「スパイダーマン2」 (SPIDER-MAN 2)

~悩める Eensy weensy spider~

2004年 米 サム・ライミ監督



アメコミ物に興味のなかったワタシが、初めて「お!」と思ったのがサム・ライミの「スパイダーマン」(2002)だった。1作目の封切り時に最初に予告編を観た時の、あのビルの谷間をひょうーん、ひょうーんと渡ってくるスパイダーマンの浮遊感に「ほぉ」と感心した事をいまだに新鮮に思いだす。あれこれと悩み多き若者ピーター・パーカーのキャラ設定もしんみりとして翳があり、単純なアメコミヒーロー物の枠を脱していた。私生活で踏んづけられまくりのピーターは、スパイダーマンになっても労多くして報われない事夥しいので、ちっとぐらいは報われてちょうだいな、と思いつつ健気に奮闘する姿を見守ってしまうわけである。スパイダーマン・シリーズは外れがないというのが定評で、確かにどれも面白い。が、シリーズ3作のうちでワタシは2作目が一番好ましい。というわけで、今回はスパイダーマン2。

アメコミのダークなヒーローといえば、バットマンシリーズもある。悩みを抱え、葛藤する翳のあるヒーローが主人公というのは同じだが、スパイダーマンのほうは若者が悩んでいるのでバットマンより軽やかである。トビー・マグワイアの顔に愛嬌があり、童顔で漫画チックである事も、アメコミ変身物に違和感を感じない理由かもしれない。久々に再見してみて、主人公のキャラ設定と彼を取り囲む様々な要素が実にうまく作られているな、と改めて思った。大富豪で、金にモノを言わせてギアを作らせまくりのバットマンに対し、こちらは貧乏で身ひとつの徒手空拳。家賃の支払いに追われながらの人助け活動なのも泣かせるところだ。



1作目では自分の殻を破って何者かになろうとする若者の苦闘を描き、2作目は、何者かにはなったものの何かを手にしたら何かを失うという交換の法則に直面し、超人としての生き方か、個人としてのピーター・パーカーかという二者択一の前に葛藤する若者を描いている。ここでピーターの懊悩に拍車をかけまくるのが、駆けだしの舞台女優で、美人でもないのに男の影が絶えない赤毛の女・MJ(キルスティン・ダンスト)である。赤毛の女は奔放なのだ。
「ダークナイト」ではヒースの熱演が話題になる一方で、ヒロインを演じたマギー姉ちゃんの美人度に難ありという厳しい声があちこちで上がっていたが、アメコミのヒロインにファニー・フェイス系を持ってくるというのはこの「スパイダーマン」シリーズが最初だ。1作目でキルスティンを観た時にはこりゃかなりアップがキツイぞよと思ったが、2作目ではさほど気にならなくなった。慣れとは恐ろしいものだが、MJはあれでいいのだろう。



生活の為のバイトと、世直し人助けで余暇のないピーターは、MJ主演の芝居を観に行く事もままならない。折角行っても上演開始に遅れて締め出されたりして、MJサマのご満足がいくようにはなかなか動けないのである。そんなピーターに焦れたMJは他の男とあっさり婚約したりして、悩めるピーターを更に追い込む。そんなこんなでピーターが蜘蛛男に変身する事に懐疑的になると、蜘蛛の糸が手首からぴぴっと出なくなる、というのもうまい設定だ。それは自分ではコントロールできず、迷いが晴れないと能力も元に戻らないというのがいい。あ?あ、と物思いにふけりつつ空中を飛び渡っている時に、次の糸が出ずに墜落する場面など妙な臨場感がある。マスクを被っていて表情など何もない筈なのに、スパイダーマンことピーターがもの思いに耽っているというのが仮面の上からもちゃんと伝わってくるから不思議である。
糸が出ないので仕方なく、ビルの上から降りるのにエレベーターを利用すると、住人の男が乗って来る。彼はしけじけとスパイダーマンを見て、どこで買ったの?クールだね、と言う。ピーターは「自分で作ったんだけど、股に食い込むし、チクチクするんだ」とぼやく。この後の微妙な間がなんとなく好きだ。

