そして流れ星のように… 「大場政夫」

My favorite Stars 第5回目は映画スターではなくスポーツ・ヒーローで行ってみたい。というわけで、今回は元WBA世界フライ級チャンピオン「逆転の貴公子・大場政夫」

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我が家は父が大のボクシング好きだったので、ゴールデンタイムにタイトルマッチが放映されると必ず見る家庭だった。リアルタイムで見て印象が強いのはチョッチュネ?の具志堅用高だが、父が並みいるボクサーの中でもっとも好きで大絶賛していたのは、かの炎の男・輪島功一であった。輪島さんはトリッキーな性格から、今はまるでパンチドランカーのような独特の話術でボケてみせているが、あれはちゃんと計算の上で引退後のTV上でのキャラを構築しておられるのだと推察する。父いわく、輪島はクレバーで、トリッキーでガッツの塊のような見ていて魂が揺さぶられるようなボクサーだった、と。通常よりもずっと遅いプロデビュー。肉体労働をしながら25歳でデビューし、28歳でチャンプになった。三度王座をすべりおち、三度王座に輝いた。誰にもマネのできないその軌跡。ワタシはリアルタイムではほとんど輪島の試合の記憶がないため、Number監修の輪島の試合ビデオを買った。伝説のカエル飛びに大笑いしながらも、日本ボクシング史に残る柳 済斗とのリターンマッチに異様な感動を覚えた。

この輪島巧一と同時期に輝ける日本ボクシング界のもう一人の星だったのが、夭折した若きチャンプ・大場政夫だった。
ワタシはこの大場政夫については全く知らず、名前をうっすらと聞いたことがあるだけだったのだが、大人になってから、彼を取り上げたドキュメンタリーを見てその生き様と死に様に心を捉まれ、すっかりファンになった。
彼の活躍期は昭和40年代なかば。少年マガジンでは「あしたのジョー」が連載中だった。(大場政夫は「あしたのジョー」のモデルではない)ボクシングの世界チャンピオンが昭和40年代の始め、日本に4人もいた時代である。彼は21歳でチャンプになり、五度防衛。最後の防衛戦が終わってわずか23日後に、首都高速で事故死した。享年23歳。現役チャンプのままの死だった。

階級はフライ級(50.8kg)だったのだが、この軽い階級ではほぼ165cm以下の小柄な選手ばかりの中で、168cmあった彼は見た目にもスラリとして、しかも甘いマスクのハンサムマンだった。おまけにボクサーにありがちなカン高い声ではなく、落ち着いた低い声の持ち主。帝拳ジムの女性マネジャー・長野ハルさんの計らいだろうか、ガウンが「王子」を思わせるようなデザインで、それがスラリとしてハンサムな大場政夫に似合っていたため、「貴公子」というニックネームを奉られたが、この「貴公子」、大変に気の荒い、東京下町でドブ板を踏み鳴らして育った貴公子だった。

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王子風ガウンで

昨今、ボクシングの世界でも、相撲の世界でも、とんと日本人でこれという選手が出てこない。あの厳しい世界では、本当に飢えた記憶がないとモノになるかならぬか定かでないのに、人生を賭けて飛び込み、全力を傾注して打ち込むことなど到底できないのだろう。ほかにいくらも、もっと楽をして稼ぐことができる時代に、何が悲しくて食べたいものも食べずに減量したり、朝も早くから竹刀で叩かれつつ土俵で転がったりしなくてはならないだろうか。おまけに昔のボクシングは15ラウンドもあった。長かったのだ。

大場政夫は、まさに時代が生んだヒーローだった。今の時代には出てきようもないヒーローである。まだ、焼け跡の記憶も生々しい昭和24年、東京荒川区に職人の息子として生まれた彼は、日本が全体に貧しい中でも、さらに貧しい家の生まれだった。絵に描いたような貧乏の子沢山家庭の次男坊。ばくち好きな父親のおかげで家計は毎度火の車。プールに行く金もないので、荒川で泳ぎ、何も道具が要らないのでマラソンをやっていた。そのことが後にボクサーに必要な強い足腰を作ったのだから、人生何が幸いするか分からない。

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中学生時代。色白でほっそりした少年だった

彼は幼いころから、雨漏りのする貧しい長屋を早く出て、自分の力で庭付きの広い家を建て、母をそこに住まわせると決めていた。「きっとそうする」と彼は母に言ったという。生い立ちの年代や、その家庭の様子などは北野 武あたりと非常に近いものがあると思われる。そういう時代、そういう家庭だったのだ。そして、その時代にはまだ腕っぷし一本で、夢をかなえることもできた。ゼニはリングに落ちていたのだ。

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生まれつき気が強かったというよりも、ケンカに負けて帰ることを親父が許さなかった為、後天的に負けん気な性格が育ったらしい。横暴な父と、家計のやりくりで必死な母の苦労を見て育った少年は、中学を出ると昼は御徒町の菓子問屋で働き、夜は帝拳ジムの練習生として単調な練習に明け暮れる日々に入る。生い立ちはまさに極貧。生卵1つをかき混ぜて一家7人でごはんにかけて食べてオシマイという夕食もザラだったという。骨身にしみた貧乏のつらさ。彼はどうしても這い上がらなくてはならなかった。生爪をはがしても自分の力で抜け出さなくてはならなかった。
どん底の人生から。ゼロ以下の貧乏から。
それが彼をロードワーク主体の単調な練習に耐えさせ、オーソドックスなワンツースタイルのボクシングの基本を習得させた。
17歳でライセンス取得。それから4年で悲願のチャンプになった。そして、約束通り、親の為に家を買った。

