「雪夫人絵図」

~私の中には魔物が棲んでいるのです~
1950年 新東宝 溝口健二監督



悪天候で何かと予定の狂ったこの連休、雪かと思えば雨になり、時折の小雨でさしたることもないので、ふと思いついて神保町シアターで特集中の「文豪と女優とエロスの風景」より「雪夫人絵図」を観に行く事にした。言わずと知れた舟橋聖一原作の映画化作品。原作は大昔に読んで忘れてしまったものの、映画化作品の方は一度観てみたいものだと漠然と思っていたのだった。ミゾケン作品中ではあまり評価は高くないらしいけれど、女盛りの木暮実千代だけでも一見の価値はあろうと思われたので、ちょっと寒いけど駿河台散歩も兼ねて出かけてみた。
久々の神保町シアター。でも、ここは100席ほどしかないし、毎度かなり入りがいいので30分前ぐらいではソールドアウトのオソレがある。早めに行ってチケットをゲットし、上映時間までは駿河台界隈を散歩することにした。1時間ちょっと前に着いてチケットを買ったが、ワタシは99分の43。みんな出足が早いわね…。何時に来たの~
本題前にプチ東京散歩~神田神保町~駿河台編~を少し。

神保町といえば、地下鉄をすずらん通りに近いところで上がると、すぐに有名な老舗の喫茶店「さぼうる」がある。映画のチケットは買ったので、ひとまず「さぼうる」で珈琲でもつかまつろうと、古びたドアを押した。店内は昼なお暗い。半地下と中二階に客席があり、窓辺は常連さんが占めている気配。





昼ごろだったので、フリの客よりは常連比率が高いように感じた。年配者の中にちらほらと若者が混ざっている。ここに来て紅茶もナンだから珈琲を頼んだ。一杯400円なり。店内もそうだが味も値段もメニューも昔のまま据え置きでやっている、という雰囲気。400円の珈琲はちと酸味が強いかな。おつまみにピーナツが出てくるのがここの定番。珈琲にピーナツ。面白い取りあわせだ。いまどき珍しく煙草もOKで、まるきり分煙はしていない為、煙草が嫌いな人は要注意。昭和レトロの味わいが外装にも店内にも満ち溢れているのが人気の理由でしょうね。


なぜかピーナツが付いてくるのが「さぼうる」流

「さぼうる」だけでノンビリしているわけにもいかぬので、珈琲を飲み終えたらサクっと店を出て靖国通りを小川町の交差点まで歩き、信号を渡って御茶ノ水駅方面に向かって行くと、そろそろ駅が近いかなというあたりに紅梅坂という坂があり、坂の左手にニコライ堂が建っている。正式名称は「東京復活大聖堂教会」で、日本ハリストス正教会の大聖堂。まぁ、ややこしい事はどうでもいいが、ビザンチン様式で、青銅色のドーム屋根がトレードマーク。駿河台のランドマークである。






ろうそく料の受付所かな~ 屋根に例のたまねぎがついていた


こんなビル街のただ中にある

昔、時折散歩に来たものだけど、随分久々の再訪。殆ど人がいなくて雰囲気を楽しめた。ワタシ、御茶ノ水界隈っていうのも昔から好きでしてね。画材屋さんの「レモン画翠」にもよく行ったもんです。
ニコライ堂を出たら駅前の湯島聖堂まで足を伸ばしましょ。


聖橋から見た湯島聖堂

聖堂はこの千代田区神田のビル街のど真ん中に江戸の空気を漂わせているスポット。昌平坂に沿った塀と門などを眺めていると、昔からこの佇まいなんだろうねぇ、と江戸の空気を嗅いだような気分になるのだが、すぐ脇にJRの線路があり、外堀通りを車が行きかっていて、お堂の前から背後を振り返ると、ビル、ビル、ビルの山である。


昌平坂に面した塀と門

孔子廟である「大成殿」の鴟尾

でも塀に囲まれた聖堂の中はしんと静かな江戸の空気が漂っているという不思議空間。ここも何となく好きですね。でも、ここに来たのも随分久々。ふ~。いつ来ても不思議な風情のあるところですが、あ、そろそろシアターに戻らなくちゃだわ。

