「Godfather」Part2

~コッポラのギリシャ悲劇~
1974年 米 フランシス・フォード・コッポラ監督


悩み多きマイケル

並びたつ傑作のPart1を差し置いて、なぜにPart2から語るのか、と思われる方もいらっしゃるかと思うが、ワタシはいずれ劣らぬ傑作の、この「Godfather」Part1、Part2を比べてみると、断然Part2の方が好きなのである。出来は甲乙つけがたいので、これはもう好みの問題であろう。Part1は2に比べるとロマンティックというか、甘い部分(出来が甘いということではない)があり、そこが魅力でもある。Part2は1に比べると徹底的に甘さはない。その代わりに染み入るような郷愁と苦悩と哀愁が全編を覆っていて、マイケルの苦悩する姿に「君は行くのか、そんなにしてまで…」と毎度遣る瀬なくなりつつも、じっと見守らざるを得ない。
Part2は構成が上手い。Part1の成功の上に作っていて、誰もがビトー・コルレオーネを知っているという前提のもとに、その若き日が描かれ(若き日のデニーロの、青白く引き締まった宗教画のキリストのような面差しは必見)、彼がどん底から止むに止まれず裏社会に入り、少しずつ上昇していく様子と、数十年後、上り詰めたところで父からバトンを渡され、絶対に無縁に生きようと思っていた父の世界―裏社会に首までどっぷり浸かって苦悩するマイケルとの対比が鮮やかだ。マイケルは人並み以上によくやっている。ドンとして、あらゆる方面に抜け目なく目を配り、表社会での顔もきちんと取り繕うことを忘れない。しかし、頑張れば頑張るほど彼は孤独になっていく。家族の為、組織のためと思えば思うほど彼は恐ろしい男になっていかざるを得ず、妻、兄と一番身近な者ほど彼から離れていくのである。否応なく選ぶ暇も無く歩き出さねばならなかったドンへの道。こんな筈ではなかったと思いつつも、いざ歩き始めるとカエルの子はカエル。父ビトーが見込んだ通りマイケルはドンの器を持っていた。持ち過ぎていたというべきか。組織はどんどん大きくなり、運営はより複雑になり、敵はさらに増えた。その複雑な現実を生きぬき、家族を守るため、彼は是非もなく非情なドンになっていかざるを得なかった。全ては家族のためだった。しかし、それが彼から家族を奪ってしまうという皮肉。同じ事をしてきた父ビトーが家族の誰からも愛され、尊敬されて家族の中心に居たのに、何故マイケルは頑張れば頑張るほど一人になってしまうのか…。30数年の時代の違いだけであろうか。それだけではないとしたら、一体そこには何が潜んでいるというのか…。

マイケルの時代は50年代末?60年代初頭でケネディ政権前夜のあたりである。キューバにクーデターが起こり、バチスタ政権が崩壊する時、ちょうどマイケルはその場に居合わせる。老獪なユダヤ組織のボス、ハイマン・ロス(リー・ストラスバーグ!)とキューバを舞台にした儲け話をツメるためである。戒厳令が敷かれ、警報が鳴り響く中でマイケルは兄・フレドーが彼を裏切ろうとしたことを知る。上手く時代色を織り込んだドラマティックなシーンである。当時、ギャングはかなりキューバに投資していたのだけど、カストロが政権を握ったことで、その投資は全てアブクと消えてしまった。アメリカのこの時代はマフィアと政治が裏で密接に繋がっていて、そこにキューバが裏と表で絡んでくるという複雑きわまる時代だった。「アビエイター」で映画になった謎の大富豪ハワード・ヒューズも軍への航空機納入に絡む収賄疑惑で上院議員の公聴会に召還されたりした。ヒューズは嫌々公聴会に出て全てを否定する証言をしたものの、これが元で生来の人嫌いが昂進してしまい、その後の飛行機事故もあいまって人目を避ける隠遁生活に完全に入っていくことになる。余談だが、ワタシはこのハワード・ヒューズという人にも物凄く興味があって(一番最初に名前を知ったのは高校生時代で、ジェーン・ラッセルのブラを設計したというエピソードを何かで読んだ時である)、アンソニー・パーキンス風のひょろりとした二枚目だった若い頃には、ハリウッドで女優と浮名を流しまくり、しかし実際にはホモで、天才的に金儲けが上手く、飛行機を愛し、人嫌いでファザコンだった。中年になり自分で操縦していた小型機を墜落させて瀕死の重傷を負い、その痛みを軽減するために投与されたコデインからジャンキーになり、晩年ノイローゼが昂進してのちは異常潔癖症など様々な強迫神経症に悩まされる。ラスベガスのホテルを買い取り、その最上階のフロアに住んで一歩も外に出ないまま、電話で指示を出して金儲けだけは着々としながら、自らは下着1枚の裸で髪も爪も伸び放題、細菌を恐れて食べ物も極端に限られたものしか口にしなくなり、巨万の富を抱えながら、まるで瀕死の乞食のような姿で生活していたという、あまりにも興味深く面白い人物である。この人の映画が出来るというので「アビエイター」は当初かなり期待して見に行ったのだけど、上っ面の半生をなぞっただけの薄っぺらい出来で、ガックリさせられた。デカプーは頑張っていたとは思うが脚本の問題であろう。ちょっと脱線したが、「Godfather」Part2で公聴会に呼び出されて弁護士トム・ヘイゲンを従え、都合の悪い質問にはマイクを手で抑えてヒソヒソとトムと打ち合わせをしてから答えるマイケルの姿を見ていると、何やらそこにハワード・ヒューズの姿も被ってくるような気がするのである。

