「若者のすべて」 (ROCCO E I SUOI FRATELLI)

~家族愛という不条理~
1960年 伊/仏 ルキノ・ヴィスコンティ監督



長いし、重いので、随分昔に一度観たきりのこの作品。先日、BShiで放映されたのを捕獲しておいて、ようよう観賞。
原題は「ロッコとその兄弟」という意味で、まさに映画の内容そのもののタイトルだが、「若者のすべて」という分ったようなわからないような邦題の方がイメージは良いかもしれない。ロッコというのはアラン・ドロン演じる三男坊の名前。若いドロンは遺憾なく美しく、けなげで、黒い前髪を額に垂らして、控えめに微笑む表情を見ていると、そんな馬鹿な…と言いたくなるほどしょうもない兄貴を庇い続ける「聖人のような」三男坊をあのドロンが演じているという違和感を、その若さから醸し出される健気な雰囲気が抑えこんでいるという感じがする。
50年代というのは、日本も貧しかったがイタリアも貧しかったのだなぁ、と昔の映画を見ているとよく思う。これは60年制作の映画だが、時代の背景は50年代をまだ引き摺っているのだろう。とにかく貧しい。主人公一家も当然貧しく、北のミラノに出た長男を頼って母と次男以下四人の兄弟が、南の田舎から全員出てきて安アパートの一間にゴッタ煮のように住む、というところから始まる。


真冬のミラノでボロアパートに素足…貧しく、寒い

長男ヴィンチェがミラノに来るキッカケを作った恋人ジネッタにはクラウディア・カルディナーレ。この頃はまだトレードマークの猫目化粧をしていないので気が強そうではあるが、普通の美人ではある。話をしてていきなりスゴイ平手打ちを男に食らわしたりするのがいかにもイタリアだなぁという感じ。


猫目化粧でない方がいいクラウディア・カルディナーレ

ボクサーを目指す次男のシモーネ(女の名前みたいに感じるが英語読みするとサイモンになるのだろう)にやたらに惚れこまれる娼婦ナディアにアニー・ジラルド。一応出ているというだけのカルディナーレに較べると、ドラマティックな役どころで非常に目立っている。ナディアはこの物語の中で、一番浮かばれない気の毒な登場人物だ。


ロクデナシに惚れられたばかりに人生台無しのナディア(アニー・ジラルド) 

イタリアは南国というイメージがあるが、北部のミラノはとても寒いというのは漠然と知っていた。本作でも貧しい一家は冬にミラノに到着し、戸外に雪の降る寒い大都会で肩を寄せ合って暮らし始める。父親は既に亡く、故郷では暮らしが立たなくなって一家で移住してきたものの、三男ロッコの望郷の念は限りない。ここに、暖かい南から寒い北の大都会に来た、というファクターが大きく絡むのだろう。なぜそんなにも故郷、故郷と言うのかしらん(「覚えておけ。俺たちの故郷はオリーヴの国だ」)と思っていたが、南から北へ移動して、心身ともに寒さが極まっているのである。それゆえ、画面には冬のミラノのしんしんと寒そうな様子が印象的に描かれている。


物凄く寒そうな冬のミラノが印象的

上の兄弟だけ都会に出て、幼い末弟と母は故郷に残って仕送りを受ければ良かったのではないかと思うのだが、常にみんな一緒でなければならない大家族主義のイタリアにあっては、そんな家族の分散は許されないのかもしれない。母が息子たちを盲愛する様子からも、分散は不可!という感じが強く漂ってくる。この暑苦しい家族愛。狭いアパートに一挙に家族全員に押しかけられる長男もたまったもんじゃないだろう。


母はいかにもなイタリアのおっかさんだ

長男ヴィンチェは、ただひたすらに惚れた女と一緒になる事しか頭になく、一緒になったあとは自分の生活を営んで行く事だけにかまけて、その他の事はどうでもいい。長男とも言えない昼行灯である。次男シモーネは腕っぷしだけのロクデナシで、少しはあったボクサーとしての素質も活かしきる事はできず、どんどんダメな方に流れて行く家族の中の黒羊である。兄の付き添いでジムに通い始めて、中途で挫折した兄の代わりにプロのリングに立つ事になる三男のロッコ。実は兄を凌ぐ素質がありながらプロになる気などさらさら無かったロッコだのに、ダメ兄の身代わりに殴り合いを商売にせざるを得なくなる。付き合いでジムに通い始めた方が、ボクサー志向だった方よりも頭角を現すというのは「Kids Return」を思い出すが、あれは北野武の「若者のすべて」だったのかもしれない。実質以上に過大評価されすぎな観のある北野映画の中で、ワタシが唯一好ましいと思う作品だ。


