「薬指の標本」

~引き返せない恍惚~
2004年 仏 ディアーヌ・ベルトラン 監督



全く知らなかった映画だったが、「カポーティ」を借りに行って、新作の棚に並んでいたパッケージがふと気になってついでに借りてきた作品。でも、パッケージからイメージした通りの作品で、不思議な世界に誘われた。小川洋子の原作を読んだフランスの女性監督が映画化した作品ということなのだが、まさにそんな雰囲気が横溢している。映画にはその作品の持っている"空気感"というものがあると思うのだけど、これが好きか嫌いかで、その作品について印象が変って来ると思う。始まった瞬間からワタシはこの映画の持つ独特の空気感が心地よかった。
ひっそりと静かで、しんと美しく、秘められた世界を覗き見るような空気がにじんでいる。冒頭、主人公のイリス(オルガ・キュリレンコ)が働くサイダー工場で、くるくるとベルトコンベアを回っていく空のガラス壜が映るのだが、微かな音を立てながら整列して並んでいくガラス壜を見ているだけで、何かふーっと映像世界の中に入っていく感じである。彼女はうっかりして生産ラインで薬指の先を切り、その小さな破片が壜の中に入る。その上にサイダーが注がれて赤い発砲飲料が1本できる。象徴的なシーンである。彼女は工場をやめ、港の傍の小さなホテルに宿をみつける。夜間は港のドックで働いている男と部屋をシェアするという形である。彼女は渡し舟で対岸に渡り、ひっそりと建つ不思議な建物に吸い寄せられるように近づく。その扉には「標本作成の助手を募集中」という張り紙がしてある。そこはあらゆるものを標本にすることを請け負うラボだった。迷わず呼び鈴を鳴らす彼女の前に現われたのは白衣の男(マルク・バルベ)。男は標本技師で、依頼人の受付をしてくれればサイダー工場の25%UPの給料をくれるという。この男の元で毎日仕事をするうちにある日、彼女は足にぴったりと合った美しい靴をプレゼントされる。その靴をいつも穿いていてくれ、と技師に依頼され、彼女は毎日その靴を穿いてラボに通う。サイダー工場にいた時は垢抜けない姿だったイリスは次第に服装も垢抜け、美しくなっていく。



ひっそりとしたラボと、その空間が生み出す空気に、フランス語のセリフが非常にマッチしている。これは英語でもないしイタリア語でもない。まさにフランス語の世界である。フォニョフォフォフォと耳をなでてくるあの隠微な発音が映画の世界観にピッタリなのである。

また、謎の標本技師を演じるマルク・バルベがとてもいい。別にタイプじゃいのだが、じっとみつめられて、囁くようなフランス語で指図されたら催眠術にかかったように言うことをきいてしまいそうである。



この建物には技師と彼女の他に、かつてその建物が女子寮だった時代から住んでいる老女が二人居る。そして、地下には今はもう使われていないタイルばりのシャワールームがある。技師はある日そこにイリスを誘い、靴をさしだしてこれを君にあげよう、と言うのである。このブルーのタイルの貼られた浴室がひんやりとして美しく、彼女の足に靴を穿かせるシーンが非常にエロティック。この靴がまた色といい、足首に巻く紐の形といい、とても洗練されている。サイズはぴったり。「なぜ分るの?」という彼女に技師は「私は標本技師だからね。見ただけで分るんだよ」と答える。

靴を貰ってから、技師と彼女の間には段々にエロティックな空気がまとわり始める。雨の日に濡れた彼女がやってくると技師が彼女をタオルで拭くのだが、このじっとりとタオルで彼女を拭いていく手つきや、また首筋や髪をぬぐわれて恍惚となるイリスの表情が暗示的である。これらは全て地下のひんやりとしたシャワールームで行われる。ここは二人の秘め事の場なのである。
そんなある日ラボに、飼っていた文鳥の骨を標本にしてほしいと靴磨きの男がやってくる。彼は彼女の靴を見て「いい靴だが、穿き過ぎてはいけない。足を失うことになるよ」と言う。このレゲエのおじさん風の靴磨きのオッサンがまたいい味である。

イリスと部屋をシェアしているドックの男が段々とすれ違い生活ながら彼女に興味を持ち、一度逢いたいという手紙を部屋に残しておく。彼女も彼には関心があったので指定された時間に指定されたバーに行ってみるのだが、彼はちょうど女に戯れかけられているところで間が悪く彼女はそれを見てしまった。イリスはそのまま立ち去る。が、それが原因というよりもイリスは既に技師に魅入られているので他に気持ちが向かなくなっているのである。ここで浮世の男に目を向けるチャンスもあったのだが、靴で虜にされた彼女は引き返せない道へと吸い寄せられるように進んでいくのである…。

靴磨きの男に「靴をくれた男を愛して居るのか?」と訊かれて「わからない、でも離れられないの」と答えるイリス。まさに愛しているわけじゃないが、離れられない、という感じが伝わってくる。それが恍惚世界に捕らわれた人の本音なのだろう。そういえば靴というのは何かの象徴だったっけ。そして女子寮にずっと住んだまま枯れてしまった老女たちは、標本にされそこねて枯れてしまったかのようでもある。

モデル出身なのでスタイルがいいのは勿論だが、オルガは独特の色気があって物語に合っていた。こんなラボに迷い込んで不思議な体験をしてみたいと思わせるだけでも成功ではなかろうか。原作は日本語でも、この世界はフランス語の世界だと思うし、日本で映画化されなくて正解だったと思う。思いがけず静かで不思議な恍惚世界を味わった。小川洋子はまだ1冊も読んだことはないのだけど、このへんから読んでみようかと思う。映画の世界観としては「ユメノ銀河」をちらと思いだした。

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