middle_1172984493.jpg
マイケル in 公聴会

middle_1172986158.jpg
甲板から見える自由の女神

Part2は、とにかく名場面が多い。殊に若き父ビトーのシーンにそれが多いのだけど、母と兄を地元の親分に殺され、自らも追われて命からがらシチリアを逃げ出した少年ビトーは移民船にもぐりこみ、たった一人アメリカに辿りつく。貧しい移民達が甲板から万感の思いで見上げる自由の女神。幼いビトーもその姿をじっと見上げる。絶望の淵から辛くも逃れて新天地に辿りついた彼の目に、自由の女神の姿はどのように映ったことだろうか。そして初めてアメリカに入港する移民たちにとって、自由の女神が果した役割はまことに大きなものだったのだなと改めて思うのだ。新天地で待ちうけるのは希望なのか、絶望なのか…。ここで思いきり叙情的に盛り上がるPart2のテーマ曲とともに、忘れ難い名場面である。

middle_1172986553.jpg
少年ビトー

次に忘れ難いのは、真面目に働いていた食料品店をその横槍のお陰で辞めるハメに追いこまれたリトルイタリーの元締めドン・ファヌーチを、キリストの祭りの日に、ビトーが撃ち殺すシーンである。(この祭りの音楽もまた、憂愁を帯びていていい)通りを埋める祭りの喧騒のさなか、青白い頬のビトーはシーツで幾重にも包んだ銃を持ち、憎々しいファヌーチを眉一筋動かさずに撃ち殺す。銃声は表通りの爆竹にまぎれてしまう。そして、巻いたシーツに火がついたのを、くるりくるりと廻して消そうとする時も、全く慌てず無表情のままのデニーロが印象的だ。その後、祭りの音楽が流れる中を屋上に上がって銃をばらし、あっちこっちの煙突に投げ込んで証拠を隠滅し、何事もなかったように家族の元へ戻っていく。抱きかかえた赤ん坊マイケルのモミジのような小さな手をじっと見つめるビトー。全ては生きていくため、家族を守る為なのである。

middle_1172986463.jpg
妙な味わいのあるファヌーチ

この聖なるイベントのさなかに殺しが進行するという演出はPart1でもPart2でも殊にラストで印象的に出てくるが、これはコッポラの編み出した手法であろうか。いずれにしても今日となると「Godfather」のトレードマークとも言うべき演出法になり、Part3ではバチカンにまで舞台が飛躍する。(話としてはスケールアップしているのに映画としては前二作よりもスケールダウンしているのが面白い。)若いビトーを演じるロバート・デニーロはほっそりとして青白く、無口で思慮深く、情けに篤いが恨みは忘れず、地味な妻と、子供たちをこよなく愛し、セリフは作ったしゃがれ声でイタリア語オンリー。とにかく非常に魅力的である。

middle_1172986764.jpg
生涯最高の二枚目ぶりか。美しいデニーロ。手がとても綺麗な事に今回気づいた

middle_1172989582.jpg

この父が輝かしく見えれば見えるほど、無限地獄に落ちて一人あがくマイケルの苦悩・苦闘がくっきりと対比されて浮かび上がってくるのである。この重層構造が非常によく出来ていてドラマが一段と奥深くなっており、そこがPart1とPart2の差なのだろうと思う。しかし、あのPart1あってこその Part2。やはりこの2作は並び立つツインタワーのようなものであろう。

Part2では父ビトーが住んでいたニューヨークの家は幹部に譲り、マイケルはネヴァダ州レイクタホに移り住んでいる。ネヴァダはラスヴェガスのあるところ。組織の凌ぎの舞台がニューヨークからラスヴェガスに移っているという時代の推移を表している。ここでマイケルの屋敷に使われているのはレイクタホのカルネヴァ・ロッジ。フランク・シナトラの別荘だった建物で、政界や暗黒街から大物を招いて秘密のパーティがよく開催されていたらしい。50?60年代のアメリカ裏面史を彩る闇の舞台のひとつである。

