「浮雲」

~追悼 高峰秀子
1955年 東宝 成瀬巳喜男監督



2010年の暮れに、突如、高峰秀子の訃報に接して以来、何か彼女の出演作のレビューをUPしたいなと思っていたが、この人の代表作はやはり「浮雲」ではなかろうかと思われるので、旧ブログに一度UPした「浮雲」を再度UPする事にした。
高峰秀子といえば、木下恵介と成瀬巳喜男という2大巨匠と組んだ作品で殊に有名だが、ワタシは二人の監督作品のうちどちらが好きかといえば、それはもう断然、成瀬作品である。木下恵介ってどうも感覚が合わない。従って高峰秀子も、成瀬作品でのほうがずっと光って見える。
「とにかくもう、恋愛、恋愛、恋愛のほかには何もない映画でしょう?」と高峰秀子が言ったというこの作品。腐れ縁とはいかなるものかを知りたければこれを観よ、という感じの映画だ。
これを最初に見たのは20代の始め頃。多分NHKで放映された時だったと思う。母が林芙美子の小説を好きで家に全集があり、「放浪記」だの「稲妻」だのを少女の頃にぱらぱらと読んだ記憶がある。「「浮雲」は映画もいいのよ。もう、どうしても離れられずにどんどん、どんどん堕ちていくのよね」と母が言うので、実際に観る前から「浮雲」はスゴイらしい、という先入観が植え付けられた。

余談だが、ワタシが読んだ林芙美子の小説の中で一番好きだったのは高校生の時に読んだ「晩菊」という短編だった。今は少し小金持ちになり、金貸しをしているおきんという女が、うっすらと忘れがたく思っている昔の男が久しぶりに訪ねてくるというので、艶めいた予感に浮き立ちながら風呂に入り、過去を回想する。この風呂で、50がらみとおぼしいきんが、両腿を合わせてその上に湯を注ぎ、湯が暫く腿の間にたまっているのを確認して、まだ男はできる、と思い、それだけが人生の力頼みのような気がする、という描写にいかにも林芙美子らしいものを感じた。
結局、今は落ちぶれた男が昔のよしみを頼りに自分に金を借りに来ただけだという事を知り、きんの幻想は敗れる。明日は男を追い返してしまおう、と思いつつ、大事に持っていた男の昔の写真を火鉢にくべて燃やし、きんは自分の過去を葬る。昔、美しかった女が自分が老境に入った事をいやおうなく認識させられる、このほろにが感はスゴイな、と感心し、映画にもなっているというので後年、楽しみに見てみたら、主演が杉村春子。う?む。いかに演技派でもイメージが違う。この役はやはりベルさん(山田五十鈴)あたりにやってもらいたかった。無力な男は上原 謙でバッチリなのだけど。きんは「うば桜」でなくてはならないのだ。杉村春子じゃどうにも艶と水分が無さ過ぎる。

「浮雲」以外のところで余計な事を書いてしまったが、林芙美子はやっぱり端倪すべからざるものを持っているなぁと短編の「晩菊」を読んでさえ思うわけなので、「浮雲」となるともう、パワー全開というところだろうか。


敗戦後、焼け跡の東京で再会する二人

幸田ゆき子(高峰秀子)と富岡(森雅之)が出会ったのは、戦時下の仏印。
この戦時下というのが大きな要素だ。
戦時下ということは、明日をも知れない、という事である。しかも、外地である。内地ではもうあれこれと物資が乏しくなり、「欲しがりません、勝つまでは」なんて貧乏くさいスローガンが世相を覆っていたとき、義兄に肉体関係を迫られるのに辟易したゆき子は、窮屈になった日本を出ようと農林省の嘱託として仏印へ渡り、そこで出会った傲慢な技師・富岡に心惹かれる。この仏印ダラットのシーンはカメラに紗がかかり、いやが上にも艶やかに輝かしく撮られている。この時期を頂点として堕ちるばかりの二人にとって、この仏印の日々は生涯の輝ける日々である。常に振り返り、心の中から取り出して懐かしむ、二度と戻れない過去なのだ。
また、このシーンでは高峰秀子がかつてない程に美しく撮られている事でも印象に残る。顔は丸いのだがけっこう脚がきれいで小柄だが均整がとれている。
それに何と言っても上手い。理屈ぬきに上手い。


