「ウォール・ストリート」 (WALL STREET: MONEY NEVER SLEEPS)

~かくて歳月は流れた~
2010年 米 オリヴァー・ストーン監督



87年の「ウォール街」の23年ぶりの続編。なんで今ごろそんなものを引っ張り出してきたのかといえば、ご存知、リーマン・ショックがその思いつきに火をつけたのでしょうね。リーマン・ショックとゲッコー・リターンズを絡ませよう!なんてね。続編とあらば、やはりG.Gことゴードン・ゲッコー役でマイケル・ダグラスが出なければ話にならないので当然、出演。マイケル・ダグラスの他にも若手と中堅とベテランの俳優のアンサンブルも面白そうだったので、とりあえず観てみることに。
映画はインサイダー取引で8年の実刑を喰らったゲッコーが出所するところからテンポよく始まる。娑婆に出る時に返却される逮捕時の所持品。時計やマネークリップなどに混ざって現れる骨董的なごつい携帯電話に思わず笑った。トランシーバーみたい。
同じ日に出所した連中が迎えの車でそれぞれに帰って行く中、ゲッコーの迎えは誰もいない。白髪を吹きすさぶ風に吹かせて佇むゲッコー。この出だしから中盤までは割に面白く観た。風評を流して株価を下げ、ライバルを陥れ、空売りをしまくって巨利をむさぼる現在のウォール街の主を演じるジョシュ・ブローリンも、序盤は憎まれ役の厭な感じが出ていてよかったのだが、映画そのものが何を軸に描きたいのかはっきりせず、あちこちに色目を使った結果、焦点がぼやけてユルユルな作品になっているので、ジョシュ・ブローリンも巨悪というノリではなく、なんだか小悪党の躓き、という感じで、観終えてみると竜頭蛇尾な印象だった。イーライ・ウォラックはゴッド・ファーザーPart3以降、クセモノの黒幕爺さん専門職になっているようだ。


ジョシュ・ブローリン(左)とイーライ・ウォラック(右)

散漫な印象の1つにはゲッコーのキャラ設定がある。ムショに8年もいた間に色々学んだ、と言い、インサイダー取引で臭い飯を食ってきた事を武器に、講演を行い、本を書き、しぶとく復活のチャンスを窺うゲッコーだが、金だけに狂奔してきた過去を悔いているというのも一面の真実であるように描きつつ、娘を騙しても元手を手にして、再びマネー・ゲームの世界に戻りたいというやみ難い欲求こそがゲッコーであるともいえ、だったら、何がどうだろうと金儲け第一に、使えるものはなんでも使って這い上がり、巨万の富を手にしてなおメラメラと野心を燃やす「ゲッコー・リターンズ」の部分をもっとガツンと強調すればまだしも芯ができたものの、「金という悪女」に魅入られた男でいながら、娘の胎の実という血の絆には結局のところほだされて、妙なところできわどく人間性を取り戻し、しまいには取り戻し過ぎて孫に目を細める好々爺になってしまう始末。なんだ、このグダグダ感は。多面体で、一口で語れないのが人間とはいえ、なんだかもう、あまりに軸がなさすぎる。


年を取ってアクがやや抜けたかマイケル・ダグラス

もう1つは、庶民の血の出るような金を吸い上げて肥え太るファンドを考え出して自分たちだけしこたま儲けた金融界TOPの連中を糾弾するというには、あまりに糾弾部分が弱いし、非営利企業のサイトがちょろっと事実を暴いた記事を載せただけであんなに簡単に世論を左右できるのかぁ~と唖然としてしまったり、何があろうと小揺るぎもしないような顔をしていたジョシュ・ブローリンが急激に転換した情勢にあっさりと転落したり、何かとご都合主義な展開が目について、リーマン・ショック+ゲッコー・リターンズという思いつきは良かったとは思うが、人間ドラマとの絡め方が決定的に失敗しているという印象だった。なにがどうでもマネーゲームから離れられない人間を描きたいのか、金が全てじゃないんだ、人間にはもっと大切なものがあるだろう~という手垢のついた事を結局は言いたいのか、どちらも中途半端に放った挙句に虻蜂取らずになっているという感じの映画だった。

ゲッコーの娘であるウィニー(キャリー・マリガン)の感情の動きも、絶対にこうと言ったら梃子でも動かないという様相を呈していながら、ある時点で急にナニ!~というほどの急転直下で真逆に感情が一瞬にして動くような場面が2、3回あって、ちょっと前まであんなにダメだししてたじゃない~どこで転向したの~一体どこ~というぽかんとしてしまうような真逆への感情の飛躍が目についた。キャリー・マリガンは顔を歪めながら熱演している場面もあったが、残念ながらそんなに熱演する甲斐もないような役であり、映画だった。(余談ながら、キャリー・マリガンは可愛く見える時もあるが、かなりのファニーフェイスであると実感。最近、ジェイキーとデートをしているという噂だが、確かにファニーフェイス愛好家のジェイキーの好みのタイプではあろうと思う。少なくともカントリー・シンガーよりは合うような気がする)