middle_1172989643.jpg

カルネヴァ・ロッジ

この時期のアル・パチーノはまだ甘さを残した二枚目で、「スカーフェイス」以降どんどん人相が悪くなり、そんな凶悪な顔じゃ到底フツーの人の役は出来まい、というところまで行ってしまうのだけど、この時はその甘さの残る面差しで苦悩するマイケルを演じているのでうっすらとシンパシーを抱いてしまわざるを得ない。好き嫌いは別として、若い頃のアル・パチーノとキ○タク先生は少し似ている感じがする。「流産したんじゃない、あなたの子供を生みたくなかった。中絶したのよ」と妻ケイ(ダイアン・キートン)に言われて瞬間真っ白な表情になるマイケル。ケイの気持ちもわかる。この時のダイアン・キートンは後のオシャレさんが嘘のようにおばさん臭くてモッサリしているのだけど、インテリ女性の感じがよく出ていて、マイケルが普通の中流家庭で育ったケイのそういう部分を愛していたのだなという事も伺える。このケイを、マイケルは生涯愛しつづけるが、若い時期、初めて殺人を犯してシチリアに逃亡した時には現地妻を拵えてケイを裏切った過去もある。このあたりはPart1でロマンティックに描写され、Part3で郷愁をいざなう回想シーンとして入ってきて、シリーズのファンには若いマイケルの甘いマスクと、岩を刻んだような苦悩の刻まれた初老のマイケルの顔との間に流れ去った時を実感させられる場面でもある。

middle_1172986950.jpg
甘さの残る二枚目マイケル

middle_1172989334.jpg
…まぁ、苦労なさったのね…

middle_1172989911.jpg
フレドー。 マリア様への祈りも虚しく…

Part2では、キューバで兄フレドーの裏切りを確信した時、マイケルがガクリと顔を伏せ、大きな手で額を覆うシーンも印象的だ。この立ったまま顔をがくっと伏せて、大きな手で額を支えるシーンは何度か出てくる。(アル・パチーノは体の割に、手が物凄く大きい)ラスト、レイクタホで兄フレドーを殺し屋の手にかける時も、銃声の響いた刹那、マイケルはボートハウスで顔を伏せる。父ビトーなら、こんな場合にどうしたろうか。彼にフレドーのような兄がいて、よし裏切られたと分った時も、ビトーは肉親なら許したのではあるまいか。肉親だからこそ許せないマイケル、肉親だからこそ許すであろうビトー。父と子の違いはこの辺に根深く存在するのかもしれない。

middle_1172991444.jpg
兄の裏切りに顔を覆う

middle_1172989936.jpg
湖面を渡ってくる銃声に顔を伏せるマイケル

このヘタレだが憎めないダメな兄・フレドーを演じたジョン・カザールはアル・パチーノとは個人的にも友達で「狼たちの午後」などコンビで傑作もある。いい俳優だったが骨腫瘍のため42歳で早世した。その他、さすがの貫禄を見せるリー・ストラスバーグ、いつも手堅いロバート・デュバル、男運の悪い妹コニーを演じるタリア・シャイアなどそれぞれにいい仕事をしている。そして、なんといってもニーノ・ロータが紡ぐ哀愁の旋律の数々。重層構造の緊迫したドラマを包み、時の流れを繋いでいく美しくも哀愁に満ちたそのメロディがこの作品に果した役割は計り知れない。

middle_1172991652.jpg
ジョン・カザール

出来のいい息子にも不出来な息子にとっても等しく父ビトーは敬愛の対象だった。この名実ともに一族のドンである父を中心にファミリーは血の結束で固まっていた。ラスト近くで、まだ学生だったマイケルが兄達と食卓を囲みつつ、海兵隊に志願したことで少し言い争うシーンがある。(時あたかも日本軍が真珠湾攻撃をしかけた頃のお話である)その日は父ビトーの誕生日。一家をあげて父の帰宅を待ち望んでいる。出演交渉が決裂したとかでPart2には一切マーロン・ブランドは姿をあらわさないが、却ってそれがこの食卓のシーンには有効だった気がする。コルレオーネ家においていかに父の存在が大きく暖かいかという事を、その不在が強力に表現していた。玄関に父の気配がすると飛び立つように出迎える家族。一人残るマイケル。郷愁をそそる食卓シーンである。
一族のハッピー・ゴールデン・デイズはもはや過ぎ去ってしまった。父が守っていた幸せな家族の幻想は父の死とともに終焉を迎え、母も逝き、いずれも非業の死を遂げた二人の兄と、子供を連れて去った妻に取り残されたマイケルは、一人阿修羅の道を進むしかないのである。枯れ葉の中でただ一人、過ぎ去った家族との日々を回想するマイケル。懸命に守ろうとすればするほど、指の間から幸せはすりぬけていってしまう。全ては徒労だったのか。組織は大きくなったが、父から託されたものは果して守りきれたのか?
偉い親父を持った息子は、超えられぬ父の大いなる幻影に生涯つきまとわれるものであろうか。望まない道で懸命に努力した挙句に、一番大事なものを失うマイケルを観るたび、男は哀しい生き物だ、と思わざるを得ない。エディプス・コンプレックスに肉親殺しの要素も絡んでくるとなれば、これはもうイタリアン・マフィアの姿を借りたコッポラ版ギリシャ悲劇という様相さえ呈してくるようだ。

         コメント(13)