仏印の二人

戦後、焼け跡の東京に引き揚げてきたゆき子が、瓦礫の中を富岡に会いに行くシーンからスタートするため、その戦後の荒廃した日本と、びしょったれた富岡とゆき子が寂しく並んで歩くその様子が侘しければ侘しいほど、ゆき子の回想に蘇る仏印での出会いの頃がいやが上にも眩く見えるのだ。無愛想で傲慢だがムッツリしているクセに女には手の早い富岡。パラリの前髪の森雅之。まさにはまり役だが、この人の真骨頂は戦後引き揚げてきて官吏を辞め、燻って敗残者的な翳りをたたえてからである。ずるずると女の情念に押し流され、淋しくもシニカルな笑いを浮かべてタバコをふかす。富岡は敗戦後の価値観の転換や時代の趨勢に乗れない男だ。彼のプライムは明らかに戦前にあり、戦後はもう余生になってしまったかのようである。いわゆる戦争ボケの虚脱状態に陥っている。だが時計を売りに行った質屋の後妻(岡田茉莉子)に惚れられたりして、どんなに無気力でも相変わらず女にはモテるのだ。困ったことに。このモテモテの富岡の地味な妻に中北千枝子。この人も成瀬組の常連。今回は地味?な病気がちの奥さん役でちょこっと出演。



官吏を辞め、材木の商売を始めようとあがく富岡だがなかなか思うに任せないのに引き換え、富岡を頼れない上にロクな勤め口もないと分かるとゆき子は米兵相手のオンリーさんになる。この米兵役で若かりし頃のロイ・ジェームスが登場。この人はトルコ人らしいのだが、もちろん米兵で見た目の違和感はない。気のいい若いGIという雰囲気が出ていた。

女には最終的に売るものがある。(それにも期限があるけれど)生活力のない男などおよびもつかない逞しさでサバイバルする。かつて頭から見下したような口をきいていた傲慢な男が、背中を丸めて「君は幸福そうだね、羨ましいなぁ」となどとさもしい事を言う。この情けなさが腐臭を放つ感じはどうだ。情けなく、ムシのいい富岡を罵倒するゆき子に「営業妨害はしないさ、ただ、たまに遊びに来てもいいだろう?」と情けない嫌味を言う。互いに傷つけあいながらも別れられない二人。さんざん辛酸をなめて(元祖・辛酸なめ子?)修羅場をくぐってきた林芙美子の真骨頂である。それを映画として如実に再現できる水木洋子の脚本もさすがの仕事ぶり。

ゆき子は姉の夫に処女を奪われ、その男から逃れたい一心で仏印に渡った。この曲者の義兄を演じるのは山形勲。時代劇の悪役だけではない。現代劇でも冴えた悪党ぶりが小気味いい。富岡と違って生活力旺盛な義兄はいつしか新興宗教の教祖になり、ぼろ儲けを始める。山形勲、臭み全開。富岡との腐れ縁のいっぽうで、ゆき子はこの義兄ともなかなか縁が切れない。つくづくと腐れ縁をひきずる女である。だが生活もおぼつかないくせに、押せばどうにかなりそうな女に対する嗅覚は一向に衰えない富岡はゆき子と伊香保温泉に来て、そこで時計を曲げた質屋の女房(岡田茉莉子)と出来てしまう。「あなたはいつだって女にはヨソヨソしくしてて、ちゃ?んと女を掴んでしまうんだから」とゆき子は嘆息する。富岡の女遊びには現実逃避のホロニガさが滲んでいる。岡田茉莉子の夫の質屋役で加東大介が顔を見せる。


浮気相手を演じる岡田茉莉子の吊りあがった眉にご注目。

富岡の浮気のムシを察知したゆき子は泣き、そして投げやりに嘯く。「あなたは見栄坊で移り気で、そのくせ気が小さくて、酒の力で大胆になって、気取り屋で、人間のズルさを一杯持って隠してる人なのよ。そのクセ事業の方にはてんで頭の働かないところはお役人的なんでしょ」
ここまで言われても怒らないでふふんと聞いている富岡。そこまで分かっていながらそんなダメな男からどうしても離れ切れないゆき子。彼女が捨てられないのは今の富岡ではなく、かつての仏印での二人の日々、その輝きの幻影なのだろう。現実がどうにもならず惨めなら惨めなほど、かつての夢のような日々はいっそう抜き難く心を捉えるのだ。

