ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ…カジノ・ロワイヤルのベネチア

ベネチアという都市には、昔から興味があった。ベネチアとか上海とか、その成り立ちが特殊な海に面した街というのは、独特の魅力に満ちていて、しかも退廃的なのが特徴だ。(同じぐらいに思い入れは強いけれど、上海についてはまた別の機会に書くとして、今回はベネチア。)



ベネチアについての本で一番有名なのは、塩野七生の「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」だろう。沼地に木の杭を打ちこんで、その上に石を積んで街を造ったなんて、この本を読んで知ってかなり驚いたものだ。
そんなわけで、沈む。
ずぶずぶと、刻々と、少しずつ宿命的に沈みゆく都市なのだ。

ベネチアを治める元首(総督)をドージェといい、ドージェが住む宮殿をパラウッツォ・ドゥッカーレというのだという事は塩野センセイの本を読むより前にマンガから教わった。昔、森川久美さんというマンガ家がベネチアシリーズというのを書いていて、主人公バレンティーナはオスカル様のごとく美しい、金髪の男装の女性元首。(この男装の麗人ドージェが「クリスチナ女王」のガルボ様っぽい雰囲気を醸していて、なかなかに素敵。 …ちょっと脱線した)

ドージェは、都市の浮沈を握る地中海の神をなだめるのも仕事で、「海との結婚」という儀式をつかさどる。海に銀の結婚指輪を投げ入れていわく、
「海よ、おまえと結婚する。おまえが永遠に私のものであるように」

その結婚は固く果たされ、ベネチアはいずれ海の中に緩やかに没していくに違いない。
永遠の海との結婚である。

そんないずれ滅び行くさだめを負っている都市ゆえに、「死」と「退廃」のイメージは色濃くベネチアを包んでいる。それをもっとも端的に表現したのが、あの「ベニスに死す」。小説もいいが、映画はもう言わずもがな、である。音楽にマーラーを持ってくるなんて、本当にニクい。
ロマンティックでゴージャスであるが、表裏一体に「死」と「退廃」を抱えているというところがベネチアの魅惑の源泉である。カルナヴァーレの絢爛と喧騒の狭間にも、すぐそこに死が忍び寄っているというイメージだ。

ここからはすでに観た人だけが読んでください。

そういう都市であるベネチアにクライマックスを持ってきたところが、これまた「カジノ・ロワイヤル」にワタシが思い入れる所以だ。
光と闇が同居する中、運命もまた交錯する。地中海のさんさんたる日差しをあび、ボンドが幸せの絶頂をすごし、最大の喪失を迎えるベネチア。
ここで「ベニスの死」を迎えてしまうのは最愛の女…沈みゆく街に、沈む女である。
運河に沈むヴェスパーは、オフィーリアのごとく髪を水中にくゆらせてひたすら悲しく儚げだ。(水中であんなに美しく優雅に死ぬのは現実的には不可能だろうが)
彼女が、扉をこじ開けようとしているボンドにつと近づいて、本当にいとおしそうにその指に頬擦りし、くちづけるシーンはしみじみ切ない。


「別れのほおずり」

この映画は「指」を使った愛情表現がうまい。シャワールームで指の血が落ちないと震える彼女の手を取って、ボンドがその指をくわえるシーン、そしてセリフとしては「たとえ小指だけになっても…」のシーン(このへんは、もう1回見てきてからまた書こうと思う)そして死に際してヴェスパーがボンドへの愛情と farewellを表現するこのシーン。
ヴェスパーが最後にボンドの指にくちづけるのは、シャワールームで、ボンドが自分の指をくわえて落ち着かせてくれたことへの、愛のサインのお返しである。

そして彼女は自ら激しいといってもいい勢いでボンドから離れ、行って と叫ぶ。
よしんば生き残っても、ボンドには裏切り女として憎まれるだけである。
それならば自ら死を選び、永久に男の心の中で生きたほうがいい。
ボンドは超人的な肺活量で、彼女を檻のようなエレベータから救い出そうとあがく。この時点ではまだ、自分の愛と信頼を裏切ったbitchであるとしか思えないにもかかわらず。そして崩壊した空家の屋根に引き上げ、すでに冷たくなった女に人工呼吸を施す。もう息を吹き返さないと分った時、それは死の接吻へと変っていく。呆然として、死んだ女をみつめる。自分を騙した女の骸(むくろ)を抱きしめる。たとえどんな女であったとしても、生きていて欲しかったのだ。
何故なら彼女はただ一人、ボンドが「裸の心」を見せられる存在だったから。
このヴェスパーの死から、Mとの会話まで、ダニエルボンドの目は、凍りついたような薄い水色である。

…bitch is dead.    「もう、誰も愛さない」って感じでしょうか。

ヨットに揺られながらのMとの一連の会話の間、ボンドの顔は憂愁に沈んでいる。
遣り切れなさを隠し、強がりで言う「bitch is dead.」 しかし深い喪失感はぬぐえない。
彼の背後には「沈み行く」ベネチア。
そして運河の底には、彼の「心」が永久に沈んでいる。

「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹の淡き線となる」( by Soseki Natsume)


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