「シャネル&ストラヴィンスキー」 (COCO CHANEL & IGOR STRAVINSKY)

~白と黒のエクスタシー~
2009年 仏 ヤン・クーネン監督



あれこれと作られたシャネル映画の真打ちとの評判高い本作。時代設定も衣装風俗も建築も美術も、どれを撮っても絵になる時代だけに、いやが上にも期待は高まる。殊に、昨年観たシャネル前期がテーマの「ココ・アヴァン・シャネル」とは異なる“大人の”シャネルが観られるに違いないのでとても楽しみに待っていた。楽しみはもう1つある。デンマークのリーディング・アクター、マッツンことマッツ・ミケルセンがストラヴィンスキーを演じるとあってはいやがうえにも期待しないではいられない。都内では銀座、新宿、渋谷のミニシアターで公開されているが、ワタシはもちろん銀座のシネスイッチへ。
美術、撮影、脚本、キャスト、音楽、演出のすべてにわたって期待した通りのムードが横溢した作品だった。
冒頭から、カレイドスコープをあしらったシックかつ華麗なタイトルバックが映画の世界に観客を誘う。あ、これは当りだ、と確信した。その確信は、コルセットの紐を切る意志的なココ(アナ・ムグラリス)のくわえ煙草の鋭角的な横顔で更に強まり、「春の祭典」が初演されたシャンゼリゼ劇場のアール・ヌーヴォー装飾を目にするに至って決定的になった。あの外観、あの劇場内の照明、あの劇場出入り口のドアの装飾…。こういう建築がきちんと残っていて、劇場としていまだに機能していて、ロケにもそのまま使えるというところが、やはりパリの懐の深さなのである。


シャンゼリゼ劇場 こういう建築は都市の華である

その、劇場そのものが芸術作品であるシャンゼリゼ劇場で初演された「春の祭典」はアヴァンギャルド過ぎて聴衆の理解を超えていたために劇場内はすぐさま騒然となり、野次と怒号が飛び交う坩堝と化してしまう。そのありさまが実に丹念に臨場感をもって再現されていた。バレエ公演史上の“事件”を、自分も関係者の一人として裏側から目撃しているような気分になれる。極端に動きを抑えたプリミティヴな振付をしたのが、あの跳躍王・ニジンスキーだったとは。ニジンスキーを演じた役者もディアギレフを演じた役者も、特に説明もないうちからその人だとすぐに分った。キャスティングのセンスがいいのだ。おまけにマッツンがストラヴィンスキーにハマっていることときたら。この人の出る作品には外れがあまり無いという感じがするのだけど、演技力がある上に作品を選ぶ目も確かなのだろう。事実、本当にいい俳優だと思う。力演をするわけではないのだが、自然にスーッとその役になっているというタイプの役者のように感じる。怒号の中で晒し物の憂き目に遭うストラヴィンスキーを鷹のような目で客席からじっと見るシャネル。その四年後、生涯最愛の男・ボーイ・カペルを失ったココとストラヴィンスキーは再会する。子沢山の彼は狭いアパートに病身の妻を抱えて作曲どころの環境ではなかった。ココは仕事のできる環境を提供する、と申し出る。この作品に登場するココ・シャネルは既に成功した有名人である。不遇な芸術家をパトロネージできるだけの経済力も身に付けている。そういう事には惜しみなく金を使ったが、自分のアトリエではお針子たちの賃上げ要求を退ける。この頃から芽生えていた従業員とシャネルとの問題は1940年代になって遂に大噴火に至るのだが、1920年代から既にしてその芽はあったという事もさらりと描かれている。


従業員には厳しかったシャネル トレードマークのくわえ煙草で

郊外の別荘で、ココの感性で整えられたハイセンスな内装と家具調度に囲まれ、作曲に没頭できるようになったストラヴィンスキー。四人の子供たちも忽ち快適な環境にのびのびとしてくる。夫に全てを捧げて肺を病んだ妻は忠実なパートナーではあるが、もはや情熱の対象ではない。病気の妻には悪いが、この環境でストラヴィンスキーにココに惹かれるなと言うのは無理である。奥さん、そりゃ無理よ。所帯窶れしているだけでなく、妻は病身である。しかも四人も子供がいるのに夜は物欲しげにくっついてくる。応じもしないけれど、背中も向けないストラビンスキーはそれなりに礼儀のある夫だと言えなくもない。妻・カーチャを演じるエレーナ・モロゾーワには重い存在感があって適役だった。

