「地獄変」

~絵師の執念より大殿の傲慢が眩い~
1969年 東宝  豊田四郎監督



大昔、子供の頃にカラーも褪せたTV放映を2度ほど観た事があったのだけど、現在までソフト化もされていず、その後TV放映も見かけなかった作品。このほど日本映画専門chで放映されたので、超久々に観賞してみた。中村錦之助(萬屋錦之介)が、天下に意のままにならぬもののない堀川の大殿を演じていたのは強烈に印象に残っていたが、大殿に対して意地を張る絵師・良秀を目玉の仲代達矢が演じていた事などはサッパリ記憶に無かった。「宇治拾遺物語」から題材を取った芥川龍之介の王朝もの中篇の原作を東宝の文芸もの専任コンビ、監督の豊田四郎と脚本の八住利雄で映画化した作品。


昔見て覚えていたのは、クライマックスの、牛車が紅蓮の炎で燃え上がるシーンだけだったのだが、今回、超久々に再見して、平安朝を再現した見事なスタジオセットの数々に目を瞠った。その壮麗な屋敷の回廊やきざはし、背景の庭を巡る四季、殿上人の衣装風俗などを捉えるカメラの構図やカラーの美しさは実に素晴らしく、最近作られた平安もの(例えば「陰陽師」など)に較べると、やはりさすがに奥深い重厚感と様式美があり、平安絵巻と呼ぶにふさわしいムードが溢れているなぁと思った。
こと日本映画に関する限り、希望は過去にしかない。
この映画の魅力は錦ニィこと中村錦之助演じる堀川の大殿および大殿周辺の描写に固まっているのだが、当時のアイドル・内藤洋子(もう消えてしまったが娘は喜多嶋舞)が絵師・良秀の娘に扮して可憐な姿を見せているのもそれなりに役にハマっていて悪くない。重厚な音楽はもちろん、原作者の息子である芥川也寸志が担当。
音楽と撮影と美術は一級品の映画だ。


こんな見事なセットは昨今の日本映画ではもう作れないだろう

映画としては、原作が短いため勝手に膨らませて、渡来人の画家が平安朝で冷遇されているとか、栄耀栄華を極める貴族社会と対象的に、庶民は飢饉に悩み、洛中洛外を夜盗が横行して暴動を起すなど、多分、制作当時(1969年)安保騒動で揺れた世情や政治色などを平安朝に溶かし込んで本筋の脇に絡めているのだが、なんだか図式的で、「そういう側面も描いてみました」という感じがアリアリ。また当時のアイドルを起用しているので良秀の娘の恋愛なども絡めてある。いかんせん、そうやって余分なエピソードを入れて少し話を膨らませても1時間半にしかならないので、(原作をそのまま映画化したら1時間ぐらい?)苦肉の策だったのだろうと思う。

そんなわけで映画そのものとしては、さほど大した出来ではないのだが、「仲代達矢の仕事」という特集の一環で放映されたのであるにも関らず、昔見た時も、今回の再見でも、この映画で鮮やかな印象を残し、やっぱり上手いな、と感心するのは錦ニィについてである。残念ながら目玉の仲代氏はさして役にもハマっていないし、多分、あのご面相だけで使われたのかもしれないが、新劇出身がご自慢の目玉の先生なれども、演技的にもどこがどうというところもなし、本当にサッパリ印象に残らない。
当時はまだ若過ぎたのだろうけれど、山崎努が良秀を演じた方がずっと迫力があったのではないかと思う。(ワタシがプロデューサーなら山崎努をキャスティングしただろう。老けメイクをすれば初老の男も演じられたと思う)


錦ニィと目玉のセンセイ

ハッキリしない印象の仲代に引き替え、中村錦之助はいい俳優だったのだな、と改めて思った。明るくイナセで威勢のいい一心太助もハマれば、一匹狼の渡世人・沓掛時次郎のニヒルさもバッチリ。子連れ狼も当り役なら、この堀川の大殿のような傲慢な平安の大貴族もそれらしい柄と演技力で見事に演じてみせる。大スターになるには、それだけのワケがある。俳優としての華をふんだんに持っているのだ。傲慢ささえ眩いなんてタダモノではない。
仲代と錦ニィは割に仲が良かったらしく、意外に共演作も多い。五社英雄の「御用金」は、当初、敏ちゃんと仲代の共演作品だったのだが、半分ぐらいまで撮ったところで敏ちゃんと仲代の間でトラブルが発生し、敏ちゃんは役を降りてしまったらしい。そこで急遽、仲代が頼み込んで敏ちゃんの代役で出て貰ったのが錦ニィだというから、もちつもたれつ、随分仲良くやってたようだ。仲代は錦ニィに立ち回りのコツも教わったらしい。(「仲代達矢の仕事」のインタビューより)このへんのくだりは聞いていて面白かった。