と、つい「東京散歩」の前置きが長くなったけれども、ここから「雪夫人絵図」。



何といっても木暮実千代ありきの作品だけれども、木暮演じる雪夫人の養子婿を演じる柳永二郎がナカナカですね。この人は色んな役のできる貴重なバイプレイヤーだったのだけど、ここでも事業のセンスはまるきり無いが、女好きという事では人後に落ちない、旧華族に婿入りした下司でサディスティックな男を演じてハマっていた。雪夫人の父親の書生で、彼女とは幼馴染の遊び友達であり、彼女を恋慕っている琴の師匠、菊中方哉(きくなかまさや)に上原謙。イヨ!つっころばしの二枚目!とにかく二枚目なだけで誠実ではあるが弱々しい琴の師匠ということで、もう上原謙以外の一体誰に~というハマリ役だった。でも、ほんとにつっころばしの二枚目で、上原謙にとってはなんだか気の毒な役でもある。馬鹿みたいだものねぇ…。

これは、信濃家という旧華族の家のおひいさまとして生まれた雪という女が、ろくでもない養子婿とめあわされ、戦後という時代を生き抜く事ができずに滅びていく物語でもあるが、実質的には、生活力のない意志薄弱のM女が、色事だけは旺盛だが、世渡りの才覚のないS男の夫とどうしても別れる事ができずに自滅する、という話である。口と腹は別、とよく言うが、雪夫人においては口と体は常に別になってしまうのであり、昼は夫と別れたいの大キライだのと言っていても、夜になると、自分から夫の寝室へにょろにょろとしのんでいってしまうわけである。琴の師匠・菊中(上原謙)がいくら、「そんなに厭ならきっぱりしなさい!」と言っても、なにかと助言をして出来る限りの手助けをしても、結局のところ、雪夫人は夫と体で結びついてしまっていて、理性でそれを断ち切る事ができない、という愛怨峡に堕ちている為、誰にも彼女を救う事などはできない。彼女本人が心の奥底で救われたがっていないからである。下司でサディスティックな養子婿は、雪のマゾ性をとことん見抜いている。そして自分がSだから雪が離れないのだと知っているので、熱海の別荘に妾を連れてきたり、女中の前で辱めたりとやりたい放題なゴムタイを働くのだが、そんなゴムタイをされればされるほど、結局のところ「別れるのは厭でございます」と雪夫人が泣いてすがりついてくると百も承知しているので、面白がって余計にいい気になって妻をいびるという悪循環は続くのである。


なんのかのと言いながら夫(柳永二郎)との縁を断てない雪夫人

妻の方でも口先ではいやだいやだと言いながらも、いびられる喜びを知ってしまったので夫とは別れられないのである。ただ二枚目なだけでなんら強力な行動に出ない琴の師匠・菊中など、夫婦の日常的なSM生活の中に、味付けのために放り込まれた形ばかりの恋敵役であって、二枚目なだけで面白くもなんともない幼馴染など、手練手管に長けた遊び人の夫に鍛えられてしまった雪夫人にとってはまるで物足りないのである。
「誰か、強引に直之(夫)からわたくしを浚ってくれれば…」と彼女が菊中に言うのは、つまりは「あなたじゃ到底物足りなくってよ。夫よりも、もっと強引じゃなくっちゃ…」という事なのである。  上原謙、気の毒な役回りである。

また、雪夫人の里・信州から来た女中の浜子を演じるのは久我美子。熱海の別荘に来て、すぐに入浴シーンがある。これがまるで濁らせてないお湯で、久我美子の足などが湯の中にくっきりと映っている。久我美子もかなりこわばりつつ湯の中に座っている雰囲気が伝わってくるが、この無意味な入浴シーンは観客サービスなのか、溝口の趣味なのか、原作者へのサービスなのか、そのいずれでもあるのか分からないが、久我美子が人身御供の娘のように見えて、何か気の毒な気持ちになった。


信州から来た女中を演じる久我美子(右)

