「セルロイド・クローゼット」

~検閲との暗闘30年史~
1995年 米 ロブ・エプスタイン監督



「セルロイド・クローゼット」(1995年)というドキュメンタリーは、ハリウッド映画の中に隠された同性愛をテーマに、検閲と制作サイドとの攻防が脚本家や俳優の口を通じて語られる面白い作品。
「セルロイド・クローゼット」とは、映画に堂々と存在できないゲイの登場人物、及びそれを観るゲイの観客は、声高に自己主張できずに、ひっそりとクロゼットの中にいるようなものだという意味。
あの「スパルタカス」のカットされたシーンだの、「ベン・ハー」における検閲をおちょくったお遊びなど、いろんなエピソードに結構ニヤニヤします。

ワタシは同性愛者(主に男性同性愛者)について、あまり偏見がないほうです。(ま、汚いオヤジ同志のカップルとか視覚的に醜いのは受け付けないけど)かといって自分が女性なので女性の同性愛については興味もなく、かつて女性に対してそういう感情を持ったこともないですが、いずれにしても映画や文学上の表現としての同性愛には抵抗がないタイプです。抵抗がないというよりも、むしろ、そういうジャンルは面白いと思うタチですね。何といっても社会的禁忌が強い分、表現の仕方や、主人公たちのありようにも言うに言われない抑圧が加わるので、話にも人物にも複雑な陰翳ができて悪くないですわね。そういった文学や映画などの表現的な世界ばかりでなく、実際に自分の身近に友人などでゲイの男子がいても、まぁそんなもんだろうねと思っています。友達なら同性愛だって別に関係ないですね。恋人や亭主だったらさすがに困るけど、友達ならばそういう素質的傾向も尊重します。彼らの話というのは聞いていると結構面白いんですね。彼らの間の恋愛感情というのは全く男女間の恋愛感情と違わないものだというのも、ゲイの友達から色々と聞いているので自然に理解できました。

ところが、世の中にはけっこう根強く同性愛に対して偏見や嫌悪感の強い人も居られますわね。ホモフォビアという手合いです。これもなかなか根強いもののようで。でも、それはそれでいいと思います。価値観の多様性というものですのでね。いけないのは一色に染まること。多様性を許さないというヒステリックなところにまで進んでしまう価値観ですわね。

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ワタシ自身の見解を申し上げると、同性愛というのは人間の本能の一部なんだと思いますね。それでなければ異性愛と表裏一体で有史以来、ずっと存在してきたわけがないな、と。人によって強く出るか弱く潜在しているかの違いはあっても、多かれ少なかれ、誰にでも芽はあるものなんじゃないかと思うわけです。ましてや、古代ギリシャの例を引くまでもなく、キリスト教的倫理観というやつが世界中に蔓延する前の世界では、それは禁忌でもなんでもなく、ごく当り前の事として行われてきたわけですしね。どこの国にも大昔から売春婦と並んで男相手の男娼も存在したわけですから。わが国においても男色が最も盛んだった戦国時代以前も以降も、明治になってキリスト教的な価値観が蔓延するまで(列強と並ぶ為にそういう価値観に染まる事が大事にされたんでしょね)、別に禁忌でもなんでもなく、ごく当り前に存在していた事柄だったわけです。江戸時代の歌舞伎の世界では、売り出し前の修行中の若い女形は色子、または陰間と呼ばれて、副業としてご贔屓の旦那衆相手に夜伽をするのは当たり前のことだったわけですわね。

話を戻すと、古代から当たり前に存在していたところに人間の「本能」としての同性愛というものが窺われるのだけど、それが当たり前に許されているとドラマが生まれないので、強い禁忌に縛られているという状態も映画や文学の中では、また必要不可欠な条件かもしれませぬね。映画、殊にハリウッド映画を語る上で欠かせないのがヘイズ・コードと呼ばれる検閲。1920年代~30年代にかけて、映画における性表現が自由度を増すにつれてカトリック教会は眉をひそめだし、映画界に圧力をかけ始めたわけです。耐えかねた映画界は外部に検閲機関を作って倫理規制をかけたわけですが、ここにジャーンと登場するのが鼠顔の政治家ウィル・ヘイズ。彼の元、あらゆるタブーは強力に規制されることとなり、表現の自由も大幅に制限されることになっちゃった。無論、近親相姦や同性愛なんかとんでもないってわけで、それがテーマの作品なんかズタズタに切られるか設定を変更させられたわけですね。検閲官が台本を見て、ガンガン削除して勝手に話を造り変えてしまう。(「去年の夏突然に」などは検閲のお陰でさっぱりわけがわからなくなってしまった作品の典型)それゆえ、制作サイドは検閲官を出し抜くために暗喩を多用して、分る人にだけ伝わるように、タブーをにおわせる事にしたというわけ。知恵比べですわね。

