「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」

~憎みきれないロクデナシ~

2009年 東宝 根岸吉太郎監督



根岸吉太郎作品を観るのは、実に1986年の「ウホッホ探検隊」以来。その前はご他聞に漏れず「遠雷」(1981)だった。でもどちらも封切りから暫くたってのちビデオでの観賞。だから根岸作品を劇場で観るのは今回が初ということになる。


ワタシは太宰作品にはさして惹きつけられなかったクチなので、彼の作品で読んだ事があるのは「走れメロス」と「人間失格」という極端なとりあわせ。しかも中学生時代の事になる。「生まれてすみません」的ペシミズムというのはどうも生理的に好かない事もあり、これも大丈夫かしらん…と思ったものの、さすがに年の甲か、何かといえば死にたがっている人の心情は理解できなくても、心の内側に修羅を抱えた人の苦悩というものは理解できるようになった。「ヴィヨンの妻」は未読だが、大体において文学の映画化作品は原作を読まずに見たほうがいい。脚本は田中陽造。「ヴィヨンの妻」をベースに幾つかの太宰作品のエッセンスをブレンドした物語になっているらしい。

冒頭、幼少時代に郷里の東北(場所は墓地かしらん)で、杭にはめられた輪を廻し、それが止まる間際に逆回転すると地獄に堕ちる、と女中に言われて輪を2回廻すものの、2回とも反動で輪が逆戻りしてしまう大谷少年のエピソードが印象深い。あの輪っかは何と言うものなのか知らないが、いかにも恐山を抱える青森らしい感じだ。



浅野忠信は適役。その自己破滅型の悪あがきな感じ、傍からは無茶苦茶にやりたいようにやっているように見えて、彼の中では精一杯に何かと闘っている感じ、というのがじっとりと出ていた。 内側から身をむしばむ「弱さ」というのは、それを持っていない人間には理解不能なもの。ただのだらしない、情けない、ダメな奴としか思われない。でも、彼はコブシを握り、ぶるぶると震えつつ自らの弱さと懸命に闘っているのだ。

「女には幸も不幸もないものです。
男には不幸だけがあるんです。いつも恐怖と戦ってばかりいるのです」




彼は常に生きる事を懼れつつ暮してきた。そして、心中未遂後は死ぬ事さえも怖くなってしまう。なんだかんだと言っているが大谷の行動は思い切り自分本位で、自分以外には何も眼中にない。それでいて、女にはモテる。まさに憎みきれないろくでなし状態である。ろくでなしの人蕩しだ。大谷は傷みやすくスィートな桜桃らしい。そこらへんのニュアンスを浅野はよく出していた。背の高い痩せた体に二重廻しもよく似合っていた。
さんざん、女房や周囲に迷惑をかけながら、ちょっと家に帰ったと思ったら佐知の稼いできた僅かな金を懐にねじ込んで、二重廻しを羽織って出ていってしまう。いい気に吹いている口笛は「男の純情」ときたもんである。
ちなみに「男の純情」は以下のような歌詞。

♪男いのちの純情は
 燃えてかがやく 金の星
 夜の都の 大空に
 曇る涙を 誰が知ろ

 影はやくざに やつれても
 訊いてくれるな この胸を
 所詮男の ゆく道は
 なんで女が 知るものか

(「男の純情」作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 昭和11年)

…やれやれ。いい気なもんですねぇ。 が、ここで「男の純情」を使うのがまた根岸吉太郎、心憎い。

この「死にたい魔物」に、肝心な根っこのところをクっと掴まれてしまうと、どんなにしょうがない奴だと思っても離れる事はできない。そんなわけで、大谷の妻・佐知も心の肝心な部分をごく早い時期にクっと掴まれてしまったばかりに、彼を見限る事は永久にできなくなったわけである。
人蕩しはその独特の感性で、相手の存在のど真ん中の核の部分に感応する。そしてまじり気なしの心情で、その核と向き合うのである。そんな出逢いはそうあるものではない。
佐知の中ではいつまでも、大谷の「純情」は金のように輝き続けるのである。

同じ場面に出くわしながら、そしてその原因でありながら、佐知に「輝く金の純情」を見せる事ができずにその場を逃げ去った男・辻に堤 真一。彼にはその代償として生涯、苦い悔恨しか与えられないのである。ワタシはこれまで堤 真一を一度も巧いと思った事はなかったが、今回はウジウジと過去に繋がれた男、今は少し経済的にはゆとりが出来ても、内面は何も豊かにならない自己憐憫でいっぱいな男を、とてもよく表現していた。