きわめて気の短い、ケンカっ早い性格でありながら、それが目的のために必要であり、どうしても避けては通れないことならば、非常に辛抱強くそれに耐えた。くる日もくる日も続く単調な練習、そして試合前の10kgにも及ぶ過酷な減量。その他にも普段から体重をコントロールするために、美食もせず、女は間違いの元なので虫がつかないようにジムが目を光らせていた。
飢えだけが、彼を支えていた。そして、二度と再び飢えないために、なんだろうと負けるわけにはいかなかったのだ。

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4度目の防衛戦で

彼が逆転の貴公子と呼ばれたのは、初回に不用意に相手のパンチをもらってダウンし、形勢不利かと誰もが思ったところから、粘り強く態勢を立て直し、最終的には鬼のようなラッシュで相手をリングに沈めるという勝ち方を何度かしているからである。
普通なら、あきらめるか投げるような場合でも、彼は信じられないほどの負けじ魂を出して状況をひっくり返した。そういう粘り強さは、輪島にも共通するが、この二人がそろって昭和40年代のチャンプだったのは偶然ではなかろう。いまの時代には生まれようもないガッツは、二度と振り返れない貧乏の記憶が支えていたのだ。この時代の人間なら誰でもできたという事ではけしてないけれど、やはり時代と無関係ではなかろう。

いろいろな試合をTVで見たし、辰吉丈一郎については最盛期の試合を生で観戦に行ったこともあるが、どの試合も常に不満だったのはラッシュが弱いということ。大場や輪島の試合をビデオででも見てしまうと、どうしても比べてしまい、なんでもっと詰められないのか、と歯がゆい思いでいっぱいになる。彼ら以後の選手では最盛期のカンムリワシだけが、そんな不満を抱かせなかった。散々戦ってきて、疲労困憊の果てに、それでも怒涛のラッシュをかけられるパワーは体力を超えた何かである。

そして語り伝えられる彼の最後の壮絶な防衛戦。昭和48年1月2日(松の内!)対チャチャイ・チオノイ。チオノイのロングフックで不覚のダウン。瞬間膝にきて、しりもちをつく時にその足の踝を捻った。やっと立ったが捻挫で力が入らず、誰もが大場はヤバいと思った。顔面は蒼白。だが、そこから足をかばいつつ、ジワジワとペースを取り戻し、12回に遂にチオノイをロープ際に捉え、執念のラッシュでKO勝ちを決める。

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初回にダウンを奪われたチオノイを12回、ついに捉える

チャンプになったらそこで終わりではない。防衛しなければチャンプになったウマミはないのだ。持たないときにはただ飢渇が彼を支えた。が、ひとたび持ったら今度はそれを失えないという強迫観念にさらされる。年毎に減量はつらくなる。しかし、彼は誰にも弱音を吐けない男だった。いつも強がっていた。家族にはあまり不機嫌さを見せなかったが、ジム関係者には苛立ちをぶつけまくったという。
そんな彼の唯一のはけ口がスポーツカーを乗り回すことだった。この唯一の趣味が、彼の人生を奪い去ることになる。


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流線型のコルベット

その日は1月にしては妙に暖かい日だったという。彼は埼玉の実家まで、自慢の車で首都高を走っていた。反対斜線は数珠繋ぎの渋滞だったが、くだりは空いていた。空いた高速を快適に飛ばしていた政夫は、なんでもないカーブを曲がり損ねて中央分離帯を飛び越え、渋滞中のトラックに激突し、ほぼ即死した。

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彼は世界チャンプ。これまで何台もスポーツカーを操ってきた彼が、なぜ事故を起こしたのか。原因は今もさだかではない。スピードは明らかに出しすぎだった。が、事故にまで至ったのは、居眠りなのか、防衛戦の後遺症か、車自体の設計ミスなのか、諸説あり、どれもありそうで、どれともいえない。直接の死因は脳挫傷と頭蓋低骨折。脳は鼻や口まで溢れ、一部体外にも流出していた。ハンドルで胸を強打して肋骨が11本折れ、肺も破裂していた。だが、その顔は眠ってでもいるような、なんの傷も損傷もない美しい死に顔だったという。呼びかければ今にも目を覚ましそうな、そんな顔のまま、大場政夫はこの世を去った。 その日、彼は白いスーツを着ていた。

ワタシはいつも、夭折する人の人生の無駄のなさに感歎する。大場政夫は戦い殴られる青春を生き、1軒の家とチャンピオンベルトを残した。その人生の純粋無雑な美しい軌跡。その容姿、その性格、その時代、その運命、すべてが間然するところがなく、まさにパーフェクトな夭折するチャンプの人生だった。
しかも、淡い恋物語もあるにはあるが、そっち方面はオクテだった大場政夫にはドロドロした人間模様はない。どこを切っても時代を象徴するような、漫画の主人公のような若いチャンプ。その物語の完成度に、ワタシはいつも運命の不思議さ、人生の皮肉さを思う。
早死にする人は、死ぬべくして死ぬのかもしれないが、早死にする人だけが持つ、「選ばれてしまった人」の輝きはまぶしい。
大場政夫はきっと、存命中には楽しいことよりも苦しいこと、辛いこと、一人でじっと耐えることが9割を占める人生だったのではないかと思うが、その対価は、「永遠のチャンプ」の称号。
けして忘れ去られず、色褪せず、永遠に若いまま輝き続けるのだ。

彼がいまわの際に見たものは何だったのだろうか。
恐怖に歪んだり、苦しみをにじませたりしていない、その安らかな表情で。

ともあれ、負けることが何より嫌いだった彼が、不可能と知りながら望んでいたこと、「永遠にチャンプでいること」が果たされたことに、ファンとしては静かに喝采を送りたいと思う。存命だったらもうじき60歳。
…還暦間近の大場政夫、う?ん、想像できない。

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