「地上5センチの恋心」 (ODETTE TOULEMONDE)

~ホワホワと生きるということ~
2006年 仏/ベルギー エリック・=エマニュエル・シュミット監督



原題はヒロインの名前である「オデット・トゥールモンド」。でもこの邦題はいいですね。
「譜めくりの女」は未見なので、カトリーヌ・フロはこれが初おめもじ。作為なくかわいいおばさんを軽やかに演じていて、観ていてついつい頬がゆるんでくる。ロマンス小説と人形と夕焼けの写真をこよなく愛するオデット。頭の中には常にジョセフィン・ベイカーの歌声が流れている。主演のフロもホワホワとしているし、お話もホワホワしている。しかも音楽がとても良いですね。効果的に挿入されているジョセフィン・ベイカーのハイトーンの歌声も相乗効果で物語を盛り上げる。全編にヒロインを演じるカトリーヌ・フロのほわりとした可愛さが効いている。ブリババ(死語かしら?)でなく、さりげなくカワイイというのはなかなかに至難の技だ。
そして「何があってもホワホワと生きる」というのも、また、なかなかに至難の技である。

常に陽気なジョセフィン・ベイカーの歌が脳裏を流れているオデット。しかし、彼女の現実はけしてハッピーというわけではない。早くに夫に死なれた彼女は昼はデパートで化粧品を売り、夜は内職で羽飾りをこさえて女手ひとつで二人の子を育てた。19歳になる美容師の息子ルディと無職で無愛想な娘スー・エレン、及びそのデブで無職の彼氏までアパートに同居する中、毎日勤めに出て、家事を切り盛りし、楽ではない暮らしを懸命に支えている。そんな彼女の慰めは、大好きなバルタザール・バルザンの小説を読むこと。そんなある日、憧れのバルザンがブリュッセルの書店にサイン会に来るとあって、勤めを半休したオデットはいそいそとサイン会に向かうのだが…。

憧れの作家の前に立ったものの自分の名前がまともに言えず、間違った名前でサインを貰って涙にくれるオデットだが、自己嫌悪に打ちのめされていても、家へ帰る道々、バルザンの新作を読んでいるうちにめり込みから立ち直り、いつしか体が宙にホワホワと浮いていく。いいですね。この体が宙に浮く演出もベタだとも陳腐だとも感じない。ひたすらにホワホワとして微笑ましい。オデット、あなたはそんなにもバルザンに癒されているのね。そうかそうか、よしよし。どんな時にも、それさえあればリカバリーできる、という癒しの元を何か1つ持っている、というのは重要な事なのだ。


どんなにめり込んでいてもバルザンの新作を読めば宙に浮くオデット
バルザンの作品は、批評家には三文小説でもオデットには生きる糧なのだ

オデットが愛読するバルタザール・バルザンは、いわゆるハーレクインロマンス風小説の作家なのだろう。批評家が嘲笑うように、美容師や、デパートのレジ係などの女性、またはオトメな男性にもてはやされるタイプの作家である。だが批評家が「無内容」だと全否定した彼の作品に命を救われた人もいる。他ならぬオデットである。夫に先立たれて絶望のあまり死のうと思っていた彼女を支えたのはバルザンの作品の数々だった。そんな“恩人”バルザンの前に出ると舞い上がって自分の名前さえ満足に言えなくなる彼女は、彼への感謝の気持ちをせつせつと手紙に書く。

バルザンをTVでこれでもかとコキ下ろす批評家兼作家は、バルザンの女房を寝取っている。その上、更にTVでも彼の作品をコキ下ろす。そのコキ下ろし方が並大抵でない。何の恨み~というぐらいに猛烈を極めている。いくら批評家だってTVでここまで言う事ってまず実際には無いだろうけれど、おフランスあたりじゃけっこうハッキリ言っちゃうのかしらん、などと思いつつ、ワタシも当ブログであまり面白くなかった映画について時折言いたい放題な事を書いているので、ちょっとだけ反省した。

