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「J・エドガー」 (J. EDGAR)

-映画は事実に追いつけない-
2011年 米 クリント・イーストウッド監督



この映画が撮られていると去年聞いた時、主演がデカプーというのもウ~ム、と思ったのだけど、それ以上に監督がイーストウッドという事に、ウ~ムと思った。でも、フーバーはあまりにも興味深い人物なので、彼と彼の生きた時代を描くなら、どう転んでも退屈な出来にはなるまいと思って観に行く事にした。 …が、しかし。
フーバーについて全く何も知らなかった人が観ればそれなりに「へぇ~」という事もあったのかもしれないが、人物としてのアウトラインを知っていて観ると、この映画はただのフィルムと予算の無駄使いとしか思われない。ワタシがフーバーについてざっくりとその人生と人物を知ったのは20年ほど前に観た民放のドキュメンタリー番組だったが、非常に面白く興味深い人物だという印象が強く残った。次いで、数年前にナショジオで流れたバイオグラフィは更に興味深い内容で、このフーバーに関するドキュメンタリーがあまりにも面白かったので、フーバーを映画にするなら観てみなきゃ、という気になってしまったわけである。



30歳でFBIという組織を作り上げ、そのトップに座って、なまくらだった組織を改革し、局員を精査し、科学捜査を取り入れ、州を跨いで法を執行できる権限を手に入れた。FBI設立当初は、有能な長官だった。ルーズベルトの時代に、戦時中という事もあり、盗聴と監視を許可されたフーバーは、以降、その権限を自分のために行使した。誰でも思いどおりに盗聴し、自分と敵対しそうな相手の弱点を握っては、巧みにそれをちらつかせて自分と自分の立場を守り続けた。フーバーは悪辣なパグみたいな顔をした、たちの悪い恐喝屋だった。常に他人の金で食事をし、納税者の税金で毎年自宅をリフォームしていた。そんな彼はマザーズボーイで、女装癖のあるゲイだった。しかも病的なギャンブル好きで、競馬ではマフィアに勝ち馬を教わって儲けさせてもらっていた。

かように、自分が人に隠さねばならぬ事をイヤというほど持っていたので、他人の秘密に敏感だった。自らもゲイでありながら、FBIとしては同性愛者を弾圧した。何人もの大統領が彼を排除しようとしたが、彼の「極秘ファイル」の威力の前になすすべもなく手を拱いているしかなかった。無防備で不用意で病的な女好きのケネディなどは、気づかぬうちにフーバーに山のような材料を提供してしまっていたので、どんなに邪魔でもこの癌を取り除く事ができなかった。
こんな男がなぜ40年以上もFBI長官の座に居座って、暗殺もされず、失脚もせずに、ある日、年老いて自宅で頓死するまで長官でいられたのかといえば、それは臆病さと用心深さから来る絶妙のバランス感覚のなせる技ではないかと思う。彼はマフィアには手を出さなかった。あれほどまでに正義を振りかざし、FBIの宣伝には貪欲だった男が、マフィアという組織犯罪集団の存在はガンとして認めようとしなかった。マフィアにはギャンブルで世話になっていたし、組織犯罪を取り締まる事など不可能だと思っていた。マフィアを守る事は自らを守る事でもあった。



というわけで、1920年代から1970年代というアメリカ20世紀のもっともミッドに20世紀らしい時代をFBI長官として、その裏表の乖離した、秘密の多い、毀誉褒貶の激しい人生を生きた男、J・エドガー・フーバーは、実に陰翳に富んだ面白い人物である。面白いというよりも興味深いという方が正解だろう。ワタシは常々、なんであんな事をやっていながら、のうのうと死ぬまで長官でいられたのだろうと不思議でしょうがなかったのだけど、マフィアに手を出さなかったからであるということを、ナショジオで見たバイオグラフィが教えてくれた。上記の事は全て、そのバイオグラフィを見て知ったのである。こんなに興味深い人物を描いているのに、この映画「J・エドガー」の平板さ、凡庸さ、救いがたい退屈さは一体どうした事だろうか。とにかく、浅く総花的に、フーバーって、こんな事もあったし、あんな時代も生きたし、こんな人物とも争っていたんだよね、みたいな事をとりあえず並べ立てただけ、である。フーバーを描く事によってイーストウッドが何を描こうとしたのかがまるで伝わってこない。フーバーのどこに焦点を絞って、彼のどんな部分を掘り下げたいのかを明確にして、もっと抉り込まなければならないのに、山もなく谷もなく、ただダラダラと話が流れていくだけで、ワタシはあまりの退屈さに途中、居眠りをしてしまった。

