映画や小説やドラマの中の「男の友情」



ワタシは小説でも映画でも、男の友情モノが何となく好きだ。男女の恋愛とかよりも男の友情のドラマに惹きつけられる。なぜだかは分らない。ただ、巷間言われているように、男と男の間にしかホンモノの友情は存在しないのではないか、という気が漠然とする。それもあるいは幻想かもしれないが、男同志の友情は、男が女に向ける愛とはまた別個に存在し、ある時は惚れた女よりも強固に男の人生を支配し、影響を及ぼすものだったりする。 というわけで今回は映画や小説に描かれた男の友情について。
男の友情に較べて、女同志の友情というものには幾分の胡散臭さを感じなくもない。女は自分と相手の状況が近い時だけ友情を感じるのだ、という説もあり、それも一理あると思う。そんなワタシは女の友情モノ映画である「テルマ&ルイーズ」があまり好きじゃないのだけど(あんな男好きのアホな友達と運命共同体になっても犬死にだ、と思ってしまう)、一方で業田良家の「自虐の詩」(竹書房)の主人公・幸江とその畏友・熊本さんの友情に妙な感銘を受けたりもした。幸江はともかくも堂々たる熊本さんのキャラクターに何かアッパレなものを感じたのは確かである。

女の友情はさておいて、今回のテーマは男の友情だが、ワタシがこのジャンルで初めて心に引っ掛かった映画は「ミラーズ・クロッシング」である。アメリカ東部の町での、アイリッシュとイタリアンの組織が対立する中、アイリッシュのボス・レオとその参謀トムの、中に一人の女を挟んだ緊張関係と底堅い友情が描かれた作品で、レオを演じたアルバート・フィニーも、トムを演じたガブリエル・バーンも、この作品からファンになった。金もなく、腕っぷしも強いわけではないが、心の中に譲れない核を持ち、さりげない顔でレオへの友情のために、彼と、惚れた女の元を去るトム。こういうやせ我慢がサマになるのも、やはり男同志の友情ならでは、ではあるまいか。




やせ我慢っぷりが印象的だったガブリエル・バーン

男同志の物語では勿論「ブロークバック・マウンテン」も挙げられるけれども、これは友情というよりは恋愛(それも純愛)なので、今回のテーマからは少し逸れる。

小説に現れた男の友情では、やはり「長い別れ(The Long Goodbye)」を挙げたい。昨今、久々にまた清水俊二訳(折々、村上春樹訳も)を読み返しているのだけど、やはり良い。とても良い。歯切れのいい訳文のリズムが心地よく染み入ってくる。あの文章のリズムというのは、チャンドラーの原文が持っているリズムなのだと思うけれど、一度捉えられると癖になるリズム感だ。
ふとした事から助けた礼儀正しい酔っ払いのテリーに不思議な魅力を感じたマーロウは、その後2ヶ月の間、数回逢って飲むうちに、テリーのあまり類のない型のプライドや人柄に親しみを深めていく。彼らは店を開けたばかりのバーで幾度か本場ものの英国式のギムレットを味わい、とりとめもない話をする。だが、ある朝、拳銃を持ったテリーがマーロウを訪れ、マズい事に巻き込まれたので国境の町まで連れていって欲しい、と頼む。マーロウは彼を送って行き、おそらくは無実の罪を被って国境の南へと去ったテリーを庇って、警察で尋問され、殴られても黙秘を貫く。そして数日後、テリーとおぼしき男が罪を認める遺書を遺して自殺した、と聞かされる。釈放されて家に戻ったマーロウの元に、高い稀少価値を持つ5000ドル紙幣を同封したテリーの手紙が届いていた。マーロウは長い間その手の切れそうな緑の紙幣を眺め、それからテリーの要望通りにバーボンをたらした珈琲を淹れ、煙草に火をつけて灰皿に置く…。遠く去った友達を一人静かに想うマーロウのありようがなんとも言えない。マーロウにとってのテリーは、どんな欠点があったにせよ、どうしても嫌いになれない人間だった。そんな相手に一体何人出会えるだろうか、と彼は思う。その後、別の依頼が舞いこみ、それが事件に発展していき、全く関係ない筈だったテリーの失踪と新たな事件には水面下で繋がりがあった事が分かる。そして全てが片付いて暫くしたある日、マーロウの事務所にマイオラノスと名乗る背の高いメキシコ人がやってくる…。