錦ニィこと中村錦之助は歌舞伎出身なので、口跡が良い。歯切れがよく、台詞のメリハリが効き、抑揚や緩急が自在で、演じるキャラの性格をよく現している。今回、平安の大貴族、堀川の大殿の台詞を聞いていて、今更に上手いなぁ、と感心した。白塗りの麻呂眉毛も非常によく似合っている。堀川の大殿のモデルは右大臣・藤原道長であるのか、劇中で「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」を自作として堀川の大殿が吟ずるシーンがある。あまりに分り易いのでちょっと笑ってしまったりして。けれども、殿上人らしい貫禄と、それらしい品格もあり、よきにはからえ的な人物の大きいところもあるかと思えば、時に臨んでは途轍もなく残忍になれる冷酷さを持ち、欲しいものは何でも意のままに手に入れ、自分に出来ない事はないと思っている堀川の大殿を気持ちいいほど鮮やかに演じきっていた。この錦ニィの大殿を中心とする平安の都の貴族の生活ぶりや、シーンを彩る小道具や美術などの様式美が印象に残る映画だ。


美術と撮影、そして画面の構図が本当に素晴らしい


原作では、絵師・良秀が渡来人であるとは書いていないし、良秀の娘にも特に名前はない(映画では便宜上、名前が付けられている)。第三者の語りによって話は進められ、良秀の娘に対する大殿のありようなどもおぼめかされ、はっきりとは語られず、読者の想像に任せるという書き方なのだが、映画ではそのおぼめかしてある部分を全てぶっちゃけてある、という感じ。例えば堀川の大殿は我が世の春を謳歌する権勢第一の大貴族であるという事を説明するために、花見の宴で、大殿の牛車の牛が暴走したのにひっかけられて怪我をした庶民が、「大殿の牛に掛けられるなら本望だ、と申したそうでございます」という原作と事変わり、映画では牛の蹄にかけられた老人は断末魔に大殿への恨みつらみを吐き出して死ぬ。そしてそれを良秀が写生する、という次第である。また原作では、ある夜、大殿に陵辱され(かけ)たかもしれない娘の様子なども多分そうだろうと思わせつつ明記を避けてあるのだが、映画ではハッキリと大殿の手がついてしまう様子が描かれる。あらら、当時のアイドルにごムタイな。でも、内藤洋子は儲け役で、可憐さと新鮮な色気を有効にアピールできていたと思う。


制作当時の人気アイドル内藤洋子 
可愛い上に、役に求められるものをきちんと表現している

「地獄変」は、芥川お得意の芸術至上主義を謳ったもので、都で一番の絵師である良秀という猿のような老人は、腕自慢で傲慢不遜、美しいものよりも醜いおぞましいものを好んで描き、吉祥天の顔に旅芸人の顔を写すなど、世間のありがたがる権威をわざと貶めるような真似をして面白がる気質があった。大殿はこんな良秀の気質を面白がり、その鬼才を買って贔屓にしていたが、小面憎く思う事もしばしばあった。そんな二人の間に、大殿の屋敷に奉公に召し出された良秀の娘が絡み、両者の緊張は更に高まる。そうこうするうちに、大殿から良秀に命ぜられた地獄変図屏風の制作が始まり、両者の対立は遂にに抜き差しならぬところまで行ってしまう。実際に目にしたものでなければ描けないという良秀に、大殿はこの世の地獄を目の当たりに見せてやろう、と請合う。

物語は、自分に逆らう者をけして許さない平安朝の大貴族の傲慢とサディズム、そしてその権勢第一の大殿にはむかって娘を目の前で焼き殺されても、父親としてのショックは一時、脇にどけて、地獄変の屏風を描くために目の前の地獄絵図を恍惚として眺め、そして見事、屏風にその地獄を描ききるという良秀の鬼気迫る絵師根性がテーマである。良秀を演じる役者は、このへんの鬼気迫る恍惚感をどう演じるかが肝なのだろうと思うのだが、目玉の先生の演技は予想の範囲(あるいは形式的な表現)を全く超えていない。