赤毛のMJの他にもう一人、ピーターを悩ますのは(グリーン・ゴブリンと化した)父が死んだのはスパイダーマンのせいだと一途に恨み、父の復讐で頭がいっぱいの友人ハリー(ジェームズ・フランコ)だ。ジェームズ・フランコは2作目ではヘアスタイルがイマイチな感じで、キャラとしても終始屈託状態で登場。憂い顔を存分に効かせて時には目に涙を浮かべ、たださえ悩み多いピーターをウジャウジャと絡んで困らせる。ハリーにしてみれば彼の人生も踏んだり蹴ったりなので、八つ当たりもしたくなっちゃうところではあるんざますけれどね。



蜘蛛の糸が出なくなったピーターは、裏路地のゴミ箱に苦心して作った衣装を捨て、ただのピーターに戻ることにする。忽ち視力も落ちて元のメガネ君になり、筋肉もなくなって貧弱な大学生に戻るピーター。しかし、自分の人生を取り戻したという気分で、彼は意気揚々と町を歩き、「自由」を味わう。BGMに流れくるのはバート・バカラックの「雨に濡れても」。陽光燦々のNY。世界は希望と光りに満ちている。人生は再び手の中だ、と喜びを満面に浮かべるピーター。このシーンは2作目の中でも特筆すべきシーンだと思う。選曲もナイスだ。

いっとき超人生活をかなぐり捨ててMJと夢をもう一度、と浮かれるピーターだが、メイおばさん(ローズマリー・ハリス)の言葉で再び使命感を甦らせる。何しろ労多くして報われないんだから、みんなヒーローを待っている、と一言でも言われた日には、モチベーションは復活しちゃうのだ。…健気なピーター。
高架電車の落下を身を挺して止めたあと、マスクも取られて気を失ったスパイダーマン=ピーターは、人々の頭上を担がれて車内を運ばれる。このシーンは宗教画のようだ。ピエタ的とでも言おうか。床に寝かされた彼を乗客は静かに取り巻く。目を覚まし、マスクをしていない事に狼狽するピーターに、子供たちが「秘密なんでしょ?誰にも言わないよ」と言う。(おかえり、スパイダーマン)大人じゃなく子供に言わせたところがミソ。その時居合わせた車中の皆様だけがスパイダーマンの正体を知るのだが、その車中だけでひっそりと収束するというのが味のあるところだ。

1作目に引き続き、敵役は自分の研究に熱情を燃やすあまりに人格が豹変してしまうオッサン科学者という設定で、常にジキルとハイド的要素を持つ敵役であるのがスパイダーマンの特徴だろうか。2作目のタコ男を演じるのはアルフレッド・モリナ。この人は、知的な雰囲気の役が妙に似合う人で、タコ男になっても、なんとなく知的な感じが漂っていた。タコ足を装着する前の落ち着いた、知的な博士っぷりがなかなか良かった。



迷いを振り払い、再び夢を犠牲にして、世の中に奉仕する人生を再び選ぶピーターだが、果たして報われる日は来るのか、彼自身のささやかな望みは一体どうなるのか…、というわけで、普通の人生と超人的能力を持った生き方との間で揺れ動き、恋愛に悩み、常に貧乏で、様々な局面でワリを食っているピーターを見守りつつ、高層ビルの谷間の空中を爽快に渡っていくスパイダーマンの姿にふんだんな映像的カタルシスも覚える作品。





アメコミアクションとしても、青春映画としてもよく出来ている。だからといって、続けて3作目を観たくなるかというとそうでもないのが不思議なところ。3作目は確かスパイダーマン自身がジキルとハイドの側面を持ってしまい葛藤するお話だったかしらん。機会があったら再度ちゃんと観てみよう。

ともあれ、何度観ても、ひゅーん、と次から次に繰り出す糸でビルの谷間を気持ちよさそうに渡って行くスパイダーマンの姿は爽快の一言。あの独特の浮遊感は、毎度の事ながらなんともいえない味わいがあっていい。

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