マーロウが友情を感じた相手は魂の抜けた男であり、結局その友情は幻に向けられていたのか…という苦い結末が待っているとしても、テリーが手紙で頼んだ通りに、供養代わりにマーロウが珈琲を淹れてやるシーンは何度読んでもじんわりとする。そして読者もマーロウ同様、テリーという男を嫌いになれないのだ。小説を最後まで読んでしまったあとでも。
前からしつこく書いているように、これをできる限り原作に忠実に、ベストのキャスティングで映画化したものを観たい、というのがワタシの年来の望みだ。そういえばクライヴ・オーウェンがマーロウ物の映画に出るという企画があったと思うのだが、どうやら企画倒れに終わったらしく雲散霧消してしまった。クライヴ・オーウェンも悪くないが、前に夢想していたようにダニエル・クレイグでも悪くないと思うし、今ならジョン・ハムのマーロウでもいいような気がする。ジョン・ハムは二枚目で、アゴも頑丈だし、ソフト帽を被って40年代のLAの探偵というのもサマになりそうではあるけれど、ただワタシ自身の好みからすると少し分かり易くハンサム過ぎるという感じはある。マーロウはハンサムではあるのだろうけど、個人的には、あまり絵に描いたような二枚目でない方が好ましいとは思う。


それなりにハマりそうなジョン・ハム

そしてもう一人、「長い別れ」においてはテリー・レノックスという人物が非常に重要なので、原作通りのキャラ設定で、ピッタリな人に演じてもらいたいわけなのだけど、「長身で、英国風のアクセントで話し、若いのに銀髪で、顔の片側に傷があり、抗いがたい魅力があるが人としての弱さや致命的な欠陥を内包する、どうしても嫌いになれない男」を演じるとしたら誰だろうか。UKの俳優が演じるのがベストだと思うけれど、はて、誰がいいかしらん。UK俳優ではこれという人を思いつけない。ワタシのイメージでは英国風とか長身という部分を抜きにすると、何となく嫌いになれない愛嬌のある点や、人としての弱さや、そこはかとなく自嘲的なほろにがさを醸し出せる俳優としてロバート・ダウニーJrあたり、ちょっと上品に演じれば案外悪くないような気がする。



「夢の女」アイリーンには、白痴美的なところを極力抑えてもっとクラス感を出せば、アンバー・ハードあたりが適任じゃなかろうかと思う。



あぁ、観たいな。ワタシのイメージに沿ったキャスティングで、原作通りの映画「ザ・ロング・グッドバイ」が。


さて、昨今気に入っている男の友情物語としては「ROME」がある。ドラマ全体としては男の友情は様々な要素のひとつであって、歴史のうねりの中での熾烈な権力闘争や男女間の愛憎ドロドロが、共和制が崩れて帝政が立ち上がる時期の古代ローマを背景に描かれているのだけど、そのドロドロの中を、ルキウス・ヴォレヌスとティトゥス・プッロという二人の兵士の友情が縦糸のように貫いているのが、このドラマのいいところなのだ。
そもそもは百人隊長と軍団兵という関係だった二人だが、カエサルの命令で共に鷲の旗印を探索に出た事から、二人の長い友情が始まる。頭はいいのだが真面目で融通が効かず、裏切りを絶対に許さない狭量なところのあるヴォレヌスと、楽天的で享楽的で骨の髄まで兵士であるプッロ。水と油ほども違う二人だが、共に何度も死線を潜るうちにいつしか、かけがえのない相棒になっていく。戦地での長い不在から戻った後で、妻としっくりいかないヴォレヌスのためにプッロが珍アドバイスをしたり、女奴隷に惚れて女房にしたいというプッロのために、ヴォレヌスが費用を出して保証人になってやったり、退役して食い詰め、殺し屋に成り下がったプッロが闘技場で精魂尽き果てて殺されかかった時には、矢も盾もたまらずヴォレヌスが飛び出して行って助けたり、また女房に自殺され、子供達も行方不明になって、心身共にボロボロになったヴォレヌスをプッロが献身的に支えたりと、とにかくもう、この二人の関係は波乱万丈でドラマティックである。