体がいいのでボクサーの動きもサマになっていたドロン

ともあれ、長男が自分の個人生活だけに埋没している大家族にあっては、誰かが代わりをしなくてはならない。そこで犠牲的精神の権化、無限に家族を受容し、苦難を受容する「聖人」ロッコが、リングに上がって金を稼ぎ、一家の生活を支えるのだ。

ボヤっとした長男は平凡などこにでもいるタイプの男であるが、どんどん堕落していくダメダメ野郎の次男の最低加減と、そのダメ兄貴を「元は善人なんだ」とか言って、自分の方がひどい目に遭っていながらとことん庇い続けるロッコについては、「あまりにも有り得ない」と正直思ってしまう。次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)について、どこが善人なのか見ていてさっぱり分からないし、荒む前は些か愛嬌があったとはいえ、最初から怠け者で弟にたかる事ばかり考えているしょうもないチンピラでしかない。今はどうでもかつてちょっとは良いところがあったという事が描かれていればまだしも、さっぱり描かれていないので、どんどん酷くなっていくにつれ、何故こんな奴を見離さずに庇わなくてはならぬのかさっぱり理解できない。(ロッコってマゾじゃないの~とかね)シモーネは庇えば庇うほど余計ダメになっていく人間であり、ロッコの無限の受容と寛容はひたすらにシモーネを堕落させ、悪循環を生むだけなのだ。


徹底的にダメな次男・シモーネ …ダメというより弱すぎるのだ

そこに苛立ちを覚えるのが四男のチーロである。チーロは機械工としてシトロエンの工場に勤めている。貧窮の中で努力して身を起こそうとするまっとうな息子だ。このチーロは、ロッコが異常なまでにシモーネを庇う事に異を唱え、あきれ果てて家を出る。彼だって兄弟を愛してはいるが、そのご意見は非常にまっとうで観客の心情を代弁している。そう、世の中には、どんな理由があろうとも許しちゃならない事があるのだ。


四男チーロ ご発言ごもっとも

次男は内面が弱過ぎて転落していき、三男は度外れた聖人で浮世離れしすぎている。兵役についたロッコが偶然ナディアと会って愛し合うようになり、シモーネはボクシングはおろか恋愛でも弟に負けてヤケクソになったと言えば言えるが、いかにヤケクソになったからといっても、あんな事をしでかすのは性根がとことんチンピラだからである。そこで散々兄弟で殴り合い、汚い路傍に倒れたまま苦悩にまみれて置き去りにされるのはロッコの方なのだが、どうにも不可解な事に彼は兄を許し、兄のためにナディアとの関係を犠牲にする。ダメ兄の事ばかり考えている。彼女の立場はどうなるのか。本気でロッコを愛していたナディアは、そりゃどうとでもなれと自暴自棄になっちゃうわね。何もかもどうでもよくなっちゃうわよ。無理もないわ、と最も救われないキャラであるナディアにため息が出た。


市電デートを楽しむロッコとナディアだったが…


ロッコがナディアを犠牲にして兄を取るシーンは聖堂の屋上 屋根の上に出られるのね

ロッコの度外れた兄弟愛は誰も救わない。さらなる不幸をしか生み出さないのである。なんという有り得ないキャラ設定か、とゲンナリしたが、リアリズモというわりには、あまりに現実離れしたロッコのキャラと、ロクデナシといってもあまり度外れたダメっぷりで堕ちるところまで堕ちるシモーネという二人の兄弟像を通してヴィスコンティが描きたかったのは「家族愛という不条理」だったのかもしれない。望まない道で大成し、今後も暫くはダメ兄の借金を背負ったために殴り合いを続けて金を稼いでいかざるをえないチャンピオン・ロッコの顔が一面を飾ったその勝利を報じる新聞(いやおうなしに宿命を受け入れたその表情)が壁に横一列にずっと貼られてピラピラと風にはためくラストは何とも言いようがない。



