リプリー (THE TALENTED MR. RIPLEY)

~出られない地下室~

1999年 伊・英・米 アンソニー・ミンゲラ監督



この作品を観たのは劇場封切り時で、もう10年前の事になる。その時は自分で思ったよりもずっと強烈に頭の中にあのアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」が焼付いていたせいか、ラストに物足りなさを抱きつつ劇場を後にした。その後一度も観ないままにうち過ぎてきたが、その間に、かなり脚色されていたのはドロン版の方で、こちらの方がより原作に忠実であること、原作者のパトリシア・ハイスミスにはトム・リプレイ(リプリー)・シリーズという連作があり、これまでにドロンの「太陽がいっぱい」を含めて4本映画化されている事などを知った。そのうちの1本「アメリカの友人」(77年・ヴィム・ヴェンダース監督)は少し前に観た。トム・リプレイを演じていたのは、あのデニス・ホッパー。面白かったが感想はまだ書いていない。02年の「リプリーズ・ゲーム」は未見。で、「リプリー」についても機会があれば再度観たいな、と思っていたら映画チャンネルで放映された。マット・ディモンジュード・ロウはさすがに忘れず、グィネスやフィリップ・シーモア・ホフマンあたりまで覚えていたが、ケイト・ブランシェットが出ていたのは全く記憶に無かった。

パトリシア・ハイスミスの作品には、背後に同性愛の匂いがそこはかとなく漂っているのが特徴のように感じる。「太陽がいっぱい」のレビューにも書いたけれど、淀長さんが言った「トムのフィリップへの潜在的な恋愛感情」は、「リプリー」では表にくっきりと出て、もっとあからさまに提示されている。ドロン版では、フィリップ(ディッキー)を殺害する重要な動機だったマルジュ(マージ)への想いなど、「リプリー」にはカケラもない。そんなもの視界にも入っていないのである。トムの目に映っているのは怠惰で気まぐれでセクシーで小悪魔のようなディッキーの姿のみ。親に財産があるのをいいことにいつも楽しい事を追いかけてふらふらと漂うように暮しているジャズと女の子が大好きなディッキー。その気のいい感じ、気まぐれな感じ、陽気で人を楽しませる感じ、面倒になると関係をぶっち切る無責任な感じ、無節操で最低な奴のくせに人に愛される感じ、というのが特に演技をしているようにも見えないほどにジュード・ロウ、しっくりきていた。が、いかんせん映画が長く、前半で姿を消すため、観終ると印象が薄らいでしまう感じは10年前と変わらなかった。



避暑地に来ているのにまっしろけな冴えないメガネの芋虫・トム(バカンスと無縁の貧乏人)はモンジベロに来てすぐにディッキーを見つける。双眼鏡の中で戯れる似合いのカップル(ディッキー&マージ)のうち、トムの目が吸い寄せられるのはディッキーの方。女なんか見ちゃいない。マージを演じるのはグィネス・パルトロウ。適役か。スマートな似合いのカップルだが、男の方がキラキラしいのだ。



「誰でも1つは才能がある。君の才能は?」(ディッキー)
「いくつもあるよ」(トム)
「いくつも?才能は1つ以上ではダメだよ」(ディッキー)
というやりとりがある。これがタイトルの「THE TALENTED MR. RIPLEY(才能あるリプリー氏)」に繋がっているというわけだが、映画を見ていて、ディッキーが(多才な?)トムの何を面白いと思ったのかあまりハッキリと伝わってこない。観ていてちっとも面白みを感じない。ただのウザイ奴である。だから、暫く一緒に遊んだ後、ディッキーがトムの存在全体をおぞましく疎ましく感じるようになるのは、非常によく分る。
ディッキーの嫌悪には、自分を性愛の対象として見ているトムへの嫌悪が強くにじんでいる。毛色の変わった芋虫だと思ったから退屈しのぎに相手にしていたら、通い合うものがある、なんて見当違いな事を言い出し、あまつさえ自分との恋愛関係を妄想するとはなんてウザイ寄生虫だ、というところだろうか。

