「ベニスに死す」

~真夏の死~
1971年 伊/仏 ルキノ・ヴィスコンティ監督

middle_1215270579.jpg

なんだかむしょうにヨーロッパな香りのする映画を観たくなり、久々に「ベニスに死す」を鑑賞。
何をいまさら、というのは百も承知でやはりちょこっと書きたくなってしまったので、レビューというよりもこの作品についての雑感を少々。

冒頭から厳かに流れ来るグスタフ・マーラーの交響曲第5番第4楽章。
これだけで一挙に吸い込まれるように映画の中へ誘われる。ヴィスコンティ、さすがの選曲。ムードを盛り上げているとともに、映像にも実にそのために作られた音楽のようにぴったりとマッチしている。この映画を最初に観たのは多分高校生の頃で、TV放映でだったと思うのだけど、初めてマーラーの交響曲を耳にした。
原作では小説家ということになっているアッシェンバッハを音楽家にしたのはどういう理由があったのか忘れたけれど、マーラーのイメージも盛り込みたかったからだったっけかしらん。

憂鬱そうに船のデッキの椅子に座り、朝やけの中に浮かぶヴェニスの姿を眺めるアッシェンバッハ。朝露にぬれたかのようにしっとりとした壮麗な建造物の数々。ゴンドラが音もなく蒸気船に寄ってくる。
ここは、ヴェニスに上陸する前の船の上で、アッシェンバッハが異様な若作りの老人に出くわすのは暗示的なシーンである。流行の服を着て、髪を染め、顔に化粧を施してはしゃぐ老人を薄気味悪い思いで眺めるアッシェンバッハ。
まさかそのうち自分がそっくり同じ真似をすることになろうとは、つゆさら思いもしないで…。
船からゴンドラでリド島へ行き、エクセルシオール・ホテルに入り、支配人に慇懃に部屋に案内されるが、過度に慇懃な支配人に早くもゲンナリ気味なアッシェンバッハ。
この支配人役の人(ロモロ・ヴァリかな)もヴィスコンティ組でよく見かける俳優だ。

middle_1215270333.jpg

ワタシはこの映画で初めて長期旅行用の大きな衣装ケースというものを見た。アッシェンバッハのイニシャル「GVA」が入った黒皮の非常に立派なもので、なぜかワタシはこういうものにとてもヨーロッパを感じるのである。ここでアッシェンバッハことダーク・ボガートの着ているグレイのスーツも、地味なようだが実にしゃれたデザインの形のいいスーツで、そうそう、この映画は衣装もとても良かったんだなぁと再認識した。
この時代(1900年代初頭)の女性の服装も非常に優雅。花を飾った大きな帽子からは薄い紗のヴェールが垂れて顔を覆い、服は細身のシルエット、長い真珠のネックレスなどが非常に似合う。そしてタッジオの着る、セーラー服を始めとするシンプルでエレガントな衣装の数々。

ディナーのために正装し、幼くしてなくなった娘の写真にキスをし、なぜかすこし躊躇ってから妻の写真にもキスをするアッシェンバッハ。
夕食がサーヴされるまで、ピアノとヴァイオリンの演奏を聴きつつホールで待つ。優雅でいい。
ここはアッシェンバッハが初めてタッジオに気づくシーンである。
原作にもあるが彼の3人の姉妹たちはみな修道女のような地味な服装で髪もぴったりと撫でつけられているのに対し、少年タッジオの髪ははさみを入れるのをためらったかのようにふさふさと縮れながら額から首まで垂れている。「青白く優雅にむっつりとした顔は蜂蜜色の髪に取り囲まれ、鼻筋は通り、口元は愛らしく、優美で神々しい生真面目さをたたえていて、最も優れた時代のギリシア彫刻を思わせる」ものであり、また更に「その造形が完璧なものであるにも関わらず比類なく個性的な魅力を持っている」と原作に描写されている通りの少年が画面に映しだされる。
ビョルン・アンドレセン。本当によくも見つけたものである。何度観てもそう思う。

middle_1215270623.jpg

この映画は1971年の作品だが、1970年(昭和45年)に死んだ三島由紀夫はこの映画を観ずに逝ってしまった。観ていたらどんなに喜び、賛嘆したことだろうか。三島がどんな言葉で賞賛したのか、ちょっと読んでみたかった気がする。
そしていかにもこの少年の母にふさわしい美しき母にシルヴァーナ・マンガーノ。
「家族の肖像」の時とはガラリと趣を変えて優美な麗しい母として登場する。姿といい、風情といい、文句なしの「麗しき母」。
ダダーンな肉体派でデビューしたシルヴァーナ・マンガーノが、臈たけた貴婦人として箸(フォークですかね)よりも重いものは持ったこともない、というやんごとない雰囲気をかもし出す見事さ。大きな帽子と真珠が似合う。この映画のマンガーノは殊に美しい。まさに「想い出の中の美しき母」の姿である。