ネオ・リアリズモ時代のヴィスコンティの最後の作品である本作。ヴィスコンティはミラノの名門伯爵家に生まれながら、その反動ゆえにか共産党に入党し、50年代はネオ・リアリズモで映画を撮っていた。「若者のすべて」でその時期に終止符を打ち、以降は自分が生まれた世界に戻って行く。貴族社会の憂愁と倦怠、頽廃と滅びのロマネスクへ。そして、ヴィスコンティといえば即座にタイトルの出てくる作品群を生み出して行く。ワタシは個人的な好みとしてヴィスコンティ作品では「家族の肖像」が一番好きだ。次に「ベニスに死す」、その次が「ルードヴィヒ」あたりだろうか。そのへんばかりを見ていると「若者のすべて」はヴィットリオ・デ・シーカの映画だよ、と言われたら、そうかもと思ってしまうぐらいに雰囲気が違うが、それはそれで面白い。でも、若きドロンが出ていなければ観る事はなかったかもしれない作品ではある。


いやもう、どのシーンでも本当にキレイだし、若いので清々しくさえある

すがしく、あまやかな若き日のドロン やっぱり、そうそうこんな人は出て来ない


ヴィスコンティは自分がその時に愛していた美青年を殊更にきらきらしくフィルムに焼きつけるのだが、後期作品のヘルムート・バーガーに負けず劣らず、この作品のドロンもまた、永劫消えない魅力を放っている。アラン・ドロンはやっぱり綺麗だ。あの顔の上に、体もほどよい筋肉質でバランスがいい。ただハンサムなだけではなく骨格がしっかりしてプロポーションが良いのだ。肩幅が広く、腰の位置が高く、ややO脚なのが残念だが脚も長い。そして青い瞳の目元に漂う憂いの翳。若い頃はその翳が甘く切ない。
ワタシはドロンの大胸筋の形がきれいだな、といつも思う。なかんずく、やはりあの肩幅で着こなすスーツや軍服やセーターは理想的なシルエットを生み出していると思う。本作でも徴兵されたロッコが軍服を着て家に戻るシーンがあるのだが、ベレー帽といい、短めの上着で強調されたぴっと上がったヒップラインや長い脚は、ドロンの魅力を引き立てており、ニットのセーターや、ボクサー姿ともども、ヴィスコンティの愛情深い視線を感じる。ワタシが個人的に若い頃のドロンに一番似合うと思うのはセーター+ジーンズ姿で、この作品でもセーター姿がひときわ輝いて見える。何を隠そう、ワタシはセーターの似合う男にヨワいのだ。


あぁ、セーター・ボーイ 顔ばかりでなく、筋肉質で体のバランスもいい

20代のドロンを実際に目の当たりにしたら、ずっと目を離す事ができなくなるような磁力を放っていた事だろうと思う。ガルボ様とドロンは、その最盛期の姿を一目じかに見てみたかったなぁという叶わぬ欲求を、出演作品を観るたびにワタシに起こさせる罪な存在である。

コメント

  • 2011/01/17 (Mon) 01:33

    好きなんですよ~、この作品。
    というか、この作品のアラン・ドロンが。
    美しすぎますよ。さすがヴィスコンティ、男を美しく撮るのがうまい!
    しかもこのロッコって、性格がメチャクチャ良いでしょう?多分、ドロンが演じた役の中で一番性格がいいんじゃないかと思うんですよ。(ドロン本来の性格とはかけ離れてるとは思いますが・・・)

    この作品を観た時は、ヴィスコンティでもこんな作品を撮るんだーと驚きでしたが(豪華絢爛なイメージが・・・)、ネオ・リアリズモですか。なるほど。確かにヴィットリオ・デ・シーカやピエトロ・ジェルミの作品と言われても違和感ないですね。

    それにしても、この作品の一番の不孝者はナディアですね。ホント、気の毒。ロッコ、酷すぎ・・・。

  • 2011/01/17 (Mon) 07:41

    mayumiさん。作品として好きというよりもこの作品のドロンが好き、というのはご同様です。
    ドロンは良いですねぇ。彼は野望に満ちたギラギラした青年の方が似合うけれども、こういう無垢で健気な青年役は、本当に若いうちでないと出来ないだろうので、いい時に巨匠に見込まれて出演しましたね。
    ロッコがああいう性格じゃなくて、ことごとにシモーネといがみ合ったりすると、ピエトロ・ジェルミ的世界かな。(笑)
    ナディアは気の毒の極みですね。そもそも街の女だから幸せだったわけじゃないけど、バロンディ兄弟と関りあったばかりに辛酸を舐めることになっちゃって。ロッコは聖人のようだけど酷い奴ですわ。
    ドロンの美しさ以外ではミラノの風景が印象に残りました。殊にその冬の凄く寒そうな感じがね。

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