金儲けもしたいがそれだけじゃなく、世のため人のためになるような企業に投資して軌道に乗せ、クリーン・エネルギーを実現し、ついでに自分も儲けたい、という主人公ジェイク(シャイア・ラブーフ)は、この手のドラマに出てくる若手にありがちな雰囲気で無難に演じてはいたし、キャラ設定も他のキャラに較べると一応一貫性はあったようにも思うが、シャイア・ラブーフ自体は特に際立つ個性もなく、格別二枚目というわけでもないし、そのうち消えるだろうねぇ、と見ながら思った。

シャイア演じるジェイクに目をかけていた投資銀行の経営者ルー(フランク・ランジェラ)の登場シーンは全て良かった。時代が急速に変転していく中で疲れ果てている経営者の雰囲気がよく出ていた。取引相手がムンバイだのドンバイだの…というシーンに遣り切れなさが滲んでいた。地下鉄に身を投げるシーンも、電車がホームに入り、目の前に来た時にふっと何でもなさそうに線路に前のめりに身を乗り出して行く様子が妙にリアルで、こういうシーンをこういうアングルで撮った映画は今までに無かったかもしれないな、と思った。

映画そのものに中盤から興味がなくなったので、前作が作られた時代との対比という目線で見ていると、1987年~2008年というのは、まさにアメリカだけではなく、日本のライズ&フォールの時代でもあったのだなぁ、と思う。前作の作られた87年ごろというのはまさに日本経済はバブル前期で右肩上がりの絶好調。いろんなものをジャパン・マネーで買い占めて世界の顰蹙を買っていた。殊に映画会社だの自動車会社だのを買われたアメリカのヒステリーとフラストレーションは猛烈で、80年代末から90年代初頭は、アメリカの日本叩きが暫くの間、必ずニュースに出てきたものだった。日本車が叩き壊されて火をつけられたりして。ソニーもコロンビアを買収して「アメリカを買(いやが)った」なんてスゴイ勢いで叩かれたものだった。まるで人非人みたいに言われたものである。その頃のハリウッド映画には、日本企業と日本人がよく登場した。「ダイ・ハード」(1988)で狙われたナカトミ・ビルはロスの日本企業の自社ビルだった。その頃から随分たったけれど、ハリウッド映画における「日本人の変な描き方」はあまり進歩していない気がする。寿司だけが世界中に浸透した。

そんな事をふと思い出して遠い目になったのは、ジョシュ・ブローリンが総帥を務める投資銀行が、莫大なチャイナ・マネーを引き出そうと、したたかな中国人相手に躍起になるシーンを見ていたとき。あぁ、もう投資のために巨額の金を動かすパワーは円には無くなったのだねぇ…日本経済はアメリカ金融界のハイエナどもにとって、まったく対象外になったんだねぇとしみじみ実感した。いつの間に日本経済はそんなにも弱体化してしまったのか…。映画を見ながら「日本世にふる眺めせしまに」という気分になったりした。ゲッコーの復活よりも日本の復活。世界中から憎まれるほど、また日本が世界経済の台風の目になる日が来てほしいような、そうでもないような…。どうせ中国も一過性でしょ、と思いつつ、些かため息まじりにガンバレ、ニッポン!な気分にもなったkikiでございました。

なお、前作の絡みでパーティのシーンにチャーリー・シーンがちょろっと出てくる。両脇にコンパニオンを侍らせ、一杯機嫌でおけらのゲッコーにかまう様子が、今現在のチャーリー・シーンのご乱行生活を想起させる。一応、今は小金持ちになって、あちこちに投資したり寄付したりして面白おかしく日を送っているという設定ながら、どこか腐臭を放つその存在感がチャーリー・シーン本人とオーバーラップする。観客に皮肉な笑いを提供するシーンだと思うし、前作を見ている人には、お、こんなところに出てきたか、という妙な感慨を呼ぶシーンでもあると思うのだが、ワタシの周辺ではチャーリー・シーンの登場に全くシーンとして、くすりとも笑う人はいなかった。チャーリー・シーンなどとっくの昔に過去の遺物になった俳優だし、大した映画でもなかったから誰も前作を見ていないのかもしれない。 歳月は流れる。

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