「サムライ」 (LE SAMOURAÏ)

-思ひ死にするこそ、恋の本意なれ-
1967年 仏 ジャン・ピエール・メルヴィル監督



子供の頃にTV放映されたのを2度ほど観たきりで、数年前にふと思いだして見ようとしたら日本ではビデオもDVDも廃盤になっていて、映画チャンネルでも放映されないので、すっかり観られなくなっていた本作。この夏、ひょんな事から予期せず久々に再見できてしまった。メトロを使ったチェイスなどは覚えていたが、シトロエンの鍵の束を針金に通したものを持ち歩き、駐車中の他人のシトロエンに乗って、合う鍵を1本ずつ探るシーンは全く覚えていなかったので、ほへぇ、そんな悠長な…と少し驚いた。
「サムライ」で覚えていたのは、主人公の殺し屋ジェフ・コステロが一人棲む寒々しい部屋と、鳥を飼っているということ、そしてあの音楽だった。余分なものが何もない、古びた灰白色の部屋の冷え冷えとした寒さ。その寒々しい部屋の中に間歇的にピィピィという小鳥の鳴き声だけが響く。飼っていたのは鳩だと思いこんでいたが、籠に入った小鳥だった。



観たくてもなかなか観られなかった「サムライ」を何故観ることができたかというと、この夏、記事にも書いた ドロンの「D'URBAN」のCMをあれこれとyoutubeで観ている時に、ふと「LE SAMOURAÏ」が10分ぐらいずつ10回に分けてUPされているのに気づいたのである。字幕が出ないものもUPされていたが、英語字幕の付いているものもUPされていたので、そちらを有難くダウンロードさせてもらって、遂に、猛烈に久々に「サムライ」を観る事ができたのだった。字幕なしでフランス語でしゃべられてもお手上げだが、英語字幕が付いていればセリフも分かる。音声はクリア。映像はそこそこだが、PCの画面で観るには十分だった。

タイトルバックに監督、ジャン・ピエール・メルヴィルの名が出たあと、少し間をおいて"IL N'Y A PAS DE PLUS PROFONDE SOLITUDE QUE CELLE DU SAMOURAÏ SI CE N'EST CELLE D'UN TIGRE DANS LA JUNGLE…PEUT-ÊTRE…(おそらく密林の中の虎を除き、武士の孤独より気高い孤独はない)"という一節が表示される。これは武士道の本より引用した、という注釈が入っているのだが、その武士道の本とは、山本常朝の「葉隠」であるのか、宮本武蔵の「五輪書」であるのか、新渡戸稲造の「武士道」であるのか、またはそれら以外であるのか、は全く分らない。が、ともかく、ジャン・ピエール・メルヴィルがその武士道本にインスパイアされて、この映画を撮ろうと思った事だけは確かなのだろう。全編を通してヒリヒリと感じるのは主人公ジェフ・コステロの孤絶である。ヒリヒリとした、痛いほどの孤独である。しかし、武士というのはそんなにも孤独なものだろうか。武士とは主君を持つ者である。主君に仕え、藩という組織に属する者である。戦時下にあっても、平時にあっても、武士は常に主家に忠誠を近い、主君の名誉と自らの家名を重んじる者である。浪人であっても、武士であるならばかつては主君を持っていた筈であり、誰にも仕えず、どこにも属さず、何からもどこからも孤絶した一匹狼であるジェフ・コステロはどこから考えても侍とは言えない。孤独で、常に死と隣り合っている者=侍ではないのである。冒頭に挙げた「武士道本」からの引用は、なんとなく「密林の虎」とか孤絶を意識するありようが、戦国時代に生まれて武芸一筋に精進し、諸国をわたり歩いて腕を磨き、晩年は一人山中の洞窟に籠もって五輪書を書いたといわれる宮本武蔵の気配を何となく感じさせるが(だからといってこの引用が五輪書からに引用であるかどうかは分らないけれど)、本作は、なんらかの武士道本に感銘を受けたメルヴィルが、自分がインスパイアされた部分だけを激しい思い入れで拡大解釈したもの、あるいは非常に単純化したもの、を映像化した作品である、と思われた。



プロットとしては非常に他愛もなく、奥行きもない話であって、そういう方面で期待すると、あれ?という感じの映画なのだが、本作の魅力は筋立てなどにあるのではなく、全編を覆う雰囲気と細部へのこだわりである。その「スタイル」である。灰白色のパリの片隅の、灰白色の殺風景な部屋に一人住む孤独な殺し屋。何もないガランとした部屋で、ほとんど所有物を持たない主人公は、しかし、帽子とコートにはやたらに強いこだわりを見せる。


