「カイロの紫のバラ」 (THE PURPLE ROSE OF CAIRO)

~それでも人は夢を見る~

1985年 米 ウディ・アレン監督

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この映画は封切り時に劇場では観なかったのだが、ビデオ化されてわりとすぐに観たと思う。何を隠そうワタシはこの映画のラストに輝かしくフィーチュアされている「トップハット」の1シーンを観てすっかりフレッド・アステアのファンになり(それまで殆ど「ザッツ・エンターティメント」と「パリの恋人」及び「タワーリング・インフェルノ」でしか見た事がなかった)、当時LDで出ていたロジャースとコンビのRKOミュージカルのタイトルは全て入手し(まだDVDは無かった)、87年に渋谷シネマライズで企画されたアステア&ロジャース映画のリバイバル上映もいそいそと観に行った。ちょうど大恐慌時代のスターだったとはいえ、「映画の夢」を象徴するものとしてアステア&ロジャースを持ってくるとはウディ・アレン、さすがに心憎い。♪Heaven I'm in heaven とスイートな声で歌うアステアの歌(この歌はオープニングタイトルにも流れて非常に耳に快い)とロジャースをリードする優雅なダンスにアーヴィング・バーリンの音楽…ラストにアステア&ロジャースを登場させた事が登場人物のみならず、映画そのものも軽やかに救っている気がする。
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長らく手元に劣化が進んだ録画のVHSしか無かったのだけど、最近映画チャンネルで放映され、鮮明なデジタルリマスターの映像で久々に観た。これと「ラジオ・デイズ」は80年代のウディ・アレン作品の中で殊更にノスタルジックな味わいが効いていて好きな作品だ。あまりメルヘンタッチが好きではないワタシがどうしてこれがOKかというと、ところどころにちりばめられた30年代を懐かしむ視点(その頃、アレン爺は幼児だったろうけれど)と、何と言ってもラストのアステア&ロジャースである。あのラストが無かったら正直ちょっとキツかったかもしれないが、オープニングタイトルとラストシーンを飾るアステアの「チーク・トゥ・チーク」がこの映画へのワタシの印象を決定したと言ってもいい。


不滅のコンビ フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース

多分、ウディ・アレンはアステアのRKO時代の映画を観ていてこの映画のヒントを思いついたのだろうが、大恐慌下に失業した亭主を抱えた貧しいウェイトレスのセシリア(ミア・ファーロー)が、うだつの上がらない日常をいっとき忘れる為に入った映画館でうっとりと見つめる劇中劇「カイロの紫のバラ」には30年代RKOの脳天気なミュージカルコメディの空気が横溢しているし、そのセットや遊び歩いている有閑階級の登場人物たちの様子などは、アステア=ロジャース映画からそっくり抜け出してきたようだ。ダメ押しにRKO制作の映画だという設定までしてある。その上、脇役の中にアステア映画の常連だったエドワード・エヴァレット・ホートンにそっくりな俳優が混ざっていて、ウディ・アレンのコダワリっぷりをその辺からも感じる。この映画は、不況期の大衆に癒しを与えたRKOのミュージカル映画=アステア&ロジャース映画に捧げた、ウディ・アレンのオマージュとも言えるだろう。


生活に負け、世間に負けた枯れススキ状態のセシリア(ミア・ファーロー)

アメリカの30年代は有頂天だったローリング・トゥエンティが金融恐慌で弾けてしまった後の、暗い不況の時代だった。街には長い失業者の列が続き、いつ果てるとも知れない不況に人々は打ちひしがれていた。(今の金融不況はこの時の大不況以来と言われてますね)ヒロイン・セシリアを取り囲む状況も当然のように侘しく、キビシい。うだつの上がらない亭主を抱えている上に、そそっかしくて皿やカップを割ってばかりの彼女はケチなダイナーをクビになってしまう。泣きながら家路を辿る彼女の足は、帰途にある映画館にまた吸い込まれる。そこで展開されるのは、暢気で浮世離れた冒険とロマンスの世界。彼女とは生涯、無縁な世界である。安ウェイトレスだったセシリアが、あまつさえ失業しても映画を観られたのは、映画の料金が安かったからだろう。ニッケル・オデオン(5セント劇場)などという黎明期の時代から、アメリカは映画の料金は安かったのだと思う。大衆の娯楽として定着するにはリーズナブルな料金体系は欠かせない。大恐慌でめり込んだ大衆がいっときでもツライ憂世を忘れるために映画館に押しかけたのは、もっとも手軽で安価な娯楽だったからだろう。


