「ヤング≒アダルト」(YOUNG ADULT)

-生涯オトナ未満-
2011年 米 ジェイソン・ライトマン監督



ジェイソン・ライトマン監督作はとにかく新作が封切られたら観に行く事にしている作品である上に、今回はシャーリーズ・セロンもかなり頑張っているとのことなので、今週の水曜は何をチョイスするべきかちょっと迷った末に「ヤング≒アダルト」を観ることにした。余談ながら、本編に先立つ予告編タイムで、映画館で初めて「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」の予告編を見た。あぁ、近づいてきたのだねぇ、と実感。…にしても妙な邦題をつけたものである。オリジナルそのままのタイトルで全然無問題なのにね。
さて。
ジェイソン・ライトマンはこれまでの監督作どれもがピリリと皮肉と風刺が効いていて、それをユーモアでくるんだ独特の味があり、過去3作はどれも好きである。今回は30代後半でバツイチだというのに昔の自分と昔の男に執着して故郷でイタイタしい騒動を起す女を描いている。

冒頭、TVをつけっぱなしでベッドにうつ伏せに倒れ込んだまま眠り、そのままの格好で目覚めたという感じの主人公メイビス。彼女が起き上がってものぐさそうに歯を磨きながらヌーブラをTシャツの下でぺりぺりと剥ぎとり、飼っている小犬(ドルチェとかいう痛い名前をつけている)をベランダに出して餌を与え、自分もジャンクフードのようなものを食べる。その冒頭のシーンだけで、彼女の現在のささくれた生活、ささくれた性格が浮き彫りにされている。高層マンションのベランダから街を眺めるメイビスのショットに、彼女の孤独感がありありと出ていた。

シャーリーズ・セロンは、ただのキレイキレイの美人女優として存在する事を望まず、体重を増やして汚れ役を演じたり、演技派系の役柄にチャレンジしたり、とにかくただの美人女優で終わらない為に奮闘してきた人。それゆえ今回、外見的には何もいじらないままなのに見事にヨゴレの女を演じ切った事は、本人的にはとても満足しているのではなかろうかと推察する次第。実際、そのファッションモデルのようなプロポーションやブロンドにも関らず、本作のシャーリーズ・セロンは全く綺麗に見えなかった。ぼさぼさ髪で眉や目などがきつく、全体にささくれた様子は、一時期のミッシェル・ファイファーを想起させる(20年前だったらミッシェル・ファイファーがメイビスを演じたかもしれない)。主人公メイビスは、ヤングアダルト向けのロマンス小説(日本でいうとジュブナイル小説っていうんでしたっけ?)のゴーストライターを生業としている女。ミネソタの奥地から出て、今はミネソタの都市ミネアポリスに住んでいる。本は売れてドラマにもなっているが、原案を出した人間のゴーストライターなので、表だって有名人というわけではなく、しかし締め切りには追われている。一応、仕事をしようかと数行打ち込んだところで集中力が切れ、メールボックスを覗いたら、高校時代の彼氏が「父親になった」と子供の写真を添付し、その誕生祝いパーティへの招待状を寄越していた。子供の写真をついプリントアウトしてしまうメイビスだが、プリンターがインク切れですぐに印刷できない。どうするのかと思いきや、インクのカートリッジを取り出してその上にツバキを垂らしてインクを伸ばし、強引に印刷するのであった。とんだツバキ姫である。(あんな事で印刷できるとは知らなかった。知ったからって別にやろうとは思わないけれども…)このあたりも、かなりイタイタしい感じ横溢のシャーリーズ・セロン。さすが演技派志向だけあって、家では不精たらしくトレーナーを着て、ズボラで横着な女の雰囲気がよく出ている。



なんのかのとケチをつけつつも、故郷で青春時代に付き合っていた彼氏が幸せな結婚生活をしていると知ってから、妙にギアが入ってしまったものか、メイビスは旅支度をして小犬のドルチェを小さなボストンバッグに入れ、車で故郷の田舎町に帰る。彼女は何と、父親になったばかりのかつてのボーイフレンド、バディに妻子を捨てさせ、自分とヨリを戻させようと身勝手な願望を募らせていたのだった…。