本作で唯一良かったのは、フーバーの終生の愛人だったFBI副長官クライド・トルソンを演じたアーミー・ハマーで、ハンサムだけどデクノボウ、というイメージのあった俳優だけれども、優美でしなやかなゲイとしての若き日のトルソンと、老いて発作を起してヨレヨレになったトルソンを自然に、鮮やかに演じわけていて、意外にお上手なのね、と関心した。映画としても一番良かったのは、フーバーが世間の目を気にして、そろそろ身を固めようかと思う、と言い、トルソンがそれを聞いて怒り、2人が痴話ゲンカのような事になるシーンで、全編を通じてこのシーンだけが印象的で、映画としても最良のポイントだった。それ以外は、浅く、しまりなく、ダラダラとその表層をなぞっただけのような伝記ドラマがただ平板に流れていくだけである。フーバーのような幾らでも描きこめる人物をテーマに持ってきていながら、どうしてこんな締りのない事になってしまうのだろうか。


トルソンを演じたアーミー・ハマー(中央)


実際のトルソン(左)とフーバー いつも一緒だった

ワタシは、俳優(ことにスターとしての)クリント・イーストウッドはキラキラしい存在だと思う。才能もあると思うのだけど、監督としては、世間が(ことにアメリカで)もてはやすほどには才気を感じない。前にも書いたけれども、スターでありつつ監督として成功している人物としては、ロバート・レッドフォードの方が、映画監督として数段才能があると思う。(俳優としてはイーストウッドの方が断然好きだけれども)イーストウッドは人気があるために、実際よりも評判が高くなりすぎて、もはや実体と乖離してしまっていると思う。殊にこの数年はヤキが廻ったとしか思えないユルい映画が多くなり、気合を入れたはずの本作でも、こんな凡庸な出来では、もう誰かが肩を叩いてあげるべきじゃないかと思う。

主演のディカプリオも、普通に素で出ていると、若い頃と較べて人相が悪くなったなぁと思ったリするのだけど、フーバーを演じるにはまだまだ妙に童顔でアクが足りず、本人はきっと頑張っていたのだろうが中途半端な印象しかなかった。
ワタシがフーバーと双璧かそれ以上に興味深いと思っている人物にハワード・ヒューズがいる。この人も、とにかくあまりにも独創的な人物なので、映画にしたらさぞ面白いだろうとずっと思っていた。だから「アビエイター」が出来た時は楽しみにして劇場に行ったのだが、非常に消化不良なガックリ感とともに劇場を後にした。物足りない。掘り下げが足りない。あんなに面白い人物を扱っているのに、どうしてこんな映画しか作れないのだろうと首を傾げた。思うに、実物があまりに面白すぎると事実がフィクションを凌駕して、映画が対象人物の実人生に追いつけない、という事が起きるのかもしれない。実在の人物の半生を描いた映画の最高峰といえば「アラビアのロレンス」ではないかと思うけれども、あそこまでのクォリティじゃなくてもいいので、ハワード・ヒューズとエドガー・フーバーについては、もう少し陰翳の深い、出来のいい映画を観たいと思う。ちなみに「アビエイター」も「J・エドガー」も主役を演じたのがレオナルド・ディカプリオであるというのは、単なる偶然だろうか。それとも…。



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