「午後の曳航」 (THE SAILOR WHO FELL FROM GRACE WITH THE SEA)

~海こそは数少ない、許しうるもののひとつだよ~
1976年 英/日 ルイス・ジョン・カリーノ監督



「午後の曳航」は、何といっても中学1年生だったワタシが最初に三島由紀夫の作品というものにふれた小説であり、いまだに好きな作品でもある。原作は昭和30年代の横浜が舞台だが、この小説は時代も国籍も超越した作品であり、これを英国の港町に置き変えてもなんら支障はないどころか、むしろ外国で映画化された事で余計に三島の原作の持つフィーリングがよく伝わってくる出来栄えになっていると思う。
20代になってから、この映画化作品の製品版VHSを買った。まだ単価がやたら高い頃である。しかも何故か日本語吹替え版を買ってしまって、去年随分久々にビデオラックから取り出して観て「あら、日本語だったんだっけ…」とガックリしたのだった。そんなわけで先日、映画チャンネルで英語版が放映されたのを一応捕獲しておいて久々に観賞。



主人公の少年

主人公の少年は、港町で洋品店を営む母と二人で暮らしている。父は数年前に亡くなった。海と船に強い憧れを抱く彼は、ある日、港に寄航した船のニ等航海士と知合う。船乗りと母は忽ち惹かれ合い、大人の関係になるが、主人公の少年にとって船乗りは束の間は地上にあっても、いずれ栄光と冒険に満ちた海に戻っていかねばならぬ存在であり、けして地上にとどまって愚劣な日常の中に埋没してはならぬものだった。その船乗りと母が結婚を決意し、彼にとっては特別な存在だった筈の船乗りが父親などというものになり下がろうとしている事を知った時、少年は仲間とともにある行動に出る…。

この作品で最もいいところはキャスティングだと思うのだが、母を演じるサラ・マイルズも適役なら、主人公の少年(原作では登、映画ではジョナサン)にとって、海の栄光の象徴であった男らしい船乗りに歌手のクリス・クリストファーソンというのが、また巧い配役だ。頭は良いが可愛いげのない内向的な主人公の少年を演じるのがジョナサン・カーン。これも実に適役。


女盛りの母を演じるサラ・マイルズ

最初にこの作品を読んだ頃、萩尾望都作品に夢中だったワタシは「午後の曳航」に登場する少年達の中に萩尾ワールドに通じるものを見出した。そのキーになる登場人物が13歳の「首領」である。この映画では、首領役を小説を読んでイメージしていたのとほぼ違和感のない少年(アール・ローデス)が演じていたのが何より良かった。日本で映画化していたら、まず首領や主人公の少年などのキャスティングに不満爆発になる可能性大で、この映画のようには到底いかなかっただろう。この適材適所のキャスティングが、ダグラス・スローカムの撮影による美しい海や空や港町の映像や、ジョニー・マンデルの音楽とともに、この映画の好印象に大きく寄与している。



首領は、クラスの中でも成績優秀で裕福な家の少年たち6人からなるグループを率いている。首領の地位だけは不動だが、2号以下5号までは、適宜、各人の行動やグループへの貢献などにより首領の判定によって入れ替わるシステムだ。主人公の登=ジョナサンは現在のところ3号である。
首領は13歳の少年にあるまじきシニカルな人生観を持ち、高邁な哲学を披瀝して、仲間をアジテートするカリスマである。が、世界の圧倒的な虚しさや、父親こそは諸悪の根源であり、愚劣極まる存在であると仲間たちに説く彼の考察の源は、常に家を留守にし、彼を一向にかまいつけない彼の両親(特に父親)と、常に無人の、からっぽでだだっぴろく寒々しい彼の家から育まれたものであるらしいところが、唯一、この早熟でかわいげのない首領の子供らしい部分でもある。


13歳の首領 雰囲気が出ている

この原作を読んだ13歳当時、同じ年の少年たちが描かれたこの小説の中で、ワタシが最もフィクション的魅力を感じたのは、この首領のキャラクターだった。(ワタシは小説や映画の中のアンファン・テリブル系のキャラがけっこう好きである)その当時だってこの小説が書かれてから随分な歳月がたっていたのだけれど、「午後の曳航」は内容も人物描写もまるで古びず、時の篩いをすり抜けるものだけが持つ魅力を放っていた。いまだに放っている。ワタシは脳裏に小柄で華奢で色白な美少年を思い描き、あの三島の文体で修飾された首領の言動にニヤニヤしつつページをめくったものだった。