殊にも、プッロがヴォレヌスを案じる様子はとても一途で甲斐甲斐しい。抜け殻のようになり髭も伸び放題のヴォレヌスの髭を剃ってやるプッロの甲斐甲斐しさはどうであろうか。妻も子も失ってヤケクソなヴォレヌスに手を焼き、何度か喧嘩をし、彼の元を去っても、子供達が奴隷に売られて生きているという噂を聞きつけるや、ヴォレヌスに知らせに戻り、彼と共にその救出に向かうなど、プッロは献身的である。二人のうち、どちらが男として懐が深いかというと、それは断然ティトゥス・プッロの方だろう。ヴォレヌスは平穏な時は落ち着きのある賢いボスだが、精神的にささくれると陰険で気難しく残忍になり、さしものプッロも何度かお手上げになってしまうぐらいに扱いにくい存在になってしまう。でも、どんな態度を取られても、世迷言を言われても、プッロはヴォレヌスが好きなのである。奴隷上がりの妻が嫉妬するほどに、常にヴォレヌスの事を考えているのだ。子供達を奪回し、再びヴォレヌスに生き甲斐が出来た事を心底喜ぶプッロだが、母の死がヴォレヌスのせいだと恨んでいる娘ヴォレナは表面的には従順にヴォレヌスに従いつつ、彼への憎しみをふつふつとたぎらせている。そして、この娘は父親をこっぴどく裏切るのだ。娘の裏切りを知った傷心のヴォレヌスは再び軍籍に戻り、アントニウスについてエジプトへ行く決意をする。


別れのハグ

娘に裏切られたヴォレヌスを痛ましげにみつめるプッロ。レイ・スティーブンソンは目がいい俳優なので、どのシーンでも彼の表情には目元に魅力がある。妻に自殺されて腑抜けたヴォレヌスに、葬式をちゃんと出さなくちゃ、とプッロがせつせつと説得するシーンでは、茫然と座ったままのヴォレヌスの額に自分の額をつけて「ニオベはちゃんと送りださないと!」とヴォレヌスをみつめる。一生懸命な感じが良い。



二人ともホモッ気は微塵もないが、嬉しい時や別れの時には、額と額をくっつけたりして親愛の情の表現は時に親密だ。女は恋愛の対象として別枠で存在しており、二人の友情の間には何者も割り入る事はできないのだ。例えば兵士仲間のマスキウスがどんなに実のある良い奴であっても、ヴォレヌスとプッロの間に入る事はできない。彼は常に3番手としての存在に甘んじるしかないのである。

ヴォレヌスとプッロのキャラがとても生きているので「ROME」は好ましいドラマになっているのだが、ドロドロな部分はあるとしても、他のどのキャラもくっきりとして、よく描かれているので見ていて飽きない。シーズン1では少年だったオクタヴィアヌスがシーズン2では青年になり、老獪な政治力と冷静な知略と決断力、および他人の人生を駒のように操る冷酷さに磨きをかけて登場し、その怪物っぷりがいかにもそれらしくてニヤニヤする。対して、けっこうクセモノではあるのに、怪物度と冷静さにおいてオクタヴィアヌスに劣るアントニウス。女のイヤな面をテンコモリに持っている女でありながら、アントニウスには本気で惚れているアティア。最初は母アティアに、のちには弟オクタヴィアヌスにいいように利用されるふらふら坊主のオクタヴィア、健康優良児みたいに栄養が行き届いて丸々したアグリッパ、そして野心家の危険なジャンキー、クレオパトラ…。
見る気もなしに録画してたまたま1話目を見たら、意外に面白かったので毎回録画して見てきた「ROME」も来週遂に最終回が放映される。全く期待していなかったけれど、意外に面白くて拾い物だった。ドラマ全体も面白いのだが、やはり軸になるのはヴォレヌスとプッロの波乱の人生と固い友情である。おそらくは死が二人をわかつまで続くであろう二人の友情をどう描ききるのか、最終回まできっちりと見届けようと思っている。

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