というわけで、メイビスはミニを運転して故郷に戻る間中、バディとの想い出の曲をカセットテープで(カセットテープというところがミソか)ヘビー・ローテする。執着心の強さを示している感じである。しかし、彼女は都会に出て、とりあえず仕事もして、ちょこっとは金も稼いで、一度は結婚もしたわけだから、それまでの人生を、ずっとバディの事を思い続けてきたわけではないのである。大体、田舎町で満足していてウダツの上がらない男だから別れて出て来たのだろうに、仕事もなんだか行き詰まりを感じるし、ラブライフもイマイチ以下という現状ゆえにか、子供の写真を見せられた途端に、この人は私の運命の人だったのよ。きっとやりなおせるわ、なんて一人で勝手に盛り上がって故郷に帰るというのがかなり唐突な感じはした。そこがオトナになりきれない女のゆえんであるということか。メイビスは極端な例だとしても、人間、なかなか年相応にオトナになる、というのは難しい事ではある。ワタシなどもいい年だというのに、なかなか大人らしく振舞えない、「大人未満(大人失格?)組」であろうかと思う。

また、今の30代、40代と30年前の30代、40代では確実に大人度が段違い並行棒だという気がする。外見的にも昔と今とで、30代も40代もかなり違うと思うけれども、昔よりずっと外見が若い分、中身もそれとシンクロして熟成するのが遅れているという傾向は一般的にあると思う。メイビスの場合は、昔ハイスクール・クイーンだったりして、なまじ美人だったためにスポイルされてきた結果、どうにもならない程自分に甘くなってしまっているのだが(こういう人は結構居る気がする。物事に対する感覚や、化粧法や服装なども、自分がイケてたと思う過去の時代のままずっと止まってしまっている人などである)、それゆえに田舎で赤っ恥をかいてもあまり反省の色もなく、いっかな悟らず、バディだけは吹っ切ったものの、今後も違う相手に同じ事を繰り返して行くんじゃないかなという感じがするのだけど、なにやら薄暗いトンネルではある。

この故郷の町で、そこにいるかとも思わなかった昔の同級生マットにも再会するメイビス。ゲイと間違われて数人に暴力をふるわれ、杖なしでは歩けなくなった上に色々な障害も抱える事になってしまったという気の毒なマットを演じるパットン・オズワルトがいい味を出していた。でぶちんのおタクだが、昔の憧れの彼女のイタイタしい現在の姿や、その身勝手な計画を知り、やれやれと思いつつ見守っている様子がけなげだった。彼が登場してセリフを言うたびに劇場が笑いに包まれていた。
また、故郷に帰ったのに実家にも顔を出さないメイビスが、ホテルにチェックインする時の無愛想なカウンターの女性とのやり取りも笑える。



メイビスの元彼バディを演じるパトリック・ウィルソンも自然に役どころを演じていた。気の良い元彼、という感じで茫洋とした雰囲気もはまっていたと思う。ただ、大昔の彼女で、いまはほとんど交流もないのに今更のように子供の写真など送りつけて誕生祝いに招こうというのは、やはりこいつも変な奴ではある。どうせ来ないだろうと思ったのだろうが、余計な事をするから子供の誕生会も台無しになってしまったりするわけである。



また、いかに大評判でドラマになったものでも、流行りすたりの激しい業界なので、故郷の田舎町の本屋でさえ、今は「在庫整理」に彼女の本を平積みしていて、「ドラマも終わったし、もう売れませんよ」と店員がアッサリと言うシーンがリアルだった。私はゴーストだけど著者だからサインをしてやる、と強引に1冊サインするメイビスに、返本できないからダメだと断る店員。確か有名作家のサインでも、ただのサインだけだとあまり価値はないらしいような事を前にお宝鑑定番組で言っていたような気がする。ましてやメイビスのサインなど、ただのヨゴレってことなのだ。商品を汚しちゃいけません。

また、ティーン向けの小説を書いている、というメイビスに、オタクのマットが「ヴァンパイアもの?」と突っ込むシーンも受けていた。全米でヒステリックなまでのブームを巻き起こした、例のシリーズへの皮肉である。

部分的には面白かったし、キャスティングも1時間半程度の尺も、ちょうど頃合な感じではあるのだけど、お話は終始、予定調和な、というか、予想された展開で、ジェイソン・ライトマン作品としては些か平板な印象だったのはワタシだけだろうか。もう少し捻りがあるかと思っていたら、あら、やっぱりそんな感じで終わっちゃったのね、というラストで、些か物足りない気味もあった。彼の監督作としては、やはり前作の「マイレージ・マイライフ」の方が断然面白かったし、色々と考えさせられた気がする。本作に限っていうと、こういう題材なら、日本のドラマなんかの方が、もっと痛いところをえぐり出して面白く描くんじゃないかしらね、という気がした。ただ、シャーリーズ・セロンは本当に、そういう女がそこにいるような感じがして上手いなぁと改めて思った。ライトマン作品常連のJ・K・シモンズが、今回は声だけで出演していた。

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