ともあれ、宿敵の批評家に滅多斬りにされ、妻には裏切られ、一人息子は心を開かず、出版社の女性担当者にさえ侮られて、徹底的に凹んだバルザンは世をはかなんでしまうが、一命を取りとめた彼が絶望の底で読んだのは、オデットからの優しい手紙だった。そういう時でなければ人気作家が1ファンからの手紙を真面目に読む事もないだろうし、読んだとしても心に残る事は無かっただろうが、ともあれ、オデットの手紙はバルザンを崖っぷちのかぼそいネットのように支えるのである。人生に行き詰まり、落ち込んでいる時に、こんな優しい手紙を貰ったら、バルザンでなくても涙そうそうに違いない。


オデットの手紙に涙そうそうのバルザン

バルザンの作品に助けられたオデットの手紙が、仕事にも人生にも絶望しかけていたバルザンを包む。
最も理想的なファンと作家の関係といえるだろう。
余談だが、加山雄三も父・上原謙と経営していたホテル事業が失敗した失意の時期を支えてくれたファンの女性と結婚したのだと親から聞いた事がある。(違ったら失礼) そういう回り合わせも往々にしてあるものなのだ。

ついでながら、ワタシは愛読している小説の作家に実際に会ってみたいとは思わない。
著作物ほどには本人に魅力がない場合が多いように思うからだ。作家は作品だけ残してくれればそれでいい。

バルザンは人気作家だが、そのことだけでは満足できない。批評家に嘲られない、ノーベル賞を狙えるような作家になりたいという野心がある。そんな彼が、自分の熱烈ファンであるオデットに会って、彼女の生活を垣間見ると、まさに宿敵の批評家が言った通りのファン像であることに苛立ちを覚える。無論、オデットに苛立っているのではない。1から10まで批評家の言う通りなのが癪なのだ。

メタボロのバルザンに頼まれ、暫く自分のアパートに住まわせる事にするオデット。
からっぽの男と歩いても楽しくないだろう~というバルザンにオデットは答える。
「今まで与えすぎたんだもの、ムリもないわ」



バルザンは、そんなオデットに次第に癒しを覚えるが、ある日、何を思ったかふいにパリへ戻ってしまう…。

というわけで、人生のほろ苦い局面も折々描きつつ、総体にホワホワとした空気感でコーティングされた、さりげなくてかわいい大人の寓話。何といってもオデットを演じるカトリーヌ・フロの、上品でいながら陽気な愛嬌に溢れた個性が素晴らしい。この作品をよしんばハリウッドでリメイクしても、オリジナルのこの味は到底出せないだろう。カトリーヌ・フロのような味わいの女優が居ないからだ。また、彼女のキャラに、フランス語の軽やかでちょっと間抜けたような響きは欠かせない。「私の魂は黒人なの」というオデット。
「マルチニクのチキータ・マダム」をご陽気に踊るシーンはそのハイライトだ。


息子と娘を従えてウキウキと踊るオデット

何か嫌な事があっても心底どんよりせず、かといって偽善的に無理に明るく繕うのでもなく、家事をする時には常に大好きなジョセフィン・ベイカーの歌を口ずさみつつ、踊りながら楽しく片付け、嬉しい事があると体が宙に浮き、風呂の中でうっとりとハミングする、常に一人ミュージカル状態のオデット。が、裏を返すと、彼女はそれだけ楽しい事の少ない忍従の日々を送っているのだとも言える。ゆとりのない暮らしの中で、仕事のない娘と働かないそのデブで不潔な彼氏まで養っているのだから、いつも笑っているわけにもいかない。彼女が折々声をかけるキリスト風の青年は、彼女の心象風景を表す、彼女にしか見えない人物だろう。オデットは自己犠牲の人、ということである。

しかし、彼女には優しく支えてくれる陽気な美容師のゲイの息子ルディがいる。無愛想な娘、スー・エレンもいざとなると母をとても愛している。とりわけ、息子ルディとオデットの関係性は微笑ましい。陽気な息子は母親似の性格だ。二人の会話シーンなどを見ていると、ルディも居るし、まずまず幸せじゃないの~オデット、と思ったりする。


嬉しい事があると、ホワホワと宙に浮くオデット

バルザンがオデットのアパートに来た晩に、全員で居間で観るのが「羅生門」だったりするのもなんだか可笑しい。それも森雅之の夫が巫女の口を借りて証言するシーンなどをおどろおどろしく流していた。
この監督は日本が好きなんだろうか。セリフだけでも「日本」がちらちらと数回出てきた。

