「鬼畜」

-宵闇の東京タワー-
1978年 松竹 野村芳太郎監督



少し前から機会あって清張ものを数本観た中で、久々に「鬼畜」を観賞。何も考えずに子供を生み落とし、挙句に子育てを放棄した親による子殺しや虐待が横行する昨今、本作の投げかけるテーマはいよいよ迫真性を帯びてきたと思う。何度も観ている作品ではあるけれど、中盤から終盤にかけて怒涛のように盛り上がってくるドラマ性はやはり有無を言わせない。緒形拳岩下志麻、小川真由美はいわずもがな、素朴な子役の存在感が光る。緒形拳の代表作の1本として一度書きたいと思いつつ、テーマの重い作品なのでなかなか出せずにきたものを今回漸くにUP。
前に観たのは15年は前だと思うので、その時には気付かずスルーしていたが、気弱なダメオヤジ宗吉(緒形拳)の印刷屋があるのは、「小江戸」という事で町起しをしている川越だったのね、と今回初めて認識した。そういう目線で見ると、土蔵の混ざった古い街並みや火の見櫓など、噂に聞く小江戸の風景がしっかりとフィルムに収められている。



そこに、埼玉奥地らしい男衾(おぶすま)というところから、幼い子供3人を連れて乗り込んでくる愛人に小川真由美。受けて立つ女房に岩下志麻。この、岩下志麻の鬼嫁演技は語り草で、誰でも映画「鬼畜」というとまずお志麻さんの鬼嫁っぷりが脳裏に浮かぶと思う。確かに目覚しい鬼嫁っぷりではあるが、ウダツの上がらない亭主を支え、火事を出した印刷所をなんとか立て直そうと必死のところに、夫の愛人が子供を3人も連れて突如現れ、7年前から世話になってましたなんて言ったら誰でもキレると思う。ああいう形で怒りが噴火するかどうかはともかくとして、どんな奥さんでも大なり小なり鬼嫁になるのではなかろうか。それはそれとして、お志麻さんは田舎町のしけた印刷屋のおかみさんとしては、あまりに美人過ぎる観は否めない。髪を振り乱して、殆ど化粧などしていなくても、さすがにお志麻さんはどこか垢抜けして綺麗である。ノースリーブからにょっきり出した贅肉のない腕もきれいに引き締まっている。こんなしけた印刷屋には勿体ない。いい女すぎる。


鬼嫁役だが、お志麻さんはやはり美人である

この、お志麻さんがいい女すぎる点を除けば「鬼畜」には殆ど文句のつけどころはない。脚本も、演出も、音楽も、撮影も、配役も、役者の演技も、間然するところがない。愛人役の小川真由美は言うまでもなく上手い。乳飲み子も混ざった幼い子供を3人も抱え、田舎に引っ込んで働きにも出られず、男のお手当ても滞り勝ちとなれば、いずれ談判しに行かねばならないと思うのもムリはない。



情けない宗吉の印刷所が火事にならなければこの悲劇は起きなかったのかどうか。だが、子供が育って行けばどんどん生活費だって嵩んで来る。僅かな手当てだけでは追いつかなくなり、どんな形にせよ、いずれ修羅場は訪れたに違いない。宗吉のちびた印刷屋で働く職工に蟹江敬三。あまりの連日の修羅場に嫌気がさして辞めていってしまう。その他、大滝秀治、加藤嘉、田中邦衛、鈴木瑞穂、大竹しのぶなどが随所に顔を見せる。


まだ若いので何かカワイイ職工役の蟹江啓三


巡査役で1シーンのみ登場する田中邦衛

岩下志麻はささくれた鬼嫁の雰囲気を猛烈に出している。こういう猛烈な女の役は彼女の得意とするところでもある。ただ、子供に虐待まがいの行為をするシーンだけは本当にイヤな気分で、演じていて辛かった、と何かで語っていた。(お志麻さん自身、娘さんを一人持つ身である)清張ものではもう1本印象的な「疑惑」もある。桃井かおりとの丁々発止はお互いのキャラが上手く生きて強烈なアンサンブルだった。ワタシは岩下志麻って何となく好きだ。日本では「極妻」なんかでしか中年以降の彼女を使えない情けなさだが、お志麻さんがフランス女優だったら、もっと彼女にふさわしい企画が中年以降も巡ってきたのではないかと思う。ほぼ同年輩だと思うが、太っておばちゃん全開になったドヌーヴに較べたら、お志麻さんの若い頃と変わらぬ体型や雰囲気を維持している事はまさにアッパレというべきで、彼女が今の年齢で演じられる、彼女らしさを活かしつつも深みのある人間ドラマを企画できないものかと折節思ってしまう。そこらへんが日本の映画界の貧しさでもある。