そいつは、海から飛び出してきて体が濡れたままの獣のような、素晴らしい奴なんだ、あいつは今にきっと何かをやるよ、と母と一夜を共にした船乗りについて語る主人公に対して、首領は「英雄なんてものは、この世にいないんだよ」と赤い薄い唇を歪めて言う。

 「君はまだ人間の考察に甘いところがある」
 と十三歳の首領は冷たく言った。
 「僕たちにできないことは、大人にはもっとできないのだ…」
 (三島由紀夫 「午後の曳航」より)

この首領の台詞はラストでの彼らの行動を象徴する台詞である。あと1年先ではもう実行に移せない、13歳の今しかできない行為である。首領が仲間たちを前に、薬をかがせた猫を生きたまま解剖し、「フランネルみたいな切り心地だぜ」という場面は今だにストライキングだ。ただし、この台詞は原作だけにあって、映画の猫解剖シーンにはない。
ただ蛇足ながら付け加えておくと、こういう少年は小説や映画など虚構の世界では面白いが、実際に存在されたりすると勿論ゆゆしき事態ではある。現実の世界にあっては、少年時代に猫を殺したり、残虐な実験の対象にしたことのあるような人間には要注意だ、という事は確実に言えるだろう。


がらんとした自宅の父の書斎で仲間たちと会合を開く首領

ともあれ、物語の登場人物としての首領は非常に印象的で魅力的なキャラクターであることは間違いない。原作の首領に関する描写で覚えている箇所はいろいろあるが、優等生で、虚無的な内面を隠していつでも感じのよい微笑をうかべる事ができ、色白で華奢な美少年で、赤い薄い唇と半月型の眉をした先見的なカリスマである首領は、この物語の重要な登場人物であり、物語世界の魅力の何割かを担っている存在だ。映画でもそれらしい少年が上から目線の首領をそれらしく演じていて、なかなか良かった。

再見してみると、サラ・マイルズ演じる母のキャラもよく描かれていると思う。まだ30代前半の若い身空で未亡人となり、夫の残した老舗の洋品店を切り回しつつ一人息子を育てているが、女盛りを一人で過ごす虚しさにも耐えられなくなって来ている。そんな彼女の遣り切れなさを表現する印象的なシーンもあるが、これはまさに原作通りのシーンだ。そして、あの三島の文体で綴られる母の部屋の様子が、そのまま映像に移しかえられているのもワタシがこの映画化作品を好きな部分である。
原作のエッセンスを絶妙な形できちんと取り込んでいる映画だと思う。


原作のイメージ通りの母の部屋

主人公が覗き見る、部屋で一人でいる時の母の姿

息子を育てつつ、このまま一人で年を取っていく事の虚しさを感じている彼女の前に、逞しい船乗りが突如として現れる。お互いに待っていた存在の出現。そういう関係になってから、再び航海に出る船乗りを見送る母の心情。もう二度と、ひとりの生活には戻れない。戻りたくないという切なる女の願いをサラ・マイルズはしっとりと表現している。



一方の船乗りは、何か輝かしいものを求めて船に乗ったものの、海のかなたには何もない事を知ってしまった男だった。これまで船を降りなかったのは、ただ単に、地上に彼の心を繋ぐものがなかったからだ。しかし、待っていてくれる女がいるとなれば海や船から身を引く事など問題ではない。愛する女とめぐり合ってからの航海は余計に味気なく、自分がつくづくと、そんな船乗り生活のみじめさと退屈さに疲れ果てている事に気付くのだ。
 
 栄光はどこにも存在しなかった。世界中のどこにも。
 北半球にも南半球にも。
 あの船乗りたちの憧れの星、南十字星(クルセイロ・ド・スル)の空の下にも!
 (三島由紀夫 「午後の曳航」より)



