2010年 英/豪 トム・フーパー監督
祝!コリン・ファース アカデミー主演男優賞受賞!!というわけで、前から予定していた観賞日ではあったものの、アカデミー賞の直後の水曜日とあって、シネコンの大箱は女性で超満員だった。数日前に席を押さえてあったのでワタシと友は最後列のほぼ度真ん中で観賞。いやー、まさに想像していた通りの映画だった。心地よく入り込めた2時間だった。コリンはさすがの男優賞。映画自体もよく出来ているのだが、やはりコリンが王様を演じたからこその出来栄えでもあると再認識した。
ジェフリー・ラッシュはやはり素晴らしかった。ローグさんてこういう感じの人だったんだろうな、と自然に思える。国王を見守る折々の表情が何とも言えない。この人の助演あってのコリンの王様演技。ジェフリー・ラッシュの味わい深い助演の上にコリンが大輪の花を咲かせたのだな、と実感。そしてその悩める王様を支える賢い妻エリザベスにヘレナ・ボナム=カーター。本当に久しぶりでこの人の育ちのいいところが生きる役、演技を見た気がする。賢く、ユーモアを忘れず、常に寄り添って夫をバックアップする妻を、愛嬌をもって表現していた。
その他にもなんとマイケル・ガンボンが父王のジョージ5世を演じていたり、ガイ・ピアースが「王冠を捨てた恋」で有名なエドワード8世を演じていたり、その昔、BBC版の「高慢と偏見」でコリンのダーシーさんを相手にエリザベスを演じていたジェニファー・イーリーがジェフリー・ラッシュ演じるローグの奥さんを演じていたり(この人が王様の奥さん役でも良かったように思うけれど…)、コチコチの権威主義の大司教をデレク・ジャコビがハマリ役の手堅さで演じていたりで、実に嬉しくなっちゃうキャスティングだ。それも全てが適材適所。こんなにハマっているキャスティングで気持ちよく観られる映画もそうはない。ガンボンさん、誰かと思うぐらいにノーマルに威厳をもって王様を演じていて、エンドロールを見るまで父王を演じていたのがガンボンさんとは気づかなかった。
さほどの表現力のない俳優が王様を演じたら茶番劇にしかならなかったかもしれない本作。コリンはその表情(特に訴えかけるような目の演技)と、こっちまで呼吸困難になりそうな息詰まるドモリっぷりで冒頭からギュギュギューっと映画の世界に観客を引き込んで行く。大観衆を前にして、うまく言葉が出て来ないというのは(しかも、焦れば焦るほど舌はひきつり、言葉は強張って、口腔から外へ出ない)大観衆の前でさらし者になってしまうという事なのだ。気分的には公開処刑に等しいだろう。言葉の出ない空間が、みるみる人々の失望に変わって行く辛さ。一般人なら強いて多くの人の前でしゃべる必要はない。けれども王族たるもの、公務に挨拶や演説は欠かせない。いやでも人前で話さなくてはならないのだ。ドモってはいられないのである。
一般的な概念や普通の生活の中では、人前で苦もなくペラペラと次から次に言葉が出てくる人間よりも、口ベタで舌が重い人の方が軽々に余計な事を口にしないし、漠然と人としては信頼できるような気もするのだが、国を代表する人間が公の場で口ベタだと信頼を得るよりも却って損なってしまうというメカニズム。ヒットラーがあそこまでの独裁的権力を得たのも、魔的な演説能力が預かって力があったのだ。
どんな医者に罹ってもまるで好転しない夫の為に、妻が探し出して来たのが経験は豊富だが特に資格を持つわけではないオーストラリア人のライオネル・ローグ。自分のルールに従うこと、王族といえども治療の場では自分と対等の関係であること、などを条件に、当時ヨーク公だったジョージ6世の吃音矯正を始める。吃音というのは大抵の場合、心因性で、心の問題なのだ、と説明するローグ。彼のアパートの一室で行われる治療。他人にうちとけないヨーク公とフランクすぎるローグ。当初はなかなか噛み合わない二人が、紆余曲折を経ながら信頼関係を築いていく様子が押しつけがましくなく描かれる。ユーモラスでユニークなトレーニングの数々はトレーラーでも流れていたっけ。