***
鬼嫁は愛人が置き去りにしていった3人の子供をみて、「あんたに全然似てないよ」と吐き捨てる。普通の結婚生活でならばともかくも、婚姻外の関係で子供が出来たと言われた場合に、子供が本当に自分の子なのかどうか、男には本能的に疑惑が抜けないところがあるだろう。明らかに自分の子であると分る特徴をはっきりと見出すまでは。情けない宗吉は愛人に他に男が居たに違いないと思っている。3人の子供のうち、どれかは(あるいは全員が)自分の子ではないだろうという疑いも、妻の言葉から兆してしまった。けれども小川真由美演じる愛人は、さほど要領がいいわけでもないし、悪い女というわけでもない。この女はいわゆる「夫婦善哉」の蝶子型のキャラで、ダメ男に憐れみを感じてしまうタチなのだ。もっと要領が良かったら、宗吉みたいな男に囲われて子供を3人も生んで身動きが取れなくなるような事にはならないだろう。もっと悪い女だったら、とっくに田舎の家に子供を置きざりにして行方をくらましていたかもしれない。

ともあれ、愛人はどこかに去って消息が知れない。女房は毎日ヒステリーを起し、段々と子供に虐待まがいの行為に及び始める。子供たちの泣き叫ぶ声と妻のヒステリックな罵声が印刷機の回転の間に響き渡る。阿鼻叫喚である。妻がいきりたつのは自分に子ができないせいもある。そして、子供たちを見るたびに、それを揶揄した愛人の顔をことごとに思い出すからである。鬼嫁は、情けない亭主でも宗吉に惚れているらしい。男女の因果である。当然のことに妻は一切、子供たちの面倒をみない。宗吉は集金と配達に駆け廻り、汗まみれで仕事に追われつつ、最低限の子供の世話もしなくてはならない。


情けない宗吉

それでも一番幼い子供が衰弱して死んでしまうまでは至らぬながら間歇的に親の役目を果たしていた宗吉だが、赤ん坊の死が、彼の中に辛うじて残っていた堤防を決壊させてしまう。子供が家の中にいる限り、妻のヒステリーは収まらず、家の中は修羅の巷である。揉め事に心底疲れ果てた宗吉は、子供たちを排除しなければ、地獄の日々が続く事への強迫観念に追い込まれ、3歳の娘を東京タワーに置き去りにし、6歳の長男を我が手にかける事を、もはや既定路線として疑わなくなってしまうのである。

幼い娘は親父に手を引かれて東京にお出かけしても、父の手を握って離さない。幼いながら漠然とした不安があるので、父の傍を離れないのだ。デパートの食堂で幼い娘は情けない親父の耳元で囁く。「良子、おとうさん好きですよ」と。だが、その囁きを聞いてもなお、宗吉は娘を連れて家には帰らない。帰れないのだ。だから東京タワーの展望台に置き去りにしてくるしかない。娘は自分を置き去りにしてエレベーターに一人乗りこんでいる父の姿をじっと見る。帰りの電車の窓から、宗吉は娘を置いてきた東京タワーを見上げる。宵闇の中にぽつぽつと東京タワーの輪郭が浮かび上がっている。この頃の東京タワーのイルミネーションは非常に光が弱く、数も少ない。その弱々しいライトアップがひとしお物寂しく、遣る瀬ない。


3歳の娘を置き去りにしてきた東京タワーを茫然と眺める

3人のうち、2人まで排除しても鬼嫁の追及はやまない。もの心がついて親の名前も住所も言える長男に置き去り作戦は通用しない。鬼嫁は青酸カリを亭主に手渡す。更に追い込まれた宗吉は、手にかけようとした息子の前で自分が子供にもどって泣きじゃくるというところまで崩壊してしまう。それはこんなに父ちゃんは苦しいんだから許してくれ、という甘えでもあろうか。殺そうとした息子に甘える父親とは一体何なのか。
このあたりから緒形拳の演技も入魂という感じになってくる。緒形拳という役者が消えて、親や家庭に恵まれず、親戚をたらいまわしにされ、幼い時から印刷工として働いてきた自分を憐れんで甘ったれた涙を流す情けない男として、ありありと存在していた。舌足らずで、やや知恵遅れのように思われている長男は、そんなダメ親父の野放図な自己憐憫を二度までも、それこそ父親のように受容するのである。


