになると、目力を増し、カッチリと焦点のあった目つきになる。この変化も実に見事。父の存命中にドンとして指揮を取り始めたマイケルに、父の腹心であるクレメンザやテッシオは違和感を覚える。父ビトーには無条件で従えても、マイケルの指示には従えない。父の支配時代とは何かが変わってくる。空気が違ってくるのである。Part?のマイケルの孤独な修羅街道への伏線が実に自然にここで現れてくる。彼にとってはそれまでは愛すべき兄だったフレドも、面倒を見なければならない役立たずの厄介者となる。切れ者すぎて恐怖政治になっていかざるを得ないマイケルの統治。
そして、この1作目ではマイケルはさしてケイを必要としていないのだ。Part?ではケイを愛している様子も伝わってくるが、1作目ではケイの方がマイケルに夢中なのに、抗争が始まると彼女とは音信不通のまま、マイケルはシチリアに飛び、そこで現地の娘を見初めて結婚するのである。まるでケイなど存在もしなかったかのように。この父のルーツ・シチリアのシーンは血なまぐさい抗争に明け暮れる作品の中のロマンティックな部分で、観客も一息つく場面だ。このシチリアでマイケルが見初める娘はさして魅力的とも思えないのだが、この娘が生きていたらそのまま妻として連れ帰ったことだろう。かなり頭が悪そうなので、黒を白と言いくるめるマイケルに簡単に騙されたかもしれず、この娘が妻だった方がマイケルは楽だったかもしれない。が、娘が自分の身代わりに悲惨な死を遂げたため、N.Y.に戻ったマイケルは再びほったらかしておいたケイの前に現れる。それはファミリーを継ぐことを決めた自分に伴侶が必要だからというよりも、ファミリーをつないでいくための後継ぎが必要なので、それを産む妻が要ったから手っ取り早くケイとヨリを戻しただけのようにも見える。「愛しているんだ」なんて言ってもその目は思い切り醒めている。1作目ではケイはかなりなおざりにされている。マイケルは自分に惚れている彼女を都合よく利用しているだけという感じである。さすが冷血漢。また、そういうハンサムでシニカルなマイケルが、このころのパチーノにはとても似合っていた。小さいけど不思議な威厳があって、無言の圧力で周囲を抑えてしまうのである。


ケイを演じるのはあのダイアン・キートンだが、似合わない昔のヘアスタイルで思い切り老けて見える。かなりの後家額。彼女がいい年になってもずっと前髪を下ろしているのはこの抜けあがったデコが理由なのだろう。一番若いときの映画の筈なのに、かなり老けて見えるのも面白い。だが、あまり垢抜けず、平凡な感じのケイだからこそ、マイケルにいいように振り回されても許してしまう女心というのに説得力があるのかもしれない。

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ダイアン・キートン 猛烈なデコっぷり

脇役に目を転じると、なんといってもドンの腹心・クレメンザを演じたリチャード・カステラーノがいい味である。太りすぎて苦しそうだが、料理の腕を振るったり、裏切り者を始末したり、さりげなく大活躍である。ドンの倅たちには、叔父さんのような存在でもある。ワタシはこのカステラーノ演じるクレメンザが好きなのだ。なかんずく、ドンが撃たれて緊張が走る中、マイケルに簡単なイタリアンの作り方を教えるシーンがいい。彼がPart?に出てこなかったのは残念きわまるのだが、何故クレメンザは死んだことになって登場しなかったのだろう。ただ単に原作がそういう設定だったからだろうか。

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太っちょでペーソス溢れるクレメンザ

時代遅れの殺し屋ルカ・ブラッツィも忘れがたい。大男で昔かたぎで純朴だが破壊力抜群(らしい)。みながルカを怒らせたら大変だ、と懼れるのだが、怒るところはついに出せずじまいであっという間に返討ちにあってあの世行きになってしまう。この殺されるときの表情が「アっと驚くタメゴロー」とか言っているときのハナ肇に似ている気がする。だからなんとなく憎めないのだ。でも、ソロッツォと会談のためにこのルカが入っていくバーはかなりお洒落な内装の店で、それこそアールデコ調の扉が印象的だ。タッタリアとソロッツォに簡単にスキをつかれた時代遅れなルカがテーブルに手の甲をナイフで釘付けにされて、背後から首を締められるシーンは今観ても迫力がある。