本作ではジョージ6世の兄・エドワード8世ことディヴィッドをガイ・ピアースが演じていて、ガイとコリンとはあまり似ていないが(おまけにうんと年上のコリンの兄を演じるためか、ちょっと老けメイクをしていたように思う)、写真で見るとホンモノのエドワード8世とジョージ6世はとてもよく似た男前の兄弟である。父王ジョージ5世は、大英帝国を統治するのに忙しくて子育てなどニの次、三の次だった。妻の王妃メアリーも子育てには全く関心がなかったので、子供たちは乳母任せで放り出されていた。ジョージ6世の吃音は幼少の頃、乳母に陰湿なイジメを受けたせいであると映画の中でも示唆されているが、子供に厳しい父の威圧感や、王族にふさわしくないからと左利きを無理に右利きに矯正されたこと、また苦痛を伴った強引なX脚の矯正などもかなり大きな要因だと言われている。その上に両親から全くほったらかされて育った事(顧みられない不安な気持ちなど)などの影響もあるかもしれない。兄エドワードは吃音ではなかったが、幼少期は弟と同様に乳母に育てられ、早くから全寮制の海軍学校に入れられて、そこで王の息子だというのでイジメにあった。そんな彼は成長して、行くところ常に女性の引く手あまたなモテモテのプレイボーイになったにも関らず、女性に対して非常に醒めた視点を持つシニカルさ、複雑さを持ち、また型にはまる事をよしとしない横紙破りを楽しむ気質を”プリンス・チャーミング”と呼ばれた笑顔の陰に持っていた。本作の中でも自分で飛行機を操縦して空から意気揚々と現れる兄を、弟が車の脇に立って嬉しそうに迎えるシーンがあるが、そういう環境で育ったために、兄弟はひとしお肩を寄せ合うような仲の良さがあったのだと思う。男好きの野心家のアメリカ人の人妻なんかに引っ掛かってしまった事にはゲンナリしつつも、弟が兄を大事に思っていること、兄こそが自分よりも王にふさわしいと思っていることなども描かれていた。
エドワード8世は「魅惑の王子」と呼ばれ、国民にも人気が高かった。41歳まで独身で浮名を流していた花の独身男だった。けれども、所詮お追従や服従にばかり取り囲まれたお坊ちゃんだったので、手練手管に長けたウォリス・シンプソンにかかってはひとたまりも無かった。お追従に馴れた相手を落とすには、やんわりとけなす、あるいは諭すのは効果がある。エラの張った輪郭で、美人でもない年増の人妻に、世界中の独身女性の視線を集めていた英国王室の元祖アイドル、エドワード8世がコロリとひっかかってしまったのは、ウォリスが、父母の愛を知らずに育った彼が無意識に求めていた、自分を全面的に支配し、甘えさせてくれる存在だったからなのだろう。傍から見たらどんなに不都合な女でも、本人がずっと求めてきたタイプだったら、どうにもこうにも熱情は止まらないのだ。
そうこうするうちにジョージ5世が薨去し、エドワードは王位につく事になる。映画でも、父王の亡くなった枕辺で母にすがって号泣するエドワードを母はただ困った顔をして持て余している様子が描かれ、母性のない母という感じがよく出ていた。
世紀の恋と騒がれたエドワード8世とウォリス・シンプソン
英国王の結婚は、議会の承認など数多くの手続きが要り、しかも英国国教会の長である国王の妻に離婚歴のある女性は認められなかった。許されない恋を貫くために、王冠よりも女を取って、1年足らずで退位する兄。兄の退位で否応もなく泣くほど避けたかった王位を継がねばならなくなった弟ヨーク公。
ラジオから「愛する女性の助けなしには、国王の重責を果たすことはできない」という有名なメッセージを国民に向けて放ち、王冠を返上してウィンザー公となったエドワード8世。晴れて元人妻ウォリス・シンプソンと結婚したわけだが、このロマンスに関して昔見たドキュメンタリーで興味深いものがあった。