メガネの芋虫を演じるマット・ディモンは、とにかく垢抜けないモサーっとした感じがよく出ていたし、手の届かないキラキラしい存在に憧れる内向的な青年の雰囲気と、すっかり飽きられ嫌がられている事に気付かない鈍い感じ、控えめそうでいながら人を苛々させる感じというのもよく表現していた。何かと言えば口角の下がる口元に嘘ばかりついている卑しい雰囲気がにじみ出していた。が、中盤からディッキーの服を着てなり変わるあたりで垢抜けてくるという設定で、「まぁ、随分洗練されたわね」なんて言われたりもするのだが、ワタシには一向に垢抜けないまんまのように見えた。もうちょっとドラスティックに垢抜けないと、なぜピーターやらメレディスが、あんなにも彼に夢中になったのかが腑に落ちない。また内側に抱えた秘密が表面に少しだけにじんで、それにどうしても他人が引っ張られてしまうというようなミステリアスなムードも皆無なので、前述の男女がなぜ彼の「謎めいたムード」に引っ張られたのか説得力がない。


口角が下がりっぱなしのマット・ディモン

トムは蛇蝎のごとく自分を嫌うようになっていたディッキーの本音を知り、かっとなって殺してしまう。「太陽がいっぱい」のような計画殺人ではなく衝動殺人だ。ディッキーに自分がなり変われるとも思っていなかった彼がその可能性に気付くのは、ホテルのフロントにディッキーと間違われてからである。

努力家トムの懸命な努力は、ドロン版では例のサインのクセを習得するあたりや、パスポートの偽造などに現れるが、「リプリー」ではディッキーが好きだというジャズを渡欧前に懸命に聴いて覚えるシーンで表現されている。バード(チャーリー・パーカー)やチェット・ベイカーを予習しなくてはならないトムはガチガチのクラシック・マニアなのだ。ディッキーが「マイ・ファニー・バレンタイン」を好きだと知るや、早速本人の前で歌って関心を引こうとするトム。なにやら恋する計算高い乙女状態である。

今回の再見で一番、観ていて楽しかったのはフレディを演じるフィリップ・シーモア・ホフマン。その嫌な野郎っぷりが実にもう絶妙。巧い。ホフマン、最高。自らは人に好感を持たれるとは言い難い容姿のくせに、資産家の家に生まれ、欧州で何年も遊び散らかし、何事にもスレていて、下卑た女好きで、周囲を見下し、しかも頭は悪くない。その小さな目で何事も見逃さない。脳天気であまり頭のよくないディッキーにはすぐに見抜けない事も、フレディは一瞬にして見抜いてしまうのだ。レコード屋の試聴室で嫌悪と猜疑の眼差しで、ひょんな事から自分たちの世界に紛れ込んできた階級違いの寄生虫を眺める視線のいやったらしい感じはまさに絶妙。また、ヨットの上でマージと個室にこもったディッキーをデッキの隙間から覗き見ているトムに気づいた時の、軽蔑9割と憐憫1割の視線と表情がいい。フレディという奴の雰囲気がよく出ている。
フィリップ・シーモア・ホフマン、本当に巧い。いまさらに膝を叩いた。


この目つき!

そして、さっぱり覚えていなかったケイト・ブランシェットのメレディス。メレディスはディッキーやフレディと同じ階級に属する女だ。ケイトはややもすると役の設定よりも老けて見える時があるが(「さらば、ベルリン」など)、この時もマット・ディモンと並ぶと、なんだか金持ちのお姉さんとツバメ、という感じにしか見えなくて、二人は同年代という設定なのよね、よね、と何度も脳内で確認してしまった。このメレディスはイタリアに着いた刹那にトム(まだディッキーと出会う前)に一目惚れしてしまうのだが、何故トムに一目惚れをしてしまうのかも、観客には分りにくい。視覚的にぱっと伝わってこないので。


お地味なケイト

そして、後半にベネチアで親交を深めるディッキーの友人・ピーターも、オペラハウスで会いしなにトムに恋してしまうのだが、どうもそういう設定がマット演じるトムには不似合いなので、???なぜ?という疑問符でいっぱいになってしまう。が、ともあれピーターを演じるジャック・ダヴェンポートはエレガントな同性愛青年の雰囲気がよく出ていて、トムと全てを分かち合いたいのに…という切ない片恋の風情が良かった。トムの家の鍵を貰ったピーターが「(君の心の)扉の鍵だ」と微笑むシーンなども恋心が切なくにじんでいて良い。ピーターとトムのシーンは全編でもっともホモセクシャルな空気が濃厚に漂っていて、具体的なシーンは何もないのに黒いコートで寄り添っているだけでも説明不要にそういう空気が出ていた。ちなみに「リプリー」の登場人物の中で、ワタシは一番このピーターが好ましく感じた。