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あるニュアンスが隠されているメッサラとジュダ(ベン・ハー)の再会シーン

名監督は巧妙に裏のニュアンスを隠して検閲官をだまくらかして、見る人が見れば分る暗喩を映画の中に散りばめて澄ましてました。まぁ、検閲のお陰で演出や表現に含みが生まれて味わい深くなった、とも言えるのかな。あけすけに表現するよりも、ヴェールで覆ってにおわすだけの方が表現としてより奥行きが深くもなるわけですしね。必要な暗喩の場合もあれば、遊びの暗喩の場合もありで。例えば、戦車競争で有名なあの「ベン・ハー」。監督のウィリアム・ワイラーに、作家のゴア・ヴィダルが「ただ普通に撮ったってつまらないから、ジュダとメッサラが16歳ぐらいまでは愛し合っていた事にしよう」と提案。しかし、これは「キリストの物語」と副題がついている映画なんだぜ、と当初は躊躇していたワイラー監督も結局やる気になり、メッサラのスティーヴン・ボイドにはヴィダルが、C・ヘストンにはワイラーがニュアンスを説明することにしたそうな。
ヴィダルによると、何となくこわばり気味のヘストンと事変わり、スティーヴン・ボイドの演技は完璧だったとか。言われてみると、冒頭、二人がオトナになって久々に再会するシーンでは、メッサラがやったらに嬉しそうなんですわね。はぁはぁ息を弾ませて、目なんか輝かせちゃって。それにジュダ(ヘストン)の腕とか背中にさりげなく触ってることが多い。確かにメッサラはハイになりすぎで妙に舞い上がり「恋する乙女」のようでもある。
ふふふ。ヒステリックな検閲官をおちょくって舌を出している制作サイドの姿が目に浮かびますねぇ。

そして、カーク・ダグラス主演で有名な「スパルタカス」。ここに登場するローマの将軍クラッスス(ローレンス・オリヴィエ)は美青年の奴隷アントニヌス(トニー・カーティス)を一目見て気に入り、従者にしますのね。カットされたのはクラッススの入浴シーン。アントニヌスはお背中を流すわけですが、「カキとカタツムリ」の比喩を用いてクラッススはアントニヌスにお夜伽をやんわりと申しつける。そりゃキューブリックだもの。検閲なんか恐れない。それゆえ誰が見てもニュアンスは分るので、当然ながら敢無くカットの憂き目に…。このシーンを解説する爺さんになったトニー・カーティスのアイロニカルな名調子もなかなかです。


「スパルタカス」(1960)

また、「理由なき反抗」のサル・ミネオが演じたキャラは疑いもない同性愛者で、ジミー演じる同級生に恋をするけれども、そういう異端者は罰せられなければならないので、彼には撃たれて死ぬという結末が待っている、とも紹介しておりました。

思うに、性表現が無制限に自由になったかのような現代でも、このへんの「倫理観」の名残だけは残されていて、骨折り山こと「ブロークバック・マウンテン」でも、相棒をその道に引きこんだジャックの方に死が与えられるわけですね。このへんはハリウッドの伝統的なしきたりに従った流れでもあるんでしょうね。

70年代に入ると、この小うるさい検閲もなし崩しに潰え去るわけですが、ハリウッド黄金期を30年もの間、陰から締め上げてきた検閲の存在抜きにハリウッド映画は語れないという側面はありますわね。そういう検閲との暗闘を踏まえつつクラシック・ムービーを見直してみるというのも、またオツなものかも、です。

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