浮世離れた映画の中の人物たち

セシリアがいっとき夢見心地になって映画館を出て家に戻ると、失業した亭主がウダウダと文句を言ったり、働きもないクセに女を連れ込んだりしている。このノッソリと大きなイタリア人のダメ亭主にダニー・アイエロ。この人もこの映画で初めて観た。その後も息長く脇役で活躍している。


ダニー・アイエロ

劇中劇「カイロの紫のバラ」のモノクロ画面がいかにも30年代の映画らしい空気を漂わせていて好きだ。ここでナイトクラブの歌姫として現れるノッポの女性(カレン・アカース)は、なかなか雰囲気のある人なのだが、この作品と「心乱れて」でしか観た事のない女優。彼女が歌う歌も、歌うシーンの背後に並んでいるバンドスタンドの様子もいかにも30年代的だし、そのバンドのマスターが、突如ステージ中央に出てタップを披露してしまうあたりも、アステア&ロジャース映画をパロってます!と声高に叫んでいるようなシーンだ。



これでもかというほどに打ちひしがれたセシリアが映画館に日参するうちに、スクリーンの中から登場人物トムが抜け出してくる、というのは映画ファンが一度は考えそうな陳腐ともいえそうなファンタジーではあるが、それを押し切ってしまえるのは、大恐慌下という時代設定と劇中劇「カイロの紫のバラ」の思いっきりな浮世離れっぷりにあるだろう。登場人物が抜け出してしまった後、出演者たちでブツクサ言ったりする楽屋裏みたいな様子を観客がそのまま座って観ていたり、抜け出してきたトム(ジェフ・ダニエルズ)が毎回、ナイトクラブのシーンでは君のことを見ていた、なんてセシリアに言ったり、なんだか映画ではなく舞台から役者が抜け出してきたのと同じような状態になったりするのだが、まぁ、そういう風にしか作りようはないかもしれない。フィルムの筈のトムが、毎回同じ芝居を繰り返していてウンザリだ、と舞台俳優のような事を言ったりするのはちっと妙な感じだなとも思うのだけど…。


スクリーンから抜け出してくるトム

リアル・ワールドに出てきてしまったトムがセシリアを連れてレストランに行くが、景気よく支払っても芝居用の金なのでトラブルになったりする。そんなわけで、今度はトムに連れられてセシリアが映画の中に入ってしまい、またまた大混乱を来たすが、そんな周囲をヨソに映画の中でセシリアとトムは有名クラブをはしごして楽しむのである。この部分の演出は昔ながらの、店の電飾のロゴや、泡立つシャンパングラス等が背景に現れ、トムとセシリアがその前で踊ったり抱きあったりしているという伝統的なあの様式である。



映画が空転して劇場から泣きつかれたRKOは、トムを演じた俳優ギル・シェパードをセシリアの元へ行かせる。(ギルを行かせるために映画会社重役が「ファッティ・アーバックルのようなスキャンダルになっていいのか?」と脅し文句を言うのも笑える)架空の人物であるトムが純粋にセシリアを愛したのに対し、俳優ギルは事態を収集するためにセシリアを誘惑し、駆落ちという餌で釣る。

セシリアが生身の俳優ギルに幻惑されている時に、トムがさびれた遊園地で出会う娼婦役で登場するのがお馴染みダイアン・ウィースト。厚い化粧で誰かと思うほど下品な顔に造っているが、セリフをしゃべりだすとスィートな声でいつもの彼女だと分かる。トムとギルの二役を演じるジェフ・ダニエルズも脇役として堅実に出演を続けている。あまり魅力はないが端正な二枚目で、この映画の役にはピッタリだった。