この作品で描かれているのは、ビタースィートな寓話であり、
全ては主人公オデットのキャラクター造形の上になり立っている。

既に若くなくても、経済的に豊かでなくても、女として身だしなみは忘れない。
派手な観光地の海よりも地味な地元の海を愛し、運命の人以外とはベッドを共にしない。
そして何より重要なこと、現実はほろ苦くてもホワホワと生きる ということ。




いかなる時にもホワホワと生きるというのは難しいけれど、けっこう重要な事だし、
うまくいけばかなり素敵な事だと思う。
何となく気分的に疲れてホワホワ度が下がっている時、ワタシはこの映画を観ることにしている。
見始めるとすぐに、何となくホワホワとした気分になってくる。
ワタシにとっての、ホワホワ特効薬である。

コメント

  • 2010/04/20 (Tue) 09:40

    kikiさん、この作品、けっこう期待して観にいった覚えがあります。
    本を読みながらバスの中でフワフワ~っと浮いている写真にかなり心ひかれて「これは観なきゃ!」と。
    でも期待が大きすぎて観たあと、あれ、なんか違う、がっくり・・ということがわたしはままあるのですが、これはそういう作品でした。
    いつも期待せずに観よう、と思うんですけどね。そして、わたしはフランス映画とは相性がいまひとつよくないようです。
    なので、本作の筋ももうあやふやにしか覚えておらず、kikiさん評を読んでやっとこ思い出しました。
    でも「羅生門」を見ていたとはまるで気づきませんでした。「羅生門」どころか黒澤作品を全く知らなかったですし、当時・・・。

    フランスにいたとき、本の批評番組がありましたが、わたしのヒアリングは当てになりませんが、オブラートに包んだような物言いをする人たちではないので、本作での批評場面はいささか誇張があるかもしれませんが、フランスならありうる・・とわたしは思います。
    自分の意見を九分九厘曲げず、自分の主張を貫き通すフランス国民の前においては日本人の奥ゆかしさなどは木端微塵でした・・・。でも愛すべき人たちです。

    kikiさん評を読んでもう一度見てみたい気もちになりました。
    「どんな時にも、それさえあればリカバリーできる癒しの元」、わたしには何だろうなあ、と考えました。なんだろ・・・。
    わたしもホワホワと生きていきたいです、常識の範囲で(笑)。

    (まるで余談:上原謙がわたしは苦手です。あの顔の造りがダメです。でも色男の類なんですよね??)


  • 2010/04/20 (Tue) 21:52

    何事もね、あまり過度に期待しすぎると「あれ?」って事になりがちですよね。ワタシも期待した映画ほどガックリ来て印象が悪くなるってことは往々にしてあります。これは劇場では観ていず、DVDで観たんですが、まるで期待せずに借りてみて、映画が始まってまもなくテーマ曲が流れ出したあたりで、「お、当りだな」と思いましたわ。なんか全体に空気感の好きな映画でした。どこが特に、というわけでもないけれど、何かがワタシのツボに入ったらしい(笑)カトリーヌ・フロ演じるヒロインがベルギーの八千草薫って感じで、なんとなく好ましく感じた、というのもありますね。ああいうキャラは自分とはまるで違うので、作為的でないホワホワ感が良かったのかも。ちなみにワタシはフランス映画って割に好きです。

    「羅生門」は、なぜかやけにおどろおどろしいイタコのシーンを使っているのがマニアックだな、と思いましたわ。本作の監督さんは、かなり何回も「羅生門」を観てるんでしょうね。そんな気がしました。
    そしてやはり、フランスではあのように歯に絹着せずに滅多切り書評をするわけですね。あのシーンはその書評番組をパロったのかもしれませんね。

    で、上原 謙は一応、端正な二枚目という事で売ったわけですが、興味の持てない俳優ですね。面白味がないという感じ。あと、時代劇では長谷川一夫が二枚目と言われてるけど、達磨にしか見えなくて…どこがいいのか分かりません。雷蔵の方がよっぽど綺麗ですわね。

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