一方のココは自立した女である。自立して経済力のある女は自立して経済力のある男と同じ事をするようになる。かつて自分の中に何かを見出してパトロネージしてくれた男たちと同じく、今度は彼女が目をつけた芸術家に生活の安定を与え、何かと支援する代わりに一時のロマンスを求めるのだ。しかし、シャネルはパトロンとしては控えめである。自分の家に呼んで丸抱えで養ってやっているのに、ひとつ屋根の下に男の妻もいるからには極限まで気配は忍ばせなくてはならない。彼女は自分の家の中で声を立てずに男と抱き合うのである。この声なき情事の濃密なエロスが、ひんやりと整ったインテリアに囲まれて展開するさまは実に見事。
しかも二人の体もオブジェになったように、官能的だが生臭くなく、美しかった。



マッツンはわりにしっかりとした体付きで、抑えた中にも男盛りの色気がほとばしっていた。アナ・ムグラリスが鷹のような顔に植物的な体付きなので、もっぱら官能性はマッツンの担当。彼がずっと自分を支えてくれた病んだ妻と、刺激的なパッションと経済的安定と快適な仕事環境を与えてくれるシャネルとの間で葛藤し、白い湯船に身を沈める様子は印象的である。



進むも引くもならない二人は出口のない想いをそれぞれの仕事に昇華させる。互いに物造りである男と女の関係としては非常に正しいありようである。“女そのものを感じさせる香水”シャネルの5番ができるまでのああでもない、こうでもないというシーン(エルネスト・ボーはよく際限もなく繰り出されるシャネルの要求に耐えたものである)、一方でマッツンが家庭の不和に苦悩しつつも、ピアノに向かって滑らかに指を動かし気になるフレーズを繰り返すシーンなど、演技としてやっている感が全くなく、実にサマになっていて見事だった。

この作品、ココとストラヴィンスキーの間に湧きあがる濃密な“声なき”官能世界が鮮やかに表現されているのはもちろんのこと、とにもかくにも素晴らしいのは美術。見事なアール・ヌーヴォー様式の家具調度や室内装飾がその世界観をゆるぎなく構築していて、アール・ヌーヴォー(それに続くアール・デコも)好きなワタシとしては、眼福のつるべ打ちだった。本当にこの時代のものはなんでも全てハイセンスだ。さながら、アール・ヌーヴォー展覧会のごとき様相を呈していた本作。とりわけ、主要な舞台となるココの郊外の別荘の室内装飾が、本当にもう、どの部屋もため息ものでウットリした。基調色は白と黒である。ココの部屋や、ストラヴィンスキーの仕事部屋としてココが与えたピアノのある居間など、映るたびに人間ドラマと並行して画面に映っているものは隅々まで見逃せないと目をあちこちに走らせて観賞した。目が勝手にあれこれに吸い寄せられていくのである。あぁ、あんなところにラリックが…とか、あっちにもこっちにも気になるものがさりげなく配置されていて見ないわけにいかないのだ。と、かくのごとく鉄壁の美術に支えられ、人間ドラマの方だっていやがうえにも盛り上がろうというものである。


ストーリーを彩り、背後から支えるアール・ヌーヴォー装飾の数々 そしてココの衣装

シャネルを演じるアナ・ムグラリスは、特にシャネルに似ているというわけではない。むしろ顔はあまり似ていず、ギリシャの血も入っているのでどちらかといえばマリア・カラスに似ている気がする。けれども先入観を排除して自分なりのシャネルを演じた、と言っている通り、アナ・ムグラリスが演じるシャネル、という感じでシャネルそのものというよりも1枚フィルターがかかって、伝記というより、映画の世界の登場人物としてそれなりに魅力的だった。顔よりも姿や服の着こなしなどがココ・シャネルらしい雰囲気が出ていたように思う。アナが演じるシャネルは、1920年代初頭のヴォーグ誌のイラストから抜け出てきたような姿で、何を着ても長身で痩せぎすな体にとても似合っていた。長い3連の真珠のネックレスと煙草は常にセットである。どれも外せない。


シャネルというよりも、独自の存在感とムードが強力で魅力的だった

物造りとして、またビジネスウーマンとしても大成功を収めたシャネルではあるが、生涯、家庭には縁がなかった。別荘に呼び寄せたストラヴィンスキー一家の子供たちを構い、束の間の一家団欒に加わるシャネルだが、所詮それは彼女の家族ではない。彼女はボーイとも、ウェストミンスター公爵とも結婚を望まなかったわけではないが、それは叶わぬまま終わる。
シャネルは日曜日が嫌いだった。人々が家で家族の団欒を味わう日曜日…。
晩年、ホテル・リッツに独り住んでいた彼女が亡くなったのは、奇しくも大嫌いな日曜日のことだった。