大体、目玉の先生って顔の濃さだけが取り得のような感じで一度も上手いと思った事がないのだけど(無表情で棒台詞な事が多いし)、上手いのだろうか?小林正樹作品では良いのかもしれないし、単にワタシが目玉の先生を好きではないだけかもしれない。功なり名遂げると「先生」になりたがる役者ってあまり好きになれないのだ。森繁にもそういう面があるが、目玉の先生などはその典型だろう。何故センセイになりたがるのか。一役者でいいのに。昨今は年を取ってさらにケレン味の強い風体で臭味ふんぷんである。弟子から売れっ子の役者が出てしまったので先生風もやむなしか。
でもワタシは好きになれないわ。ごめんなさいネ。



「地獄変」は、やはりクライマックスだけあって、大殿の使っている檳榔毛の牛車の中に鎖で繋がれた良秀の娘が、牛車もろとも焼かれるシーンは今見ても悪くない。火の粉が金粉のように舞う様や、炎の中で黒髪を乱して身をよじる内藤洋子など、絵面としていかにもな雰囲気がよく出ている。ついでに書くと、この映画で女御や上臈を演じる女優陣がつけている鬘が、また実に平安絵巻のイメージにぴったりな鬘で、その長さといい、質感といい、袿(うちぎ)に沿って長くうねる様子といい文句なしである。



また、仕上った地獄変図屏風を良秀が大殿に魂魄となって届けに来るシーンも端正で美しく、雪の庭を背景に様式美が溢れていた。



が、その地獄変の屏風を見事じゃと眺めているうちに、中空から燃え落ちてくる檳榔毛の牛車の中で炎に巻かれて苦しんでいる人物は、若い女房ではなく、他ならぬ大殿自身が描かれていることに気づくと、呵責の念からか、現実的には発狂したという事にでもなるのか、地獄の業火に焼かれて奈落へ落ちる大殿の描写は、一面の炎の中を合成画像でワイヤーでドタっと丸太のように吊られただけの錦ニィが、声だけ大袈裟に絶叫しているお粗末なもので、テーマ曲で誤魔化しているものの、演出的にもうちょっとどうにか出来なかったの?という感じは拭えない。しかもエンドマークの直前に「人生は地獄よりも地獄的である 芥川龍之介」なんて白抜き文字が出るに至っては噴飯モノ。何が言いたいかはもう存分に分かってるので、無駄なダメ押しが失笑を呼ぶいい例だ。
原作では堀川の大殿は何の報いも受けず、良秀親子の命をかけた屏風を受け取るだけなのだが(しかも牛車の中の人物は勿論大殿ではなく若い女房?良秀の娘である)、映画では、それなりに報いを受けるという事になっており、原作と映画の表現の違いが現れていると思う。映画と原作の違いを挙げていくと、映画の方が迫力があり、原作はなまぬるいようだが、けしてそんな事はない。原作には原作の香気があり、みやびなおぼめかしがあり、芥川らしい筆の力で描き出される平安朝の貴族社会と、絵師の執念と、この世の地獄がある。映画はややベタに描きすぎて通俗的になっているものの、このような作品は昨今ではもう真似だけでも撮れないだろうし(今撮ってもケバケバしたCGだけが売りの、安手な、学芸会以下のものしか出来ないだろう)、何といっても平安の大貴族を演じる錦ニィが素晴らしかったのと、全てのシーンが王朝絵巻の様式美に満ち満ちて美しかったのとで、忘れがたい作品である。

コメント

  • 2015/04/22 (Wed) 15:46
    豊田四郎作品としては

    豊田四郎は好きで、京マチ子主演の『甘い汗』など大好きなのですが、これはあまり感心しませんでしたね。
    豊田は、ブラック・ユーモアであり、これはまじめすぎて面白くない感じでしたね。
    内藤洋子は可愛かったけれど。
    彼女に比べれば、喜多嶋舞は、足が長いだけで女優としては0ですね。

  • 2015/04/23 (Thu) 22:39

    なんか、大仰で、映画としては大した出来ではないんですが、細部に目を向けるとそれなりに見所はある映画ですよね。こんなセットは今ではもう作れないだろうと思うし、何よりこの映画は錦ニィの大殿っぷりがナイスなので、ちょっと好きです。

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