ピーターとトム

ピーターがトムを好きで仕方ないという風情や、列車のコンパートメントで眠るディッキーの胸に頬をすり寄せるトムなど、ミンゲラ監督は「好きで仕方が無いけど報われない」という感情を絵にするのが巧いなと思った。

目にも贅沢なイタリア・ロケの風景の数々。港町モンジベロにローマ、サンレモ、ベネチアと画面いっぱいにひろがるイタリアを堪能しつつ、ジャズにオペラにミサ曲と、多彩なBGMがシーンを彩る。目にも耳にも贅沢な映画だ。ワタシはモンジベロでマージが住む家の佇まいがとてもいいな、と思った。イタリアの田舎町にこんな別荘を持ってたら最高ってもんでしょうね。



10年前に観た時には、人を何人も殺しながらうまうまとディッキーの遺産の大部分を受け取り、捜査をすり抜けてトムが無事でいるラストがどうにもしっくり来なかったのだが、再見してみて、トムは永劫の呵責の中にあり、彼の心の暗い地下室から永久に出る事はできず、その地下室の鍵を未来永劫、誰にも渡す事はできない、という「リプリー」のラストの重さがとてもよく伝わってきた。
トムは法の裁きは受けないが、自らのうちなる牢獄にずっと繋がれたまま生きるのだ。

「太陽がいっぱい」は原作に巧く脚色をくわえて、野望に燃えた貧しい若者の青春の蹉跌を海の官能の中に描いてエポックな作品になったが、「リプリー」は原作に忠実に映画化して、140分という長さで登場人物の心理をきめ細かく描写し、9割をイタリア・ロケという贅沢な映像の中に、罪を犯し、過去を隠蔽し、人を騙し、嘘をつき続けながら、誰にも心を開けず、どこにも救いのない世界に、ただ一人佇んでいるしかないトムの無限地獄が描かれていた。 アンソニー・ミンゲラ監督は「愛を読むひと」など、小説が原作の映画を撮るのが得意な人だと思うが、これも非常に小説的な映画だなという感じがした。

コメント

  • 2015/10/20 (Tue) 21:53

    夏ごろに「欲望の翼」のコメントさせて頂いた者です。
    リプリーは昔何度か観たんですが最近全文英字幕のものを観ました。
    日本語字幕とかなり意味が違っている部分もあって100回くらい繰り返し何度も何度もしつこく見てしまいました。
    口角下がりっぱなしの芋虫って・・・笑!!紅茶吹き出してしまいましたw
    それにしてもジュードロウがあまりにも美しくキラキラ輝く太陽のようにまぶしくてまぶしくて、隣にいる地味ぃ~なグィネスパルトロウがまるで「ジュードの美貌の引き立て役」にしか見えないくらいでした。
    女より美しい男。女より色気がある男。を演じさせたら西洋ではジュードの右に出るものはいないんじゃないかなと。他人を無自覚に翻弄して傷つける傲慢な美青年っぷりはレスリーチャンを彷彿とさせました。

    ばりばりのクイーンズイングリッシュなジュードがちゃーんと50年代アメリカン発音にしている細かな演技も効いてましたね。
    マットデイモンって正義の好青年っぽさ可愛らしさあどけなさが抜けないから、どうも小説の中の「劣等感漂う嘘つきで陰湿で狡猾で卑怯な殺人鬼」には見えませんでした。
    マットは童顔だから40代の今もこの頃と変わらないですね。

  • 2015/10/21 (Wed) 23:02

    ひかるさん こんばんは。

    この頃のジュード・ロウは綺麗一点張りでしたよね。ブロンドが似合っちゃってねぇ。キランキランしてました。でも、この人のすごいところはハゲても、若い頃の眩いような輝きがなくなっても、俳優としてきっちりと生き残っていかれる力量があったってところですよね。ワタシはどちらかというと、今のジュードのほうが好きかもですね。突き抜けててアッパレです。
    ともあれ、この映画のジュードはレスリー・チャン系でしたね。

    マット・デイモンは、こういうウジウジした役には基本的に合わないですね。まぁ、上手く演じていたとは思うけど、根っからの暗さがないものね。でも、案外と実際には、童顔であっけらかんとした顔つきの人だって陰湿な殺人とか犯したりするのかもしれないし、外見だけじゃわかりませんわね。それはそうと、終盤まで見ると、ピーターまで殺さなくても…とワタシは毎度思っちゃうんですよね。あんなに一途に思ってくれているのに殺さなくても、ねぇ。

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