溝口は水商売の女、底辺の女を描かせると光る監督で、上流夫人ものを撮ると失敗する、といわれており、田中絹代主演の「お遊さま」や「武蔵野夫人」なども失敗作のうちに数えられていると思うが、ワタシは「雪夫人絵図」はそんなに悪い出来ではないと思う。何かで、「小原譲治のカメラが木暮実千代の熟れた肉体を匂わせるだけに終わった」などと書かれていたのを読んだ事があるが、それだけのものではないと思う。封切り当時と違って、2011年の目で遡ってみると、1950年の熱海や箱根の風景はそれだけでも価値があるし、1950年当時の有楽町界隈の風景なども「昔はこんな風だったのね~」なんて興味深いわけである。箱根・芦ノ湖畔に今も健在の老舗・山のホテルと、熱海の信濃家の別荘としてロケに使われている別荘建築のたたずまいがまた、いかにもそれらしくていい。小原譲治の撮影も、雪夫人の絽の着物のなまめかしさや、部屋に吊られた蚊帳の透けた質感、また、箱根の芦ノ湖周辺の深い霧や靄、熱海の別荘から見える海上の雲や夕陽などの風景描写にも卓越したカメラワークの冴えを見せて、それだけでも見る価値はあるだろう。別荘内部の装飾などの美術や、雪夫人の衣装などもそれらしくて良い。
人間ドラマの方も夫婦の愛憎劇の他に、旧華族の家のスッタモンダのドサクサに熱海の別荘を巻き上げてしまう夫の京都の愛人(浜田百合子)とその愛人のヒモを演じる山村聡のシタタカさなど、ミゾケンらしい人物描写で思わずニヤリとする。
ただ、マゾヒスティックな肉欲に捉われている優柔不断な雪夫人が、あまりに煮えきらず、何かと言えば「わたくしは弱い女なんです。だめなんです。なんで女なんかに生まれたんでしょう…」なんてウダウダ言っているのを聞いているとかなり苛々する。他の観客も時折座り直したりして、モゾモゾしていた。みんな苛々してるのね…。かように雪夫人のキャラにかなり苛々するので、ええぃ、泣き言はもういいから、どうなと始末をつけなさい、という気分になったりもするのだけれど(笑)まぁ、雪夫人のような敗北主義のマゾ女は、どこからどう考えてもある方向に向かわざるをえないように出来ているので、彼女の行く末は最初から分かっているようなもの。他にどこにも進みようがないのである。



それにしても木暮実千代って艶っぽい人である。姿も声も実に色っぽい。着物姿がよく似合う。しなしなとしたやわらかい感じの着物姿である。「臈長けた女性」という表現を目にすると、ワタシは女盛りの木暮実千代と年増と言われる年齢になってからの岩下志麻を思い浮かべる。持ち味は違うのだけど、二人とも世間普通の女性には逆立ちしても出せない種類の「艶」を持っているという点では共通している。
実際はやや色黒だったらしい木暮実千代が白粉で化けて、「信濃の雪のように白い雪夫人」を演じるというのも一興だなぁと、何かのシーンで首の途中から地肌の色が出て、それが割に黒めだったりするのを発見して思ったりした。

神保町シアターは今回もやはり、ほぼ満席だった。映画にもよるとは思うけれど、いつもけっこう入りが良い。シニア世代は確かに多いが若い邦画ファンもちらほらと混ざっている。設備はいいし、音響も良く、映像もきれいなので、こういうミニシアターで古い、レアな日本映画が観られるというのはけっこうな事だと毎度ながら思う。一度観てみたいと思っていた「雪夫人絵図」も観賞できたし、駿河台界隈を散策もできたし、神保町シアターでの映画観賞は満足度が高い。神保町にあるというロケーションも気に入っている理由のひとつかもしれない。

コメント

  • 2011/02/12 (Sat) 23:54

    kikiさん、こんにちは。
    神保町散策、楽しげですねえ。「さぼうる」、昔一度だけ行ったことあります。コーヒー400円でしたっけね。東京価格にしてはとても良心的に思えますね。ニコライ堂も湯島聖堂も訪れたことないんですけど、素敵な界隈のようですね。なんていうのか、文学の匂いがするような街、惹かれます。
    1時間前にチケット買って43番目って、ほんと皆さん出足が早いですね。かくいうわたしも去年敏ちゃんの「妻の心」観に行ったときはなんと1番乗りでしたケド・・(初めての来場だったので劇場の勝手が分からず、とりあえず朝一にチケット買いに行ったものですから・・ほほほ)。でもほんと、わたしもこの劇場とっても気に入りました。
    ここのシアターの特集、毎度興味をそそられます。kikiさん評を読んで本作もなんだか観てしまったような気にもなりましたが(なんとなく予想ができそう、というか・・)、雪夫人の苛々ぶりと上原謙の「つっころばし」ぶりをぜひ見てみたいものです。
    脱線しますが、kikiさんブログを読んでいると毎度のように知らない言い回しが登場し(笑)、今回は「つっころばし」ってナニ??
    というわけで広辞苑に訊きました(恥)。「極端に柔弱な色男の役」とあり、上原謙を想像し、ああ納得。
    木暮実千代、好きです。そんなに作品は知らないけれど、色っぽい役はいわずもがな、先日「祇園の姉妹」ってのを見ましたが、気のいい奥さん役も案外ハマってて。一番好きなのは「お茶漬けの味」の反省する奥さんかなあ。
    口元のホクロ、いいですねえ。あれがなかったら、と思うと木暮実千代じゃないですよね。あと、あの形のよいとがった顎も!