出かける前には、常に鏡の前で注意深く帽子の鍔を整える

また、車が必要な時は路上で駐車中の他人の車を盗んでナンバープレートを変え、用が済んだところで乗り捨てるのだが、車種は常にシトロエンである。プジョーでもルノーでもなく、シトロエン。それも60年代なのでDS21パラスであると思われる。かくのごとく、ジェフ・コステロには彼流のスタイルがある。そしてそれこそが本作では重要なテーマなのである。すなわちいかなる時にも自らのスタイルを保ち、それを貫き通す、ということだ。


他の車種のスペアキーは用意していないせいもあるだろうが、車は常にシトロエンである

殺風景な部屋に住んでいるのも、世間と没交渉で生きているのも彼流のスタイルである。スタイルとは生き方の事である。おそらくは、その彼流のスタイルに、ジャン・ピエール・メルヴィルは「サムライ」という名を付けたのだろう。

蛇足ながら、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」であまりにも有名な「葉隠」は、その一節だけが飛び抜けて有名になってしまったために内容が誤解されて認識されている本であるという。「葉隠」は死を賞賛し、闇雲に散華を賛美するような内容のものではなく、常住、武士としていかに生きるべきか、そのためにはいかなる心構えでいるべきか、などを日常の作法などを事細かに指南しつつ説いている書であって、いかに死ぬべきかではなく、いかに武士として生きるべきか、について書かれたものであるという。尤も、いかに生きるか、ということは、いかに死ぬかという事と表裏一体ではあるのだけれど。

本作はジェフ・コステロという男の「スタイル」を観賞する映画であり、それを演じるアラン・ドロンという男の「スタイル」を味わう映画でもある。本作のアラン・ドロンはいつもに輪をかけて無表情で、そのとろんとした醒めたブルーの瞳は、いつにもましてどこも見ていない感じがする。



この目のとろんとした、あるいはきょとんとした風情はどうであろうか。アラン・ドロンの目は目先の対象物を見ない。その目は果てしもなく自分に還って行く目である。自分だけしか見ない目である。その視線は常に自分にだけ注がれているのだ。アラン・ドロンほど自己愛の似合う、自己愛に満ちた俳優はいない。本作はそうした、孤独で自己愛に満ちたアラン・ドロン本人と、その本人のキャラを投影させたようなジェフ・コステロという殺し屋の二重映しを楽しむ映画でもあると思う。

殺しの成功報酬を受け取る筈の駅の陸橋の上でいきなり撃たれたコステロが、腕の銃創を寒々しいアパートで一人手当てする様子は、手傷を負った野性の生き物が、葉陰で傷口を舐めながら休み、傷の癒える時を待つ様子を思い起させる。また、警部が部下をさしむけて、彼の留守にしかけさせた盗聴器の存在に、野性の勘としかいいようのない勘で気づいて探し出し、カチッとスイッチを切るシーンなども、常に身一つで、勘を研ぎ澄ませて生きている男の雰囲気がよく出ていたと思う。


陸橋の上で、成功報酬の代わりに銃弾をお見舞いされるコステロ


一人黙々と傷の手当てをする

また、路駐しているシトロエンに滑り込んで、冷静を装いながら、猛烈に多い鍵の中から車に合う鍵を1本ずつ探るシーンや、入れ替わりたち替わり尾行してくる刑事をメトロで捲くシーンは、100分ちょっとの短い映画の中で前半と後半に二度登場する。いずれも非常に印象深いし、殊にメトロの駅の様子など、1967年の映画制作時も、ワタシがパリに遊びに行った90年代後半も、全く変化していない様子なのがパリらしいなぁ、と思われた。きっとパリのメトロは今も殆ど変わっていないのに違いない。夜遅くなるとタクシーに乗ったが、日中はメトロであちこちと経巡った事を懐かしく思い出した。


メトロの駅で 「SORTIE」というのは「EXIT」のことだっけね

共演者については、コステロをナイトクラブ経営者殺しの本ボシと当初から睨んで追いかける警視役のフランソワーズ・ペリエを筆頭にあげておかねばなるまい。この人はジャン・コクトーの「オルフェ」で、オルフェの妻ユーリディスに惚れてしまう死神の使いウルトビーズを演じていた。若い頃は亡羊とした人の良さそうな顔をしていたが、中年になって、少しイヤミや臭味のある風貌になり、それがこの警部役にも合っていたと思う。
また、刺身のツマのように、当時妻だったナタリー・ドロンがコステロの愛人役で登場するが、彩り程度に顔を出しているという感じである。終始バルドーもびっくりな拗ねた膨れっツラで唇を突き出していた。


常に膨れっツラのナタリー・ドロンと、オジサンになったフランソワ・ペリエ

コステロの関心は、自分以外では「アルテイズ」という高級ナイトクラブでピアノを弾いている黒人女性(カティ・ロジェ)にのみ分たれる。彼女は、依頼を受けてクラブのオーナーであるアルテイを殺したコステロが部屋から出てくるところに偶然出くわす。その際、彼女はハッキリと彼の顔を見たのにも関らず、翌日警察に容疑者として引っ張られたコステロを「見た事はない」と証言する。