13歳の主人公は、ふとした事から発見した壁の穴より、自分の部屋から母の寝室を覗く事ができることに気づく。そして彼は母と船乗りとの情事を覗き見する。しかし彼は船乗りと自分の母が男と女として惹かれあい、愛を交わす事に拒否反応を起こしているわけではない。むしろ、それは船乗りにとっての英雄的行動であるとみなし、また「世界の内的関聯」を象徴する行為である、と捉えている。しかし、それは船乗りがあくまで一過性の存在として通り過ぎて行くものであり、地上の日常生活の中に入ってくるものではない、と思っているからこその見解でもある。船乗りは海に戻っていくべき存在であり、母(=女)の元に定着などしてはならない。それは母を奪われたくないという世間一般の少年の感情とは全く別のものである。日常的な退屈な存在とは一線を画す船乗りの男にある種の理想を見出していた少年は、退屈で忌むべき自らの将来の象徴である父親などに、英雄たるべき船乗りが堕落する事などあってはならないと思っているのである。
それはマザーズボーイの感傷などとはおよそ異なる少年の心理だ。原作を読まずに映画だけを観た人には、ここの部分が伝わりにくいかもしれない。少年の憎悪について、結局は愛する母を奪おうとした男に向けられたものであるとみなす人がいてもムリはないが、三島が伝えようとしたテーマは違う。(映画では息子と母の間に原作よりも濃密な愛が通っているように描写されているが、原作の少年は自分の母をも物語の登場人物のように客観視するクールな少年である)そして少年たちは、失墜したイカロスをそれ以上堕落させないための救済行動に出るのである。

原作小説の中に象徴的な場面がある。主人公の少年は夢想するのだ。
「なんとか、僕が室内にいたままで、その同じ僕がドアの外側から、鍵をかけることはできないだろうか」と。

つまり、彼はいずれ自分も否応なく大人になって、英雄のアンチテーゼとしての父親、凡庸で卑俗な日常の繰り返しの中に埋没する父親にならざるを得ない未来を拒みたいと願っているのである。今の自分のまま大人にならずにはいられぬものであろうか、と。そんな彼は、船乗りの姿に未来への活路(大人の男の理想像)を見出したかに思ったが、船乗りが他ならぬ自分の母親と知合ったがために、「海の栄光」(=非日常的な男らしさ)を捨てて日常に埋没しようとしている事を知り、あまつさえ自分を父親として調教しようとしはじめたことで怒りに震えて仲間にそれを告発する。そして全ては首領があらかじめ予見していた通りだった事に気付くのである。船乗りは英雄なんかではなかったのだ、と。


そしてうららかな晴天の日に…

主人公をメインとする少年達があるうららかな日に抹殺したのは、おぞましい自分たちの未来の姿に他ならない。そして、海に憧れ、英雄や冒険に憧れ、父親という存在を忌み嫌う少年のありようには、三島由紀夫その人の影が投影されているように思う。

キャスティングに撮影、脚本と演出のアンサンブルが有機的に機能して、見事に三島文学を映像化した作品だと思う。この原作については、つくづくと日本で映画化されなくてよかったと思うし、これからもしてほしくない。「薬指の標本」の時にも思ったが、日本語で書かれた日本の作家の小説の中でも、ある種の小説は映像化する場合には外国で映像化した方がいいものがあるという事は確実にあると思う。
そして、本作や「薬指の標本」などは、その数少ない成功例だと思う。

***
余談だが、UKの港町を舞台に母と息子の前に、突如として海の向こうから男らしい船乗りが現れる、というシチュエーションは「Dearフランキー」も同様である。そういう基本設定の上に三島文学を展開すると「午後の曳航」になり、素朴なヒューマンドラマにすると「Dearフランキー」になるわけである。味付けによって同じような素材でも全く異なる料理になるのが面白いところである。

コメント

  • 2010/11/14 (Sun) 14:51

    kikiさん、たいへんに興味を持ちました。
    「読書の秋」ももうすぐ冬の季節になろうとしてますが、わたしは今読書にはまっています。それと今朝の朝刊の書評で三島のこの作品のことに触れている小さな記事があって(没後40年ということで、色々と書籍が刊行されているようですね)、司馬遼太郎はこの作品を三島の傑作と位置づけていたとか。三島作品はいくつか読んだけれど、これは全く眼中になかったです。「ゴゴノエイコウ」って読むんですね、それも知らなかった・・・。抵抗空しく否応なく大人にならざるを得ない少年たちのその過程というのは覗き見したいそそられるテーマです(笑)。三島作品ということであれば眩暈をもよおしそうなレトリックの嵐なのでは、、と想像しますが、その眩暈も含めてうっとりしてしまいそうですね、ふふふ。
    そのうち書店で探し求めてみたいと思います。

