「炎のランナー」

~ヴァンゲリスと古き良き英国スタイル~
1981年 英 ヒュー・ハドソン監督



これはその昔、封切り時に劇場へ観に行った。ワタシにとってはこれがイギリス映画を劇場で観た最初の作品だと思う。サー・ジョン・ギールグッドもイアン・ホルムも、この作品で初めて観た。戦前のケンブリッジを舞台にした作品では、「アナザー・カントリー」や「モーリス」をネガとするなら、これはポジにあたるだろう。かといって、平板な明るく正しい英国スポーツ物、というわけではなく、階級や人種による差別の強い英国社会をケンブリッジの権威主義的な教授たちの中に描いたり、昔のオリンピックが、いかに一握りの欧米の国に主権が握られていたかという事、英国貴族のスノビズムなどもちらりと突付いている。それはそれとして、英国特有の空や風景、1920年代の衣装や小道具に建物、それらとあいまって作品に独特の優雅さや品を与えているのは練習風景などに代表されるケンブリッジの学生たちの佇まいだろうか。特にきらきらしい人は一人も出ていないのに、映画全体のトーンが好ましい作品。あの有名なヴァンゲリスの音楽に乗って懸命に走る彼らを観ていると、理屈ではない「青春の輝き」が伝わってくる。
クラシカルな戦前のオリンピック風景などもほのぼのとして良い。
また、ユダヤ人が戒律で豚肉を食べられない事をこの映画で初めて知った。
今回、スタチャンにてかなり久々の観賞。
あらすじは今更言うまでもないけれど、ユダヤ人である自分の人間的尊厳を走り勝つ事に賭けるエイブラハムズと、宣教師で神の栄光を伝えるために(信仰のために)走る、というリデルが共に1924年のパリ五輪に英国の代表選手として選ばれ、それぞれの葛藤を乗り越えて勝利する姿を描く作品なのだが、どちらかというと群集劇のような要素が濃い気がする。
ワタシは何と言ってもケンブリッジの学生たちの優雅な学生生活と、のどかな練習風景が心に残った。
合宿先のホテルで雨に降られた陸上部の面々が、広いバンケットルームでクリケットを始めたり、並木道を走るエイブラハムズをクラシカルなオープンカーに数人が乗ってわいわいと囃しながら伴走したり、学生のクセに白タイのテイルコートで観劇に行ったり、こういう味わいは英国ならではのものだろうと思う。ワタシはエイブラハムズ役のベン・クロスは顔がゴツゴツしているのでどうも好みじゃなかったが、学友のリンゼイ卿を演じたナイジェル・ヘイヴァースはこの映画を観た頃、ちょっといいなと思っていた。貴顕の生まれだが偏見がなく、オシャレで陽気なリンゼイ卿の役は彼にピッタリで、広大な屋敷を持つ貴族の彼は、自宅の芝生の庭にハードルを並べさせ、ハードルの端になみなみとシャンパンを注いだグラスを置かせて、白い絹のガウンとマフラーをとって執事に渡すと、少しでもシャンパンがこぼれたら教えろ、と言って、芝生の庭でハードルを飛び越えて行く。最後のハードルを越える時に、かすかにハードルが揺らいでグラスからシャンパンが溢れるのがスローモーションになる。美しいシーンだ。


陽気なリンゼイ卿と、お屋敷ハードル

その他、ランナーを演じている俳優が一人も体のバランスがいい人がいなくて、あんなんで早く走れるの?という雰囲気なのも、昔のランナーらしくて良かった。ちっとも早そうに見えないといえば福音のランナー、リデルがその最たるもので、走るほどにヘッドアップしていって、上体は後ろに反り返り、あれじゃ幾らなんでも早く走れないでしょう、と観ていて思う。なんだか苦しそうだし、仰向いて無呼吸で走っているみたいに見える。このリデルのキャラの頑固一徹ぶりも昔の人っぽいなぁと思うわけだが、リデルはスコットランド人という設定。それにしても宗教の力は強い。信心しないワタシには、このへんは全く理解できぬところ。日曜日だろうがナンだろうが走ればいいんじゃない?と思うのは神を信じない罰当りということなのだろう。

この二人に関わるイタリア人のコーチ、マサビーニにイアン・ホルム。いい味出してます。アマチュアスポーツ協会から締め出しを食っているプロコーチの彼は、エイブラハムズを育てたにも関わらず、オリンピック会場に入る事も競技を見る事も許されない。戦前ともなればそんなにも厳格にアマチュアリズムは守られていた。戦後もわりに長く守られてきたのだが、お金が大スキなサマランチ会長の就任で一挙にプロとアマの壁は崩れた。話を映画に戻すと、スタジアム近くのホテルに師匠の宿をとるエイブラハムズ、彼の勝利を、レース後に流れ来るイギリス国歌を聴いて知るマサビーニ。ホテルの小部屋で一人、勝利を噛み締める。それは権威主義的で排他的な英国社会に対する二人の挑戦が勝利した瞬間なのだ。



