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ヴェスパーにとっては、何はともあれ、巨額の国家予算を失おうとも、ボンドが勝負に負けてくれたほうが良かっただろう。ボンドが見抜いたル・シッフルのブラフの癖を内通したのも、早く勝負をつけてしまって、こんな苦しい状況から一刻も早く解放されたかったからに違いない。だから追加資金があると最初に言いながらも、頑としてボンドに追加の金を出さなかったのだ。負けた方が事はシンプル。失うものは金だけだ。しかしボンドは勝ってしまう。だがそこで全てが大団円にはならない、勝つと物事が余計にややこしくなることが分っていたのは彼女だけだった。祝杯をあげようというボンドに付合って食卓に向かい合ったヴェスパーの胸中はどんな複雑なアラベスクを描いていたのだろう。



目の前で屈託なくキャビアを載せたトーストを食べているボンド。最初は傲慢で冷血漢で自惚れ屋の、鼻持ちならない厭な奴だと思っていた。でも、その彼にして人の痛みを察していたわることができる鋭敏で繊細な神経があったのだ…。あのシャワールームで、何かが変った。あそこで彼女に何かが生まれたのだ。ヴェスパーもボンドに心の一部を預けてしまった。そして彼女の抱える問題はより複雑になった。

ボンドはオリジナルカクテルを味わって満足げだ。最初にレシピを思いついたとき、ヴェスパーへのキスと交互に味わったドライ・マティーニ。



「うん、いける味だ。このカクテルに名前をつけなきゃ。…そうだな、ヴェスパーって名づけよう」
「…ほろにがいから?」
「一度この味を知ったら、もう他のものは飲めなくなるからさ」
殺し文句を言ったあとで、ふっと照れくさくなるボンド。



「ぐっとくるセリフだろ?」 
「そうね、素敵だわ」
ふと少女のように微笑むヴェスパー。いつも硬く仮面を被っていた彼女の笑顔。



「…君が笑った」
冷笑ではない彼女の笑顔は初めてだ。 …君は俺を厭な奴だと思っていたろ?
「だって、あなたが可笑しいからよ…。」
ボンドは少年のような顔ではにかみ笑いをする。心底骨の折れた仕事を片付けて、気になる女と二人きり。「生きてて良かった」ひとときなのだ。

更に、彼女はずっと自分を見ていたボンドの「視線」に気づくことになる。彼は会いしなから彼女が常に身につけているネックレスに気づいていた。それが特別な相手からのプレゼントであることも。彼女の想いがずっとそこにあることも。
「そのネックレスは、愛の飾り結びだね」 
「綺麗だから買ったのよ」
「嘘つけ。誰かの贈り物だろう?」 一体どこのどいつなんだ。そんなにいつも肌身離さず身につけていたいと思うなんて。
「ラッキーな男だな…」 君の気持ちはここには無いか。俺の入れる隙間も無いか。

ヴェスパーの顔にたちまち宿る複雑な翳り。
あの人がラッキー? 私と関係があったばかりに今はル・シッフルに捕らわれているあの人が?

そして、"不吉"な彼女の携帯が鳴る。

「君は何かに追われている、何かは判らないが、何かに追われている。」

ボンドは、硬い殻の中で些細なことにも震え、揺れ動きやすい彼女の心が、なにか外的要因によるものだと漠然と気づいている。そしてそのエキセントリックささえ、魅力的に思えるのだ。


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