  • 2010/11/14 (Sun) 23:30

    ミナリコさん。「午後の曳航」は中篇だけど三島の代表作の1つだと思います。新潮文庫にも入っているし、探さなくてもある程度の規模の書店の文庫コーナーになら必ずあると思いますよ。そして彼がこの映画化作品を目にしたら、きっと喜んだと思うのだけど、前年に亡くなってるのでね…。ふぅん、この小説が朝刊の書評に出てましたか。三島は昨今はあまりはやらないとも思うし、その死に方のせいで幾らか作品も色眼鏡で見られるキライもなくもないだろうけれど、才能と作品は何があろうとこゆるぎもしませんわね。三島作品の中でワタシが一番好きなのは「宴のあと」ですが、「午後の曳航」はワタシにとっての初三島作品なので忘れがたい中篇小説です。大人になった今では主人公の母の心情もよく分るし、それが作品の核でもある少年たちの世界もやはり魅力的に描かれています。「春の雪」ほど、きらびやかなレトリックを駆使しているという作品ではないけれど、まぁ、何を読んでも三島の文章は磨きぬかれていて間違いなく心地よいですわね。ワタシはいまだにあまり文章の巧くない作家の本を読んでしまったあとでは口直しに何か三島作品を読むぐらいです。(笑)

  • 2012/08/31 (Fri) 23:56
    興味深いです!

    はじめまして。書き込みをさせていただきます。この作品に興味があるのですがまだ観たことがありません。
    近々みる予定であります。
    所持していらっしゃる日本語吹き替えはどなたが声優をしてらっしゃいますか?当時は俳優の方々が数多く吹き替えをなさってますよね。
    気になります。
    しかし、大変に希少なものをお持ちなんですね。
    すばらしいです!

  • 2012/09/01 (Sat) 22:07

    ナカさん 初めまして。
    近々、ご覧になるんですね。日本語吹替え版のVHSには、残念ながら声優の名前が一切記述されていないので名前は分らないんですが、主役の少年の声は思春期の少年の声をよく吹き替えている人です。非常に聞き覚えのある声です。昔、VHSで製品版の映画などが売り出された頃というのは、軒並み価格が1万ぐらいしたのに、今みると非常に解像度の低い劣化した映像で、全く割に合わない事夥しいのですが、反面、懐かしくもあります。「午後の曳航」はDVD化されていて、価格も通常の価格なので、見ようと思えば見られますね。もし、日本語音声も入っていれば、昔の吹替え版をそのまま入れているかもしれませんけど、英語音声だけかな。ともあれ、映画自体の出来は原作のムードを非常に良く伝えています。この作品を映画化するなら、まさにベストの映画化じゃないかと思われます。

  • 2012/09/02 (Sun) 09:32
    原作も読んでみたくなりました

    御返事ありがとうございます。
    常々ブログの内容も勿論ですが大変に分かりやすい返答をいただいて助かりました。
    字幕放送は最近放送があり、またゆっくりと鑑賞致しますところですが、吹き替え版も、仰せの通り近年では市場に出回っておりませんので困難かとは思いますが個人的には両方を鑑賞したく思っています。
    精々、発見できるよう検索していくばかりです。

  • 2012/09/02 (Sun) 21:53
    Re: 原作も読んでみたくなりました

    ナカさん こんばんは。
    日本語字幕版を探すとなるとけっこう稀少かもしれませんが、Yahooオークションなどで中古のVHSを探す、あるいはBookOffなどをチェックすると、ひょっこりと出てくるかもしれませんね。DVDに吹替え音声が入っていればベストなんでしょうが、入っていないんでしょうかね。VHSしか無いとなると、あまり映像は綺麗じゃないですが、その気で探せばきっと出てくると思います。検索あるのみ、ですね。原作も是非読んでみてください。原作を先に読んでも全く違和感はないと思います。

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