娼婦の厚化粧で顔が違ってみえるダイアン・ウィースト

幻を抱きしめていれば良かったのに、セシリアが現実への欲を出した途端に魔法は解けて、全ては無に帰してしまう。もう二度と夢のようなロマンスは戻らない。夜中の12時を過ぎて馬車はカボチャに戻ったのだ…。失恋したトムは映画の中へ戻り、事態を収集したギルはさっさと西海岸へ戻る。残されたのは、トムと束の間燃え上がる前よりも、もっと惨めになって全てを失ったヨレヨレのセシリアただ一人である。ファンタジーはほろ苦い現実に駆逐され、踏み潰される。絶望し、重い足をひきずって歩くセシリア。仕事もなく、帰る場所もなく、ロマンスも失った。毎日通った映画館にはもう「カイロの紫のバラ」はかかっていない。新しく封切られるのはアステア&ロジャースの「トップハット」である。徹底的に苦い現実に打ちのめされたセシリアはヨタヨタと映画館のシートに座る。俯いて失意に沈んでいた彼女の顔を上げさせるのは、アステアの甘い歌声とロジャースとの華麗なダンスである。



つるつる、ピカピカとしたセットを優雅にくるくると回りながら中央に進んで行くアステアとロジャース。見つめるセシリアの顔にはいつしか微かな笑顔が浮かび、その目は恍惚とスクリーンに向けられている。夢はスクリーンの中にしか無い。現実にすり潰されたセシリアが再び顔を上げて前を見るためには、スクリーンに投影された幻で、いっとき現実を忘れるしかないのだ。


絶望の二文字だけだったセシリアの口元に微笑が湧いてくる

アステア&ロジャースの映画が殊更に浮世離れていた理由は、ひたすら恐慌期の大衆にツラい現実を忘れさせる事に主眼が置かれていたせいだと、この映画を見るとよく分かる。アステア&ロジャースの映画は歌い踊るためだけに存在し、ストーリーなどあれども無きが如しであるが、華やかで軽やかで浮世離れていて、何よりロマンティックだった。苦しい現実に喘いでいる時に、誰が眉間にシワを寄せた重苦しい映画など観たいだろうか。この大不況時代の大衆とアステア&ロジャース映画は、最も端的に大衆と映画の関係性を表したものと言えるだろう。基本的に、映画は人々にとって「夢」であってほしいというウディ・アレンの願いもほの見える。また、かつては本当に「夢」でありえた時代の映画に対する羨望と愛惜の念も籠められているような気がするのである。

コメント

  • 2009/06/20 (Sat) 01:41

    kikiさん、こんばんは。
    ラストはなんだか切なかったですよね。つい、現実的な方を選んじゃうセシリアの気持ちもわからないではないですが・・・。
    アステアの踊りって、”幸せの象徴”なんじゃないかって思うときがあります。「再会の街で」という作品で、家族を失った主人公が夜中に一人で観ている映画がアステアとリタ・ヘイワースの作品でした。kikiさんのレビューを読んで、それをちょっと思い出しました。

  • 2009/06/20 (Sat) 11:12

    「アステアの踊りは幸せの象徴」…そうかもしれませんね。観ていてなんだかホワリと幸せな気持ちになりますよね、彼の優雅なダンスは。「再会の街で」という映画は未見なんですが、思いだしてみると映画の1シーンにアステアのダンスシーンが入ってくるものはけっこう有るような気がしますね。今思いだしたのは「レインマン」。兄弟が最高度に兄弟として親密になったラスベガスのホテルのシーンで、あの頃出たばかりのソニーのポータブルTVでダスティン・ホフマンの兄がアステアの映画(ジンジャーとの最後の共演作ですね)を見入るシーンがありますね。あの時も、「あ!アステアだ」と思うだけで観ていて気持ちが和みましたわ、確かに。幸せの象徴ですね。うんうん。

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