パスワードはV・E・S・P・E・R   

ヴェスパーは自分が囮になったために、捕らえられてしまったボンドがどんな目に遭わされるか、分っていただろうか?彼の苦悶の声を聞きながら、どんな思いで居たのだろう。ホワイトと取引をして、辛くもボンドの命を救った時に、彼女はそこではっきりと自分は死ぬ覚悟をしたのだろう。ル・シッフルが死んだという事もあったにせよ、彼女は恋人を捨て、最終的にボンドを取った。運命とはいえ、二重三重の裏切り。

死の拷問から蘇ったボンドが小康状態になった時、彼の前でヴェスパーが素直になったのは、過去を振り切ってボンドの愛につかの間でも応えようと思ったからに違いない。死線を脱し、好きな女を目の前にして生まれたての子供のように安らいでいるボンドを見ては、彼女は高ぶってくる自分の感情を抑えることができない。



「たとえあなたが全てを失って、笑顔と小指の先だけになったとしても、
あなたは私にとって、男の中の男よ」




(なんでそんなに高ぶってるんだ?俺はもう大丈夫だよ)
「…君は俺の小指の技を知ってるか?」
「知らないわ」
「試してみたい?」



ここでボンドは究極の愛の言葉を彼女に囁く。  
「俺の鎧は君に脱がされた。裸の俺は、いついかなる時にも、まるごと君のものだ」
彼女の頬をつたう涙。
I'm yours. こうまで言われて裏切らなければならぬとは、いかなる星のもとに生まれて来たのだろう。
そして、彼女は更にボンドの想いを知ることになる。彼が決めたスイス銀行の口座のパスワードは「V E S P E R」。それは二人が出会った日に、カジノで決めたパスワードだ。6文字以上で、と行員に言われて彼の脳裏にはすぐさま彼女の名前が閃いたのだ。ボンドは愛と信頼の証に、彼女にそれを入力させる。スペルを辿りつつ3文字目で自分の名前に気づき愕然とする彼女。入力しおわると、よろめくように背を向け、椅子にへたりこむ。額に手を当てて身を支える。ボンドの無垢な笑顔さえ、見るだに辛い。彼を愛さなければここまで辛くもなかっただろう。初対面の印象通り、ずっと厭な奴だと思っていられたらどんなに良かったか…。

体が回復し、二人の関係が深まるにつれ、ボンドは明日をもしれないスパイではなく、ただの、一人の平凡な男として生きたいと願うようになる。二人のベッドで、ボンドが彼女との将来を夢見ている時、傍らのヴェスパーは彼を残して、一人旅立たねばならない日の事を考えている。それは今生の別れ、二度とこの世では会うことのない別れだ。この次、連中から連絡が入ったら、彼女は行かなくてはならない。それは本当に遠くない未来、ほんの数日先のことかもしれないのだ。
平穏な未来を思う男と、永遠の別れを考える女。
つかの間の幸せに浸りながらも、二人の間には既に此岸と彼岸とを隔てる川が流れている。


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