息子に昔語りをする父親

この時期の緒形拳は絶頂期で、「鬼畜」「復讐するは我にあり」と2年連続で話題作に主演して演技賞を総ナメにした。NHK大河「黄金の日日」では秀吉役を印象的に演じていた頃である。今更言うまでもないけれど、改めて緒形拳はいい俳優だったなぁと思う。不敵な男も情けない男も同じ自然さと説得力で演じる事ができた人だった。山崎努ではいわくありげな面構えが災いして「鬼畜」の気弱なダメ親父は演じられないと思う。

青酸カリに失敗した宗吉は、鬼嫁の示唆で長男を断崖から突き落とすための道行きに出る。そこで登場するのが清張お得意の北陸である。彷徨う宗吉は、まず福井の東尋坊へ行き、翌日、能登で計画を決行する。少し前に1961年版の「ゼロの焦点」を観たのだが(これは古臭くて冗長な印象だった。芥川也寸志の音楽だけが大仰に随所で流れてきて浮いていた)、能登金剛の全面フィーチュアで絵に描いたみたいだわ、と思った。考えたら、東尋坊だの能登金剛だのの波の荒い北陸の断崖を全国区で有名にしたのは松本清張なのかもしれないな、とふと思った。久々に「鬼畜」を見て、肝のシーンで清張お得意の北陸の海岸が登場したので、松本清張って本当にこの辺が好きなのだな、と改めて感じた。確かに絵にもなる場所である。


清張ものには欠かせない能登金剛


余談だが、九年ぐらい前の夏に北陸に旅行にいって、金沢~能登及び福井の永平寺に行ったついでに有名な東尋坊にも寄ってみたが、夏のこととて荒波が砕け散るはずの日本海はとろりと青く凪いで波ひとつない穏やかさだった。とりあえず東尋坊という停留所でバスを降りてるから、ちゃんと来ている筈なのだけど、と友と顔を見合わせつつ、夏と冬とではあまりにイメージが違い過ぎて、目の前に広がる凪いだ海の長閑な光景のどこが東尋坊なのかハッキリと分からず始末で帰ってきた。

***
てっきり溺死したと思った長男は助かり、警察に事情を聞かれても父親や自分の素性については一切話さない。頑なに口をつぐむ彼をみて、能登の刑事たちは父親を庇っているのだと推察する。やがて僅かな手がかりから川越の宗吉は手繰り出され、能登へと連行され、自分が殺そうとした息子と対面する。

昔、最初にこのクライマックスのシーンを観た時には、シメの息子の言葉に、あんな親でもまだ父親を庇ったのだな、と思ったのだけど、今回は違うと感じた。庇ったのではなく、やはり息子は遂にダメ親父に引導を渡したのである。自分から決別したのだ。どんなにダメでも、それまでは父親として情けをかけてきた宗吉と、親子の縁を金輪際切ったのである。お前のような奴は父親失格だと、息子は情けない父に最後通牒を突き付けたのである。お前のような親はもう要らない、と。

子供は親を選べない。だが、あまりにダメな親なら縁を切る権利はあって当然だ。親はあっても子は育つという喩えもある通り、実の親と暮らす事が最上の道とは限らない場合もある。
人間一人をこの世に送り出すことには、重い責任が伴う。それを遮二無二放棄しようとする父親のありようは鬼の所業には違いないが、緒形拳のダメ男っぷりには、そのあまりの人間としての弱さゆえに不思議な憐憫を感じてしまう。

テーマ曲のオルゴール音がシーンに効果的に流れ、長男・利一を演じる子役の少年の上目遣いの目つきと、知恵遅れのようにも感じられる舌たらずのセリフ廻しが非常に効果的かつ印象的だ。



また、東京タワーや、上野の五重塔および不忍池などの東京の風景や、川越の街並みに男衾の田園風景、そして東尋坊や能登金剛のロケなど、風景描写が印象的なのも本作の特徴で、重い問いかけを持つ物語に風情を与えている。

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