この権威主義的で排他的な英国社会を代表する存在としてケンブリッジ大学の教授連や、オリンピック委員会を構成する英国貴族たちが登場する。ケンブリッジの教授役でジョン・ギールグッド。まさにハマリ役。この役で初めて観たせいか、ギールグッドの顔と黒い教授マントはワタシの中でセットになっている。もう、とても切り離せない。「プロのコーチを雇ってまで勝とうという根性は下賎だ」という教授に「そんな無作為の勝利は子供の運動会でだけ通用するものです」と言い放って去るエイブラハムズ。苦りきった教授は「所詮はユダヤ人だからな」と吐き捨てる。この教授、エイブラハムズがオリンピックで勝ったというニュースを聞くと「期待通りだ」と軽くほくそ笑むのだが、負ければ「だからユダヤ人は信用ならんのだ」と言っただろう。いずれにしてもエイブラハムズはあまり浮かばれない。



英国選手団はドーヴァーを渡り、船でフランスへ。この船旅というのがまた優雅。制服は紺のブレザーに赤いレジメンタルタイ。もう、いかにもな英国スタイル。対するライバル、米国の選手たちは私服の背広で船を降り立つ。何事にもラフなアメリカンと服装や身だしなみに拘る英国スタイルが対比をなす。
英国選手を率いるオリンピック委員会のお歴々はみな何たら卿、かんたら卿という特権階級の貴族ばかり。戦前の世界をリードしていたのはアメリカではなく英国だったという事がよく分かる。そして、パリ大会にはその大英帝国の皇太子も観戦にかけつける。というわけで、この時期のプリンス・オブ・ウェールズはかの有名なエドワード8世の皇太子時代である。映画で皇太子を演じている俳優はちんまりとキザだが、プリンス・チャーミングと呼ばれた若き日のエドワードには似ていない。けれど、スノッブな仕草はなかなか決まっていて、皇太子と言われれば皇太子かな、という感じである。



近代オリンピックもパリ大会はまだ8回目。のんびりしていて、クラシカルなムードが古きよき時代のオリンピックという気配である。競技用のシューズだの、踏み込む足の位置を決めるために、土を掘る小さなスコップなどをめいめいに持っていたりするのもクラシカルだなぁ、とニヤニヤする。
ところが本命リデルは100メートルの予選が日曜日にあたる、(日曜日は安息日だから走らない)ということでレースを棄権すると言い出して、お歴々の頭を痛める。皇太子がやんわりと頼んでも日曜日には走らないと言い張って譲らないリデルに、リンゼイ卿が起死回生のアイデアを齎す。この時の爽やかなリンゼイ卿の様子が、またナイス。演じるナイジェル・ヘイヴァースはこれ以外では「インドへの道」でしか観た事がないのだが、お元気だろうかしらん。

この作品で観た時からかなりいい年だった、イアン・ホルムはまだ健在だし、J・ギールグッドもかなり長生きしたが、くしくもこの作品に出演した俳優が、二人もHIVでこの世を若くして去っている。福音ランナー、リデル役のイアン・チャールソンと、アメリカのランナー、シュルツ役のブラッド・デイヴィスである。ブラッド・デイヴィスはともかく、イアン・チャールソンがHIVで世を去ったと聞いた時、なぜかさもありなんという気がした。

 ヘッドアップ、リデル

またこの映画のプロデューサーに名を連ねているのはドディ・アル=ファイド。あのダイアナ元妃の最後の恋人と言われたエジプト大富豪の御曹司である。彼の父であるハロッズ等のオーナーでもある大富豪のモハメド・アル=ファイドは猛烈な英国王室マニアで、だからダイアナ元妃に息子が近づくのは大歓迎だったろうと思うのだが、エドワード8世(退位後はウインザー公)が最後に住んでいたパリの館を買い取って、そのままの形で保存しているのもこの大富豪の英国マニアぶりを表していると思う。その息子がこの映画に関わっている事に、今回初めて気が付いた。
それゆえか、英国文化への憧れと、その排他的権威主義への反発が二律背反する形で共存しているのも、この作品の特徴だと思う。

ともあれ、「He remains an Englishman」のメロディに乗って、ケンブリッジ陸上部の面々ののどかな練習風景が流れるシーンに、この映画の良さが全て凝縮されていると思う。こういう優雅な学生生活ってある種の理想郷のような感じもある。たとえ裏には色々な偏見や差別が渦巻いているとしても。

