「沈まぬ太陽」

~そして、何かが変わったか?~

2009年 東宝 若松節朗監督



山崎豊子の小説は、いわゆる船場もの(「花のれん」「ぼんち」等)あたりから初期の短編に社会派系長編(「白い巨塔」「不毛地帯」等)まで、わりに既読の作品が多いワタシ。「沈まぬ太陽」も10年ほど前、出版された当時に読んだ。(長かった)原作が長いんだから映画も長くて当然なのだけど、あの長い原作を202分の中に過不足なく、よくまとめたなぁと感心した。映画は何よりもまず、脚本ありき、だと改めて感じた。

正直、原作は随分前に読んだので細かいところは忘れていたが、よくしたもので映画を観ていると段々に思い出してくる。恩地と行天(しかし、スゴイ名前)という二人の対象的な男の生き方を横糸に、1960年代?80年代にかけての半国営航空会社の杜撰な経営実態と組合の乱立する複雑な労使関係、そしてそれら諸問題の帰結として齎される大惨事を縦糸に、人命を左右する航空会社の社会倫理を問い、いかに虐げられても屈しない人の尊厳を描く作品という事になるのだろう本作。

昔、原作を読んだ時にも思ったが、「沈まぬ太陽」「不毛地帯」はなんとなく印象の被る作品だ。戦後日本の経済発展の裏側の歪みと、企業のモラル、企業人の人としてのモラルを衝いている点でテーマも近いが、悪玉は徹底的に悪玉に描かれているのも共通しているし、家族の理解を得られず孤独に苛まれる主人公のキャラクターが酷似しているという事もある。ともに主人公にはモデルとされる人物がいるのだが、誰がモデルであろうとも、山崎豊子の内側で濾過されて作中に登場する主人公は、極北の苦難に辛吟しつつも節を曲げない、清く正しい清廉の士となる。そして彼をよく思わぬ連中にこれでもか、これでもか、といぢめ抜かれるわけである。「沈まぬ太陽」のモデルとされる人物については全く知らないので言及しないが、「不毛地帯」の主人公・壱岐正のモデルとされるのは、あの瀬島龍三である。陸軍大学校を卒業した元大本営参謀でシベリア抑留を経て帰国したのちは伊藤忠商事に入社し、賠償ビジネスと防衛庁商戦を仕切り、中曽根政権誕生に寄与した。毀誉褒貶の激しい人物であった瀬島龍三(この人は瑣末な事から大きな事まで戦後の昭和裏面史に悉く関与していたと思う。一般には謎のままに葬られている事の真相を何もかも知っていた人物だとワタシは思う)を念頭において読むと「不毛地帯」の主人公のありようはキレイゴトの作り事のような気がしてやや興ざめな観もあるが、あくまでも小説のモデルは形骸的に経歴などをモデルにしたというに過ぎないので、伝記とは違うわけである。その事は「沈まぬ太陽」にも言えるだろう。この瀬島龍三と思しき人物は「沈まぬ太陽」にも登場する。総理の代理で国見(石坂浩二)の元に会長就任を強引に要請に来て、暫くすると一方的に引導を渡しにくる龍崎一清という男である。この龍崎という人物の方が「不毛地帯」の壱岐正よりもワタシの瀬島龍三イメージにずっと近い人物像だった。

さて、本題。
労組の輝ける委員長として目覚しい交渉能力を発揮したがゆえに上層部に睨まれ、その有能さと頑固さと熱い理想主義がアダとなってカラチを皮切りに9年も僻地勤務を強いられる主人公・恩地。不遇を託ち、悲嘆に暮れつつも異を唱えずに海外勤務に勤しむのだが、家族という弁慶の泣きどころがなければ、男一匹、外地に赴任して、何も無いところから事業所を築き上げ、自社の飛行機がその地に就航するのを見届けるというのは、考えようによってはなかなか遣り甲斐のある面白い仕事ではなかろうか。そんなに僻地、僻地と下目に見るのはカラチ(パキスタン)やテヘラン(イラン)やナイロビ(ケニア)に対して失礼ってものじゃなくてかしら?と観ながら思ったりした。第一、ケニアじゃ随分楽しそうにハンティングにいそしんじゃってたし。都内の支店で晒し者の刑に処せられる八木(香川照之)の方がずっと悲惨である。香川照之、気の毒な感じが良かった。「僕もちっちゃく輝いてました」って、…泣ける。