富岡がそのまま他の女に手をださずにくすぶっていたら、いつしか愛想を尽かしたかもしれないが、ずるずる他の女と同棲なぞする富岡に嫉妬するうちに、またまたゆき子の富岡への気持ちは再燃してしまうのである。腐れ縁の循環作用はおそろしい。
また、富岡はどんなにゆき子に罵倒されてもけして言い返さない。
「そうかもしれないな。みんな僕だけが悪いんだよ」なんて投げやりに同意する。
この自嘲的なグダグダ感が喧嘩も発生させないわけである。また森雅之が上手いです。津川雅彦が一時期、森雅之の衣鉢を継ぐ俳優だなどと言われていたが、チッチッチ!冗談は顔だけになさってよ。この味は森雅之だけのもの。ワンアンドオンリーの至芸である。この役は森雅之あってこそ。いかにモテモテでも池部良ではちと頽廃感とほろにが度が足りないだろう。


のらりくらりとした富岡 絶品の森雅之

ゆき子は富岡を離れた方がよほど身が立つのだが、どうしても思い切る事ができずに義兄の教団の金を持ち逃げして富岡を誘い出す。勤め人に戻り、屋久島の営林所へ赴任するという富岡はゆき子との腐れ縁を清算するつもりなのだが、ゆき子はコケの一念で付いて行く。その前に富岡の妻は病で亡くなっているのだが、富岡はゆき子と結婚しようなどという気は全くない。むしろゆき子を含む過去を全て清算して綺麗さっぱりとしたサラの状態に戻りたいのが本音だが、ゆき子は牡蠣がらのように富岡にすがりついて離れない。いまだに、どうしても富岡と結婚したいのである。
四国あたりまで行って、屋久島に渡る連絡船を待つ宿で、「随分遠くまで来たわね。ここからまた船に乗って一晩もかかるなんて島流しみたい」とゆき子が言う。そう、屋久島は二人の「愛の流刑地」である。そして屋久島は日本の南方。二人にとっては仏印の再現になるかとも思われたのだが…。旅館で「奥さん」と呼びかけられて喜んだのもつかの間、ゆき子は高熱を出して寝込んでしまう。

とにもかくにも、ドロドロの恋愛境である。ゆき子はいわゆるダメンズ。どこに本心があるのか分からない、どこかが醒めた優柔不断な男と知りつつ未練が絶てない。富岡がそういう男だからこそ未練がたてないのかもしれない。これはもう、そういう三昧境に入った人間でないと分からない心理かもしれない。何もかも捨てても!なんて身を焼く大恋愛は一生に一度はしてみたいと誰もが思うわけだが、ここまで来ると愛だの恋だのというよりも女の意地と執念だなという気がする。
ゆき子は過去の輝ける一点へ回帰しよう回帰しようとして、結局は命の瀬戸際の奈落に落ち込む。どこまでも果てしなく男の背中を追いながら堕ちるのだ。




こぼれ話として、主演の二人とも撮影に入る前は少し肉付きのいい状態だったのだが、終戦後すぐの焼け跡に始まるこの物語で、「見るからに栄養の行き届いたデブの富岡とゆき子では、もうそれだけでこの映画はオジャンである」から「徹底的に痩せる事、隠れてビフテキなど食べない事、昼食は一緒に(牽制しあいながら)食べること」を誓い合ったという。(高峰秀子著「私の渡世日記」下巻より)お陰で二人はみるみる痩せたらしい。実際、きっちりと痩せて二人ともいい仕事をしている。個人的に、成瀬作品としては「乱れる」の方が好きだが、「浮雲」もやはりスゴい映画と言うしかないだろう。いやぁ、ゆき子もここまでとことん進めば(堕ちれば?)本望でしょう。そういう相手に出遭ってしまったら、もう、ともに地獄にまっしぐらに進む以外に道などありますまい。

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