でも今回、一番ふぅん、と思ったのが広末涼子だった。
デビューした時から、そのペカーっとした顔と声がどうしても好きになれない広末。「おくりびと」でも、その存在の耐えられないウザさに作品の唯一の瑕だと思った広末なのだが、今回は大谷の愛人役が実にハマっていた。妻を演じた松たか子よりも良かったぐらいにハマっていた。「おくりびと」での胡散臭いイイ子振りが跡形もなく消え、存在のどこか奥深いところで「ペシミズム」で繋がってしまった大谷を妻・佐知とは別の方向で受容する女給・秋子を、地じゃないの?というぐらいによく表現していた。けなげな妻よりも、男と共に地獄堕ちを望む女のふてぶてしい微笑がよく似合うのだ。
広末、化けたかもしれない。



浅野と広末の道行で、夜、旅館の部屋に芸者を呼んで、大谷が一節うなる場面がある。
ぼそぼそしたセリフ回しが特徴で、何を言っているのか聞き取れないというのが定評だった浅野忠信だが、少し前からそんな感じを払拭してきたなぁ、と感じていたのだけど、今回は更に都都逸だか何だか、そんなものまで立派に一節聴かせてご覧にいれるまでになった。このシーンの浅野はまさに鬼気迫るものがある。俳優として一皮剥けた感じがした。

妻を演じる松たか子も適役だった。外で放蕩三昧の夫をあばら家でしとやかに迎える妻。
そして夫の借金のカタに、飲み屋で働き始める妻。
修羅場の中にいながら、夫婦の言葉遣いが妙にポライトネスなのもそれらしくていい。
松たか子は「桜桃」に対する「タンポポ」の役どころなので、役に求められるものをきっちりと表現していたが、なんといっても今回は強烈なハマリ役で「魔」が憑いたような存在感を放つ浅野忠信広末涼子に挟まれて、それらを上回るような輝きを示す、というところまでは行かなかった気がする。
が、自分で勝手に拵えた生き地獄でのたうつ夫を見捨てない「ただ、生きていればいいんですよ」と言う妻、地に足の着いた、前向きで健気な妻には、やはりハマっていたと思う。人妻と知りつつ彼女に恋する職工の若者を演じた妻夫木 聡は、友情出演的な感じ。自分は外でやりたい放題のくせに、妻に虫がついたかと思うと気が気ではないという大谷の身勝手さを描写するための駒という感じだった。

大谷にたかられまくる小料理屋(というか飲み屋)「椿屋」の夫婦に伊武雅刀と室井滋。室井滋は久々に見たが、なんだか人相が悪くなり、スゴイ事になっていた。が、飲み屋のおカミ役にはピッタリ。また、伊武雅刀の飲み屋のオヤジが大谷との出会いを佐知に語る場面で、「魔物は静かに、純真な風をしてやってくるもんです」というような事を言うのが印象に残った。

俳優陣の演技を盛り立てるセット美術も素晴らしかった。終戦後、闇市やパンパンなどが跋扈していた復興途上の東京の街角の雰囲気もセットでよく表されていたと思う。(ロケでも日比谷公会堂らしき建物の外壁をうまく背景に使って時代色を出していた)また、衣装や髪型などにもよく時代色が表されていた。ワタシは無論、その時代を知っているわけではないけれど、観ていて焼け跡闇市時代ってこんな感じだろうなぁ、としっくり来る映像だった。



大谷は人生を懼れ、しらふでいる事を懼れ、女房の佐知についても「何を考えているのか分からない」と懼れている。彼女をどこかで信じ切れないのだ。自分に自信が持てないのである。
そこへいくと、佐知の揺るがなさ加減は堂々たるもの。彼女はなぜ、大谷を見捨てないのか。

合縁奇縁腐れ縁という言葉があるが、夫婦というのはその最たるものかもしれない。
男と女は、傍からみればどんなに破綻して見えようと、無茶苦茶だろうと、どこか心の深いところで繋がっている限り、別れないものなのかもしれない。
佐知は一般的な見地からすると不幸な妻、ということになるのだろうが、彼女は果たして不幸だろうか?
女と生まれて、そこまでとことん地獄も潜り抜けて向き合おうと思う男に出逢ったというのは、幸せな事でもあるように思う。

ラスト、懐から出したさくらんぼをヤケクソのように食べる大谷の手から1つ取って口に含む佐知。
どこまでもふらふらと頼りない夫をさりげなく、しっかりと支える妻。
よく男と女を陽と陰に喩えるが(男=陽、女=陰)、男が陰で女が陽なんだよ、とつくづく思う。
ラストで並んだ二人を見て、なぜか東宝の古典的名作「夫婦善哉」(1955年 豊田四郎監督)がちらっと脳裏に浮かんだ。なんだか大谷の頼りない様子が柳吉(おばはん、頼りにしてまっせ)にも被る気がして。(笑)

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