恩地サンが独身ならば、さまでウジウジ思い煩わないで外地で楽しく頑張ったのだろうと思うけれど(現地の人にすぐさま溶け込んで楽しそうにも見えた)、確かに病身の母が居る上、子供がまだ小さいのに日本を離れて不便な遠い国の勤務をさせられるというのは、残る妻も大変だし、子供も可哀想だし、残していく自分も辛かろうとは思う。懲罰人事で飛ばされたから子供が学校でいびられるなんて、学校は社宅じゃないでしょうに、と思うけれど、社員の子供たちが社宅から近隣の学校に通っていたとするならば、そこには社内となんら変わらない空気が満ちてしまうものなのだろう。

主演は渡辺 謙でなければ役所広司だったろうか。が、ライバル行天を演じるのが三浦友和というキャスティングが面白かった。ややアッサリはしていたが、行天らしい計算高い感じも出ていたように思う。人としてどうしても勝てない同期に対するゴマメの歯軋りから悪魔に身を売ってしまう男。男社会の妬み嫉みというのは女同士のそれとは比較にならないドロドロっぷりだとよく聞くが、そうなのかもしれない。行天は一昔前なら江守 徹あたりが演じたかもしれない役だが、体に随分貫禄(=肉)が付いたので三浦友和はますます役の幅も広がってきたようだ。その他、どの映画でもよく見る顔から、随分お久しぶりの顔まで、出るわ出るわ、びっくりする程多くの俳優が登場していた。中でも首相を演じた加藤 剛(衰えたなぁ)と田中 健(久しぶりすぎ)の登場には「うわ!」と驚いた。西村雅彦のヒールっぷりも板に付いていた。恩地の息子を演じていた柏原崇は、顔はキレイでも、これまで一度も良いと思ったことのない俳優だったけれど、渡辺 謙との牛丼屋のシーンは良かった。恩地という父を持った息子のありようが自然に出ていた。


恩地(渡辺 謙)と行天(三浦友和)

原作を読んだ時にも思ったけれど、モデルとなったN航空の長年にわたる膿の濃さにはほとほと呆れる。ここまで膿が溜まれば外に向かって噴出するのも時間の問題だったろう。尊大なナショナルフラグ・キャリアの驕りの陰で汚職と利権の巣窟になり、人と設備を大事にしなかったツケは最も恐るべき形をとって襲いかかって来る。無辜の人々の上に。

映画が始まってすぐに御巣高山の事故シーンとなるのだが、機内のシーンは劇場スクリーンで観ると余計に臨場感が増すのだろう。他人事とは思われない空気がさっと劇場内を支配した。そして、あの事故についての報道を、映画を見ながらあれこれと思い出した。そうだった。あれは夏の惨事だった。暑い暑い真夏の出来事だった。その阿鼻叫喚は言葉に尽くせない。大揺れの機内で亡くなる間際まで家族にあてた遺書を手帳にしたためていた会社員の男性の事は、当時、新聞記事を読んだ時にもとても印象に残った。大パニックの機内で命の瀬戸際に、あそこまで冷静に末期の文章が書けるというたしなみと克己心の見事さに誰もが胸打たれたと思う。ワタシも胸打たれた。映画の中でもきちんとそれが描写されていた。(息子による再朗読はお涙頂戴的なので無くても良かったと思う)ただ事故のカットに恩地のナイロビのハンティングのカットが交互に差し込まれるのは邪魔な気がした。何の効果を狙ったものかもよく分からないし、何を狙ったのだとしても滑っていた気がする。象が倒れるところを墜落に見立てたかっただけでは殆ど意味がない。



折角外部から人材を投入して始めた再建計画も総理のマッチポンプな判断ですぐに頓挫するあたり(このへんも小説と事実とは異なるらしい)が、半官半民のこの航空会社の構造的な欠陥、宿命的な膿の濃さでもあろうか。国民航空のモデルとなった現実のN航空は1987年に民営化され、様々な問題を抱えつつも、放漫経営で危なくなっては合理化して立て直すという事を繰り返してきたが、2000年代に入ってJASを統合したことから新たな問題を抱え、業績も悪化しつつあったところに2007年の世界同時不況が追い討ちをかけてダッチロール状態となり、今年(2009年)、政府の後押しで巨額の融資を受けて再建の途上だが、鶴のマークは瀕死でのたうっているように見える。




ラストシーンでのアフリカの荘厳な夕焼けのショットを眺めつつ、原作を読んだ時から感じていたこと、「沈まぬ太陽」とは一体何のメタファーなのだろうか、と改めて思った。

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