コメント

  • 2009/01/19 (Mon) 20:05

    懐かしいですねぇ。もう28年にもなるのか。イアン・チャールスンがエイズで死んだと聞いたときはショックでした。ブラッド・デイヴィスもそうだったんですね。彼はファスビンダーの映画でそれらしき水兵の役を演じていたので、やっぱりね、とは思います。
    お美しいロード リンゼイは、映画のやや重い雰囲気を和ませる清涼剤でした。この間見た「ペネロピ」に面影の似通った初老の男性が現れて、もしかして、と思っていたらやはりナイジェル・ヘイヴァースでした。ほんの少ししか顔を出しませんが、変わらぬ美しさでしたよ。
    この映画でイアン・ホルムを決定的に印象付けられました。ロボット(エイリアン)の次がこれだもの。競技場の外のホテルでエイブラハムズの勝利を知り、ストローハットをぶち抜くシーン。あの頃もいまもほとんど変わらない。最初から出来上がっていたんですね。

  • 2009/01/19 (Mon) 21:32

    もうそんなになるんですねぇ。小娘だったワタシは学校の友達とお小遣いで観に行ったと思います。ユダヤ人は豚肉食べないからね~、とあの女優とのディナーシーンを観ながらおませな友達が教えてくれたのが昨日の事のようですわ。ろもあれ、その頃は小娘だったもんで軽やかなリンゼイ卿が大好きでした。(笑)「ペネロピ」にちょこっと出演しているんですか。機会があったらチェックしてみまする。イアン・ホルムはクセのあるオヤジを演じる事が多いですが、この時はなんか丹下段平みたいな感じの差別されちゃうコーチ役で、しみだすコンブ出汁のようないい味が出てましたね。この役の彼が一番好きかもしれません。ブラッド・デイヴィスもいい俳優だったんですがHIVには勝てませんでしたね。ちょっとジミー・ディーンの再来とか言われていた時期もあったと思うんですが、彼の作品では「ミッドナイト・エクスプレス」が記憶に残ってますね。

  • 2009/01/19 (Mon) 22:25

    テーマ音楽を聴いただけでだけでジーンとしちゃいますね~。
    宗教とか信念とか、そんな事も考えさせられる映画でした。
    実は一度しか観てないので詳しいシーンは殆ど忘れてて・・・でもあの感動はしっかりといつまでも! いつかじっくり見直してみたいと思ってるんですけどね。
    ところでブラッド・ディビス?!すっかり忘れてました~!「ミッドナイトエクスプレス」の彼、当時好きだったんですよ。トルコ(だったかな?)で麻薬所持で逮捕されて脱獄する、けっこう強烈な役を熱演してましたね。そうそう、ディーンに似てたんですよね。そこもポイント高かったのかも?
    昔買ったパンフレットがたしかあるはず、引っぱりだして見てみようっと。

  • 2009/01/20 (Tue) 06:30

    ブラッド・デイヴィスに反応してますね、ジョディさん(笑)彼もこの映画で初めて観たと思いますわ。その後、たしかTV版の「エデンの東」でキャル役をやったりしたので、ディーンの再来とか言われたんですね。ちっこいし。でも代表作はやはり「ミッドナイト・エクスプレス」でしょうね。ちょっと麻薬を持ってただけで終身刑みたいな重刑を食らっちゃうんですね。印象的でした。
    「炎のランナー」では、もっとクセのある奴かと思ったら、とてもスポーツマンシップのあるフェアなランナーの役でしたよ。

  • 2009/01/31 (Sat) 21:02

    昔TVで観たっきり。ヴァンゲリスよかったですね、ってそれしか思い出せない!ここ読んで、ああそういう話だったな、と断片的に思い出しました。ありがとうございます。
    70年代後半日本(の洋楽ファンの間)でヴァンゲリスはちょっとしたブームでした。この映画も内容云々よりは彼が音楽を担当するというのが話題になったと記憶してます。その後の「南極物語」で音楽担当したのも当時の人気にあやかったものでしょう。
    しかしあのブームは一体なんだったんだろうな?

  • 2009/02/01 (Sun) 12:45

    garagieさん。けっこう昔の映画ですからね。特に借りてみようとまでは思わないけど、たまたまCSで放映されたので観たら、あぁ、独特の清涼感が嫌味になってない、いい映画だったなぁと思いましたよ。で、ヴァンゲリスはなんといっても、これと「ブレードランナー」ですよね。多分時期的にも同じぐらいな頃じゃないかと思うけれど、ひところ猛烈にブームでしたね。YMOが欧州で受けて逆輸入されてきたか来ないかぐらいな時期と被りますね。シンセ系のサウンドが大流行した頃だからじゃないでしょうかね。今はどうなさっているのか…。

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