アナ・ムグラリスは、ずっと“アナが演じるシャネル”という雰囲気で来るのだが、ラストにちらっと登場する最晩年のシャネルの姿は、異様な程本人に似ていた。背中の丸まったシャネル・スーツの老婆。その無残に枯れた首。本当に短いシーンだったが、「日曜日の嫌いなシャネル」のムードが色濃く漂っていた。

シャネルとストラヴィンスキーは、共に1971年に亡くなっている。シャネルは1月。ストラヴィンスキーは4月である。この二人は宿命の恋人というのではなかっただろう。ココ・シャネルにとっての宿命の恋人はやはりアーサー・ボーイ・カペルという事になると思う。けれども、違う世界に住む二人が人生のあるポイントで出会い、スパークして、その関係がそれぞれの仕事に深い影響を与えたという点で特筆すべき相手だった事は間違いない。シャネルの5番が生まれるためには、ストラヴィンスキーとの恋花火は欠かせない要素だった。

それにしてもココ・シャネル。生きて活躍した時代も、周辺の人間関係も、実にドラマティックで多彩で魅惑に満ちている。確かに3度も映画化されるだけの事はある人生だし、これから先も、どこかのポイントを切り取って映画化され続けていくに違いないが、本作はその中でも、映画全体を覆う美意識と独特のムード、濃密な官能性において特別に記憶される作品であり続けるだろうと思う。

***
ちなみに、ワタシも一応「シャネルの5番」を持ってはいるが香りはどうも昔ながらの「おばちゃん香水」という感じでちと苦手。この濃密な香りの味わいが分からないとは、ワタシもまだまだガキなんでございましょうか…。定番香水の中ではジャン・パトゥの「1000(ミル)」の香りは好きで、ゲランの「夜間飛行」などとともに、そろそろワタシもこのあたりの“大人の香り”をまとえる年頃になってきたかしらん、なんて思ったりはしているのだけど。
今のところ棚に並べてあるだけ、になっております。 …うーむ。香りの世界は奥が深うございますわね。

コメント

  • 2010/02/07 (Sun) 21:47

    観ました。
    まさに、白と黒のエクスタシーですね。kikiさんの副題いつも唸ります。笑
    2人とも手足が長いゆえ、アクロバットもステキでございました。
    美しい彫刻のような。綺麗!
    森の小屋での情事が1番人間ぽかったです。アハハ
    白いバスタブのマッツン・・・ワタシさ、あれアップだったから便器から出てきたかと思ったの。
    2回もあったよね。いやホント、ビックリ。
    これは、シャネル3作品で1番好きだった。

  • 2010/02/07 (Sun) 23:10

    お。そちらでも封切りになりましたかいな。
    唸っていただいてサンクス。副題つけるのも楽しみのひとつなのよねん。
    でも印象が散漫な映画の時は、ピっと浮かんで来ないのなりよ。

    マッツンが折角息をとめて頑張ってるのに、便器とは…。そうそう、2回あったね。
    監督があの演出を気に入ってたのかも。ともあれ、これはオトナ~なムードが良かったよね。
    シャーリー版を観てないけど、これが一番良いような気が致すわ。

  • 2010/02/16 (Tue) 07:41

    うーん!お見事なkikiさんのレビュー、堪能させてもらいました。
    アナは正統派美人ではないけど、もう物凄く雰囲気あって、かつ貫禄あるのに、
    時には少女のようでもあり、なんとも怪演!という感じ。
    そして、もうあの建築物やら、インテリアやら、小物・・・うなりましね~!
    アクセサリーや服と同様、もらえるなら、これかな~?!とか不純な動機で見てた(笑)。
    ラリック、確かにあちこちにあったね~!そして、マッツさん、確かに控え目なんだけど、
    けっこう押しもあって、上手いね。私はあの後ろ姿の美しさにビックリしたわ~。
    赤い涙を流すばかりではないのね・・・と。

  • 2010/02/16 (Tue) 08:04

    acineさんも絶対にお好きそうだものね~、この雰囲気。
    俳優たちも上手いし雰囲気が天下一品という感じで、全てにおいてこれは濃密にヨーロッパの世界だと思いました。監督の審美眼で選びぬかれたものをさりげなく毎シーン見せてくれて隅々まで堪能しましたねぇ。ほんと、眼福でしたわ。ワタシも最後の方でアナがつけてた真珠じゃないネックレス観てて、「あれ欲しいな」と思いました。(笑)
    それと、acineさんちで中国の家族のドキュメンタリーの記事も拝見しました。 熱いね!東京でもやってるので時間が折り合えば観てみたいと思います。

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