迫力といえば、ドンの名づけ子の歌手ジョニーの泣き言を聞いて、トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)がハリウッドに遣いに行くシーンも名場面。このプロデューサー・ウォルツの邸宅はよくロケに使われる。「ボディガード」でも、ホイットニー・ヒューストン演じる歌手が住んでいる豪邸として使われていた。元は誰の屋敷だったのだろう。ちょっと知りたい。
ここで、大事にしていた名馬の首がベッドの絹のシーツの上に投げ込まれ、愛馬の血にまみれてウォルツが目覚めるシーンはもういまさら何も言う必要はないだろう。ドンに泣きをいれた歌手のモデルはフランク・シナトラだというのは有名な話。彼がトミー・ドーシー・オーケストラの専属歌手だったのが、売れてきて独立したくなり、トミーと揉めたのを裏社会に頼んで調停してもらったとか、「地上より永遠に」のいじめで殺されるイタリア系の兵士役を落ち目のシナトラがどうしても欲しくて裏社会の手を借りて役を手に入れたというエピソードが、ほぼそのまま使われていて、当時シナトラサイドからチャチャが入らなかったのかなぁと気になったりする。

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よく使われる屋敷


2代目として父の跡を受けたマイケルが、N.Y.を去り、ラスベガスに拠点を移すにあたって、禍根を残さぬよう、父の敵=ファミリーの敵、そして裏切り者をすべて始末するシーンは、コニーの息子の洗礼式に被って描かれる。「悪魔の業(わざ)をしりぞけるか?」と神父に聞かれ、「退けます」と答えるマイケル。が、彼の指示で同時に各地で一斉に行われる殺人。聖なる儀式と殺人とを二重写しで描くというこの二律背反する背徳的な演出は、コッポラの発明だ。本家だけに今観ても畳み掛けるテンポといい、荘重なオルガン演奏の流れる中、次々に行われる殺人という演出は様式美にまで達している気がする。賛美歌が皆殺しのバラードとなるのだ。
裏切り者であるコニーの夫を始末する前のマイケルの顔も、室内ではコントラストの強い照明で光と影にくっきりと分かれ、制裁の為には妹の夫だろうと容赦なく始末し、表の顔と裏の顔を持つ権力者になろうとするマイケルのありようが、その照明だけでも表現されている気がする。

父ビトーの葬式で、裏切り者を見極めたあたりから、マイケルの顔に甘さが消え、ファミリーを守るためには何事も辞さない氷のような無表情が支配し始める。周囲には有無を言わさず、すべてを思ったとおりにコントロールする非情な総帥の顔である。そして、非情な総帥となった彼の前に開けているのは、一人歩まねばならない無間地獄の阿修羅道である。
強大な権力と引き換えに、彼はこののち大事なものを次々に失っていくのだ。
それは彼が選んだ道だが、否応なく選ばされた道でもある。

「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」(by 芥川龍之介)
この映画を見るたびに、ワタシはこの言葉を思い出す。

イタリア移民の壮大なクロニクルという視点で20世紀のアメリカを描き出していたPart?のスケール感の方がやはり上だとワタシは思うけれど、傑作という点では、この1作目もPart?に劣るものではない。パパ・ビトーが全盛を張っていた古きよき時代の終焉から始まるこの叙事詩。傑作というのは何年経とうと、何度観ようと、そのたびにあらたな感銘を与えてくれるものである。1つの無駄もないカット。非情さと叙情性と郷愁のいうに言われない混交。そしてニーノ・ロータの哀愁の調べ…。

「ゴッドファーザー」シリーズを観てしまったことの弊害は、同ジャンルの映画に厳しくなってしまうことだ。どうしても「ゴッドファーザー」と比べてしまう。これまでで一番これと比較してガックリきたのは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」だった。デ・ニーロが出ていたので余計に期待した部分もあって、余計にガックリ来てしまった。部分的にはいいシーンもあったのだけど、サスペンス部分にこだわるあまりに全体のバランスが悪かったし、見ている間中ずっと「ゴッドファーザー」との差にイライラさせられた。比べる方が無理ってものなのだけど。これもある種の「ゴッドファーザー」症候群と言えるかもしれない。傑作って罪作りである。

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