あれほどの騒動を起した果てに遂に初志貫徹して結婚し、ともに暮らし始めてみたら、互いに既に愛が醒めてしまっていた事に気付く二人。大反対されたから盛り上がった面もあったのだろうが、それを跳ねのけ、王冠を捨ててまで得たのは、どこまでいっても二人、どんなに飽きても二人、果てしなくお互いだけしか居ないという二人地獄だった。けれども、あれほど世間を騒がせて結婚したからには今更別れるわけにはいかない。二人にとって世紀のロマンスの主役であるという事が唯一の存在証明であるからには、それをやめるわけにはいかないのだ。離婚したら人生が無になってしまうに等しい。戦前の親ナチ的な行動が戦後には批難されたりと波乱もありつつ、二人は生涯、世紀のカップルを演じ続けねばならなかった…という皮肉でほろ苦いロマンスの帰結が印象的な番組だった。
ウィンザー公は、互いに皇太子時代から昭和天皇と交友関係があり、天皇は王の退位後もずっと変わらぬ態度で付き合った。1971年、昭和天皇が欧州歴訪の旅に出た際、予定には無かったがどうしても寄りたい、という天皇のたっての要望で、おしのびでパリにひっそりと住むウィンザー公の館を訪ね、ひさかたぶりの再会を果たした。ウィンザー公は非常に喜んで天皇を迎えたという。そして天皇の訪問を受けた翌年、ウィンザー公は亡くなる。昭和天皇にとってエドワード8世は籠の鳥のような自分に人生の楽しみ方を教えてくれた大事な友達だった。ウィンザー公のパリの館には、天皇から送られたプレゼントが全て宝物のように大切に飾られていたという。ワタシはこの二人の交友のエピソードがとても好きだ。
公務の合間を縫ってプライヴェートで訪問した天皇を大喜びで迎えるウィンザー公
ついつい、波乱万丈の兄エドワードの事ばかり書いてしまったが、英国王室と内閣にとって、いかにウォリス・シンプソン問題が頭の痛い、忌々しい情事であったかも映画では過不足なく描かれている。ウォリスはまさにああいう雰囲気だったのだろうと思う。そりゃ周囲は頭に来るでしょうねぇ、憂慮も致すわね。あんなのが我が物顔で国王の首ねっこを牛耳ってちゃ。困ったもんでしょうよ、実際。この兄エドワードの「世紀の恋」と退位、そして折からヨーロッパに台頭してきたファシズムの嵐で内憂外患の大英帝国には暗雲が垂れこめ、戦争やむなしという状況になっていく。そんな中、避けがたい戦争への突入を国民に納得してもらい、更に自国に理がある、と正義の闘いを主張し、士気を鼓舞するためには、国王のスピーチはどうしても必要不可欠。ジョージ6世は緊張にひきつりながらマイクの前に立つ。彼の傍には、ずっと彼を支えてきたコーチ、ライオネル・ローグが控えていた…。
というわけで、長年、自分が非常に苦手としてきた事を苦難の果てに克服できたら、いかに解放された気分になるか、達成感があるか、人として自信がつくか、という事が、じっくり、しみじみと描かれ、どのシーンも、とてもシンパシーを持って観る事ができた。ラストを締める英国王のスピーチも、少し間が空くのがまた聞くものの感興をそそるような出だしから、徐々に調子が出て盛り上がって行き、最後には一抹の余韻すら漂う。まさにハイライトにふさわしいシーンだったと思う。色んな場所で国王のスピーチに耳を傾ける英国の庶民の様子は、全く状況は逆だが、戦争に負けた事を初めて肉声でラジオから国民に伝えた、わが国の天皇のスピーチが日本人に与えた感慨をふと思った。
余談だが、このジョージ6世役は当初、ポール・ベタニーにオファーがいったそうだが、それまでずっとオフなしに仕事をしていたのと、妻ジェニファー・コネリーが出産を控えていたのでベタニーはオファーを断った。そしてコリンに役が廻ってきたという裏話がある。ポール・ベタニーのジョージ6世はどういう感じだったのだろう、とも思うが、この圧倒的ななりきり演技のコリンを観てしまった後では、他の人が演じるジョージ6世はもう想像ができない。当初からのオファーでなくてもウェルメイドな作品に出演する機会が巡ってきて、またそれを自分の演技で更に上質な作品にすることができるというのは、俳優としてこの上ない醍醐味だろうし、ここのところのコリンには、そういうツキがとても強力にあると思う。それもこれも美人で賢い奥さんのお陰か。王様も俳優も、こまやかな内助の功を発揮してくれる妻を持つ事が肝要なのかもしれない。
評価にたがわぬ良い作品だった。もう一度ぐらい観に行こうかしらん、と思いつつ劇場をあとにした。