  • 2011/02/13 (Sun) 22:24

    ミナリコさん、こんばんは。
    そうなんです。あの界隈は散歩もわりに楽しくてね。神保町シアターって、ロケーションでかなり成功してると思います。割に老若男女が来易い場所ですよね。学生街でもあるし、古書店街にレトロ喫茶も近いしね(笑)さぼうるの1杯400円の珈琲というのは、今どきはリーズナボーなお値段というべきでしょうね。近所の年配の常連さんもくれば、学生たちも来る、観光客も来る、というわけで、名物店って感じの佇まいでした。次回、何かでこっちに来られて、神保町シアターに行く事があったら、ニコライ堂や湯島聖堂に神田明神なんかも巡ってみるとオツかも。
    神保町シアターはますます客足がよくなっているみたいでねぇ。平日の夜の回とか、仕事終わってから行ったんじゃチケット買えないんじゃないかとマジで不安ですわ。わざわざ行って買えなかったらバカみたいだしねぇ。
    で、「雪夫人絵図」。ご想像のとおりの映画だと思いますよ、多分。もう、絵に描いたようなというか、何と言うか。ワタシはロケ風景とか、旬の時期の俳優や女優を眺めたり、60年前の熱海や箱根や有楽町を垣間見たりするのが楽しかったかな。撮影も良かったし、深みはないけれども、それなりには楽しめました。つっころばしって歌舞伎の方の言い回しなんですよね。それを言うなら二枚目、というのもそうなんだけど。時折、余り一般的でない語句だの漢字を文章を書きつつ流れでそのままにしちゃって、ちょっと分りにくいかなぁ、と思う事はあるんですけどね。毎度、解説しないでそのまま書き流しちゃってるのだけど、わかりにくそうな語句には短い解説とか付けた方がわかりやすいかしらん。読みにくい漢字とか熟語とかもカッコしてよみがなを書いておいたほうがよいのかも、ですね。そんなには無いと思うけど。
    木暮実千代はいい女優さんですよね。横から見るとちょっとシャクレ気味なところも味わいで。あの艶ぼくろがあるから木暮実千代なんですわよ、あれがなくちゃね。艶っぽい役ばかりでなく、コミカルな役も上手いんですよね。何か良いですわ、この人は。「祇園の姉妹」もミゾケンですね。随分前に観たけど忘れちゃったな。木暮実千代も出てたんですね。

  • 2011/02/13 (Sun) 23:35

    kikiさん、
    kikiさんの使う語句や漢字について、ですけど、わたし個人的には解説不要でよいかと思います。分からない言い回しや熟語とか調べるの好きなので(笑)。どういうわけかここ数ヶ月に渡って、本とか新聞読んでて「ん?なにこれ、どういう意味?」っていう語句なんかにぶち当たるとすぐ辞書で調べて手帳に書き写す、という奇妙な(?)癖がついてしまいまして。kikiさんブログから得たものも多いのですよ(笑)。
    なんでしょうねえ、歳とってきてから日本語の奥深さをいまさらながらしみじみ感じているのでしょうか。いまだに知らないことがいっぱいで、日々勉強だ、なんてひとりごちたり。そしてひとつ覚えてはひとつ忘れていってるんで一向に知識として残ってない気は恐ろしながら感じてるんですけどね(笑)。
    kikiさんブログ、わたしの勉強ツールのひとつなのです、ふふふ。

  • 2011/02/14 (Mon) 07:30

    ワタシのブログなどが勉強ツールだと言っていただくと恐縮だけれど、うろ覚えの言葉なんかはちゃんと調べてから使わなくちゃだわ、と今更気を引き締めたりして。ワタシ、漢字や熟語には強い方だと思ってたので漢字検定とか受けた事もなかったのだけど、この前どんな問題が出るのかとサンプル問題を見てみたら、一級の問題には手も足も出ず、まさにお手上げ(笑)準一級ぐらいなら取れそうかな、とサンプル問題を見て思いましたが、一級の問題は猛烈でした。漢字マニア選手権って感じ。勉強の種は尽きませんわね。何か1つ外国語も勉強しつつ、並行して日本語の勉強も続けていくってのは理想的かも、ですわね。

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