middle_1215270779.jpg

1911年、イタリアを旅行したトーマス・マン夫妻は実際に家庭教師と4人の子供に一人の母というこのポーランド人一家にホテルで遭遇しているらしい。マン夫人であるカーチャの回想によると、地味な服装の娘たちの魅力のなさに引き換えて、13か14の少年の美しさは際立っており、水兵服を来た少年は暫くじっとマンの目をみつめていたとか。マンはその少年がいたく気に入り、ホテルでもどこでもしきりにその姿を求めていたという。仲間と砂浜で遊ぶ少年を見張るかのように眺めていたというマンの姿は、そのままアッシェンバッハの姿に重なる。この実在したモデルのポーランド人男性は、ヴィスコンティが映画化する頃まで存命だったが、タッジオ探し行脚でワルシャワにも訪れたヴィスコンティがこのモデルになった人物に会ってみるかと聞かれて「私の中のタッジオのイメージが壊れるのを望まない」からと断ったという。これはヴィスコンティでなくてもお断りな話であろう。かつては文豪にインスピレーションを与える程の美少年だったとしても、もはや面影を辿るのも難しい老人になっているのだし…。

エレベータに乗ったアッシェンバッハの後からどやどやと少年たちが乗り込んできて騒々しさにウンザリする音楽家。が、その中にタッジオがいると分かると、ほぅ、と思わず顔が緩む。少年はそんなアッシェンバッハをからかうかのように周囲の少年たちと笑い合い、自分のフロアでエレベータを出て、上目遣いでじっとアッシェンバッハを暫く見てから、ふっときびすを返して去っていく。
少年になぶられたと思ったアッシェンバッハは怒りのあまりホテルを引き揚げる事にする。
翌朝、食堂の前の廊下ですれ違ったタッジオはやはり不思議な誘惑者の微笑を浮かべて初老の疲れた芸術家を見る。この幼い誘惑者の思わせぶり。
「さらばだ、タッジオ」と呟くアッシェンバッハ。何か後ろ髪を引かれるような思いでホテルを引き払ってゴンドラに乗り、駅へつくと手違いで荷物は全てコモに送られてしまったと知り、アッシェンバッハは係員を叱りつけながらも喜々として再びリドに戻る事を決める。運命が再び彼をヴェニスへと向かわせるのだ。
意気揚々とリドのホテルに戻る時のアッシェンバッハの浮かれようはどうであろうか。
再びタッジオの傍に戻る口実が出来たのだ。
が、ここでコレラの脅威がすぐ足元まで迫っていることも描かれている。アッシェンバッハは疫病で瀕死の男を駅で見かけるのである。

リドのホテルに戻ったアッシェンバッハは、自分の中の枷をはずしたように少年タッジオの姿を追いかけ始める。海へと続く回廊でついてくる彼の目の前をからかうかのように支柱のまわりをくるり、くるりと廻りながら音楽家を見て、ふいにさっとかけだして行く少年。このシーンでアッシェンバッハのタッジオへのリビドーは抑えがたいほどに高まり、音楽家はヨタヨタと一列に並んだ更衣室の裏手を歩き、自分の衝動におののくのである。

middle_1215270931.jpg
あぁ、もうなんだか抑え切れない 自分で自分が分からない…

サロンのピアノで雨だれな「エリーゼのために」を弾くタッジオを悶々と眺めつつ、彼は昔娼館で買った、細身でまだ少女のようにうら若い娼婦の事を思いだすのである。そしてすれ違うたびにアッシェンバッハに意味ありげな微笑を投げかけて通り過ぎるタッジオ。
タッジオの微笑はそこはかとなく、ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」の誘惑者の微笑を思い出させる。両性具有体の誘惑者の妖しい微笑だ。
ワタシは昔から「モナリザ」よりも「洗礼者ヨハネ」の方が好きだった。
荒野の洗礼者の筈が、あの妖しい微笑はなんであろうか。ただごとならない。
アッシェンバッハは「そんな笑顔を見せてはいけない。君は誰に対しても、そんなふうに微笑んではいけないのだ」と呟き、「愛している」と闇に向かって告白するのである。

middle_1215272684.jpgmiddle_1215272707.jpg

その後、コレラが迫っている事を知った彼は、タッジオの母にそれを伝えて避難を促さなくてはと思いつつ、おろおろと逡巡して泣きださんばかりである。
彼の脳裏には幼くして病で死んだ娘の記憶がよぎっているのだ。
この映画でのダーク・ボガートは大半を苦渋に満ち、オロオロと苦悩している。その懊悩の度合いがあまりに激しいので、そうまでウジウジせずとも、と思わないでもないのだけど、そのギクシャクとしたロボットのような歩き方や、プライドが高く、傷つきやすく気難しいムードの出し方が最初から最後まで一貫していて、映画の持つ空気感と一体化している。これはやはり彼ならではの役なのだ。