彼女の証言を聞いて、無表情のコステロはかすかに目をあげ、「メルシー」と言う。異例のリアクションであろう。その後、コステロはナイトクラブを訪れ、彼女をバーのカウンターからじっと見る。飲みもしないでウイスキーの代金をカウンターに投げ出し、コステロは店の外に出て、店が退けて外に出てくる彼女を待つ。そして彼女の車に乗り込む。
深夜の車の中で、二人が短い会話を交わすシーンもなかなか良い。



「何故、俺を見た事がないと言った?」
「何故、マルテイを殺したの?」
「仕事を請け負ったからだ」
「彼があなたに何をしたの?」
「何もしない。俺は奴を知らない。全くの初対面だ」
「一体、あなたは何者なの?」

深夜のパリを車は走り、やがてモダンなインテリアに彩られた彼女のアパルトマンの中で会話は続く。コステロは自分を雇った人間が、自分が一時容疑者として取り調べを受けた事で用心深くなり、一転して自分を殺そうとしているのだ、と察している。そして、その黒幕を彼女が知っているのではないか、と推察している。



彼女は「真相を知りたい」という彼の言葉を受け流し、2時間以内に電話してちょうだい、と言う。コステロは言われた通りに電話をするが、彼女は鳴り続ける電話を無視して二階に上がってしまう。このピアノ弾きの黒人女性も、物静かでいながら妙に度胸が座っていて、暗黒街に繋がる夜の世界で生きる女の匂いが漂っている。銃口を向けられてもたじろがず、少し物憂げな表情で微笑むだけである。そうした女のありように、孤独なコステロの魂のどこかが感応したのか、彼は冷静に今回のトラブルにケリをつけたのち、ナイトクラブで今夜も演奏している彼女の元へ赴く…。


ワタシは「葉隠」を読んだ事がないので、ネットで資料を探したら、松岡正剛さんという人の読書ブログ「千夜千冊」に「葉隠」の興味深い解説があった。その記事に拠ると、「葉隠」には、忍ぶ恋について語られた部分があるという。忍ぶ恋とは永遠の片思いである。そしてそれは究極の恋愛である、と山本常朝は説いている、と。松岡氏は、永遠の片思いを存分に胸に秘められるという事が、武士道精神の秘密を解く鍵ではないか、と書いている。

「恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋の長けが低し。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ」(「葉隠」聞書二)。

これを読んで、ジェフ・コステロのあの最期は、この「忍ぶ恋」であったのではなかろうかと思った。ピアノ弾きの女は、彼を雇って殺そうとした黒幕の愛人である。いわば敵方の人間だ。彼女が警察に偽証をしたのも、コステロを庇ったのではなく、警察をいたずらに翻弄しようとしたのでもなく、コステロに殺しを依頼した側の内幕を知る人間として、彼の正体が露見し、彼に依頼した者が誰かまで手繰られる事を避けようとした、というのが実際的な理由であると思われる。けれど、物静かで、どこかで何か諦めたような、妙にたじろがない彼女の佇まいに惹かれるものを感じたコステロは、彼女の偽証にそうした理由だけではないものを見た、あるいは見たいと願ったのだろう。刺客を退けた彼に、その黒幕からの二度目の依頼が入る。それは他ならぬ彼女を殺して欲しいという依頼だった…。

かくしてコステロが選んだ結末こそはまさに「思ひ死にするこそ、恋の本意なれ」という事であるように思う。



全てがあまりにも侍とは程遠いと思って見ていた「サムライ」だが、ラストに至って鮮やかに「葉隠」の精神を踏襲してみせたとするならば、これはやはり、侍の映画と言わざるを得ないのかもしれない。

コメント

  • 2015/03/29 (Sun) 08:38

    この映画を観たのはかれこれ50年くらい前になりますか・・・。
    当時高校生だった私は学校の帰りによく道草をして映画をみたものです。
    当時は、圧倒的に、仏や伊映画が人気でした。
    代表的イケメン俳優アランドロン映画では、何故かこの「サムライ」、なかでも謎の黒人オルガン弾きの女優に凄く魅力を感じました。

    更に、
    『京都人の密かな愉しみ』も近年にない出来の作品で、何度見ても厭きません。

    有り難うございました。

  • 2015/03/29 (Sun) 18:24

    ractyanさん
    リアルタイムで映画館でご覧になったんですね。ワタシはこの辺の映画をリアルタイムで観た世代ではありませんで、のちにTV放映されたものを小学生〜中学生ごろに観た、という感じです。
    この頃のアラン・ドロンは日本では格別な人気があったんですよね。「サムライ」は、DVDかブルーレイは日本で出たのかな。いつまでも廃盤ではもったいないので復活させてほしいものです。

    「京都人の密かな愉しみ」は近年稀な傑作でしたよね。
    これからもアンテナを張って、いいもの、面白いものを逃さずチェックしていきたいと思っています。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する