そして、ワタシの大好きな理髪店のシーン。「白髪だな…」というアッシェンバッハに、理髪店の店主が「お任せください」と小さな銀色の容器に黒い染料を垂らして刷毛の先につけ、アッシェンバッハの髭や白髪を染め始める。手付きがいい。それから、白いスティックタイプの顔料を出して、なめらかな手付きで顔に塗りつけていくのだけど、一連の動作が流れるようでアッシェンバッハならずとも気持ちよさそうだなぁと思ってしまうのである。背後ではひそやかに交響曲第 5番第4楽章が流れている。鏡の中で若返った自分の顔に満足の笑みを浮かべるアッシェンバッハだが、蒸気船の中で見た面妖な若作りの老人と自分がそっくりであることに、今の彼はもう気づかないのである。

middle_1215271120.jpg
ぬめらかな手付き

死の影の迫る街を、紺のセーラー服姿のタッジオの後を追ってよろばい歩くアッシェンバッハ。
タッジオは街のあちこちで、よろよろと自分を追ってくるアッシェンバッハをさりげなく歩みを止めて待つのである。導くように。
このへんはいかにも、はい、そこらで立ち止まって3つぐらい数えてから横を向いて、腰に手を当ててごらん、とか言われてその通りに動いています、という感じがするビョルン・アンドレセンがほほえましい。他にも辻音楽師の弾くヴァイオリンの音の切れ目に合わせてキっとアッシェンバッハを振り返ったりする場面など、はい、そこでこっちを向いてごらん、と言われてるんだなぁという感じがアリアリしている。そして、そのキメのポーズが長い手足でヤケにきまっているのが心憎いばかり。
すすけた柱の影から自分をじっとみつめる初老の男に、タッジオはちゃんと気づいていて、「やぁ、来たんだね」というような視線を向ける。
このシーンのヴェニスの退廃は見事。ここに限らずこの映画の中のヴェニスはあまり晴天の時はなく、多くは曇天で非常に湿気が多そうな感じである。廃れゆく都市の腐臭のようなものが画面からも発散していて、この退廃がきわまった饐えたような空気こそが、ヴェニスの真髄ではないかという気がする。

middle_1215271158.jpg
この閑散と退廃はどうだ

そうこうするうち、ポーランド人一家はついにヴェニスを発つ事になり、アッシェンバッハは浜で見納めになるかもしれないタッジオの姿を目にやきつけようと炎天下に椅子を出す。ラストのこのシーンだけは残るくまなく晴れた、暑熱の度合いが察しられるような真夏の日差しの只中だ。
アッシェンバッハの衣装も白麻のスーツ。赤いタイと帽子の赤いリボンがやけに目に鮮やかである。グレイのスーツでねずみ男のようにくすんでいた彼が化粧で若返ってお洒落をしているのだが、その白いスーツは皮肉にも死装束となるのだ。

タッジオは仲間の少年とふとした事から取っ組み合いになり、組み伏せられてしまう。
ただでさえ体が弱り気味だったアッシェンバッハは、ハラハラするあまりに発作を起こす。
やがて、仲間を振り払ったタッジオは一人水際へ歩いていく。
14歳の、美しい少年の姿をした死神は、アッシェンバッハを誘うように振り返り、そしてつと腕を伸ばしてかなたを指差す。
約束に満ちた、恐るべき世界の中へと、老いて病んだ音楽家をいざなうのだ。
体を捻って腰に手をあてているポーズは、ヴェロッキオのダヴィデ像のようである。
このヴェロッキオ作の美少年像は若かりし修行時代のダ・ヴィンチがモデルだというのが通説だ。
死神に魅入られたアッシェンバッハは髪染めの染料が汗で溶け出した黒い筋を顔に垂らしながら異様な化粧の顔で至福の中に息絶える。
その真夏の死に、世界は恭しい驚愕に胸打たれるのである。

middle_1215271492.jpgmiddle_1215271501.jpg
体をねじって振り向くタッジオとヴェロッキオのダヴィデ像

下手が撮ったらどうにもならない退屈な映画になってしまいかねないのだが、最初から最後までゆるぎなく観客を引っ張るのは陶酔感だろうか。
セリフもなく淡々と情景を撮っているだけのシーンもけっこうあるのだが、冗長さなどは一切感じないし、一瞬も飽きさせない。
海辺で作曲をするアッシェンバッハの前をバスタオルを体に巻きつけたタッジオが静々と海辺へ歩いていく姿はギリシャの神のようでもある。
海辺を日傘をさした婦人たちがゆっくりと画面を横切って行く優雅な様子は、さながら映像で綴る音楽のようでもある。

middle_1215271584.jpg

アッシェンバッハはタッジオの「美」に、芸術家が作り出したものではない、自然が産んだその精妙さに驚嘆するのだが、この映画の持つ、選び抜かれ、計算されつくし、粋を凝らし、贅を尽くして構築された美しさは、まさに芸術家が作り出した「美」の極致と言えるものかもしれない。

        コメント(4)