「SHAME -シェイム-」

-そして、いずこへ?-
2011年 英 スティーヴ・マックィーン監督



早くも3月が来て、「SHAME」も封切られた。毎年思うのだけど、本当に年明けから3月までというのは早い。あっという間である。昨年秋に「SHAME」の封切りが楽しみだと思ってから、いくらも経たずに3月が来たという気がする。
これは出来れば映画館じゃなく自宅で観たいタイプの映画ではあるけれど、今現在は他に観る方法がないのでシアターで観賞してきた。行きつけでない劇場は行くのが面倒くさい。そして未だに段差の浅い床だったりすると前の人の頭が邪魔で気が散ったりする。あぁ、うちで何にも煩わされずに観たい。 …ワタシってつくづくと映画館のキライな映画好きである。
マイケル・ファスベンダー演じるブランドンは、女はみんな彼に好感を持たずにいられないような男前である上に、仕事もいい調子だし、一人で高層マンションに住み、そのキレイさっぱりと片付いた、というか、あまり物のない無機的な部屋で、時には素人、時には玄人、またヒマさえあれば一人で、と四六時中、発情生活を送っている男である。その場限り、一夜限りの夜を毎夜毎夜過ごしつつ、それでも仕事には成果を出し、しかしながら会社のPCも自宅のPCもポルノ画像や動画三昧という有様だ。



ファスベンダーの痩せた、骨ばった体つきが、そういう生活を送っている男の空気を如実に伝えて来る。全体に薄いグリーンのフィルターのかかった画面の中で、床も壁も白い無機質な部屋を裸でぺたぺたと歩くブランドン。その部屋とよく似合うグレン・グールドのピアノ。本人は満ち足りた日々を過ごしているようだが、冒頭から既にして何やら肌寒いものを感じさせる。無視しても無視しても、からみつく蜘蛛の糸のように粘った妹の声が留守電に残されている。ブランドンは電話に出ない。留守電も最後まで聞かない。妹にウンザリしている様子はアリアリと出ている。だが、妹は諦めない。



地下鉄で通勤するブランドンだが、車内で少し興味の湧く女がいると、それとなく彼女を眺め続ける。無言の誘いである。女の方も相手が男前なので見つめられて悪い気はしないが、さすがに降りる時に、自分が降りる駅でもないだろうに背後にピタっと着いて降りてきて、獲物を狙うハンターのように後を追ってこられると逃げ足になる。ハンターは敢無く地下鉄構内の人ごみの中に獲物を取り逃がし、また電車に乗るためにホームへの階段を降りて行く。 このシークェンスに、いかなる時にもチャンスを逃さないように、刹那に生きる男ブランドンのありようが伝わってくる。


女を裸にする視線


心惹かれるものはあるけれど…という地下鉄の女

余談だが、かなり前に上司だった人で、ワタシは好みじゃないので仕事以外では関わらないようにしていたが、とにかく男前でモテモテの遊び人であるという男性がいた。この人が、ある時飲み会の席で話していた過去の色事のひとつに、帰りの電車の中で、向い側に座っている見知らぬ女性と目が合い、幾度か視線を交わすうちにアイコンタクトで意思の疎通を図り、一言も発せずして、次の駅で二人とも電車を降りてそのまま駅の近くのホテルに直行した、という逸話があった。地下鉄のシーンを観ていてふいにその話を思い出した。…あの上司も依存症だったのかしらん、なんて(笑)

とにかく、そんな風に、とりとめもなく毎夜、無意味に放出しながら特に虚しいとも思わず過ごしていたブランドンの部屋に、ある日、実力行使で妹シシーが転がり込んでくる。このところ話題の映画には必ず出ている観のあるキャリー・マリガンである。「私、太った?」と兄に訊くシーンがあるが、キャリー・マリガン的にはやや増量している気配で、顔も体も、よく見たらかなり肉がついていた。
本作はマイケル・ファスベンダーの演技が高く評価されているけれども、ベタベタと相手に依存し、上手くいかないと自傷行為を繰り返す妹を演じるキャリー・マリガンのお騒がせなダメキャラっぷりもかなりの好演だったと思う。まるで地のようにダメな人っぷりがハマっていた。やはり上手い女優ということなのだろう。不精をして、染めたブロンドの根元から黒い毛がかなり伸びているのも、この妹らしいだらしなさがにじみでていたと思う。少し太ったのも役作りではないだろうか。



兄も妹も、心に何をもってしても塞げない空洞を抱えているのは同様なのだが、それを束の間埋めるための方便が違う。兄は相手に心など求めず、ひたすらに肉体的な快楽のみを追い求めて性依存症となり、妹は恋愛という妄想に依存して、ただ暑苦しく、重苦しくすがりつくので、無論相手には鬱陶しがられて長続きはしない。この兄と妹が過去に何かあったであろう事は妹から粘着質な留守電が入ったあたりですぐに察しがつく。多分、妹の方が何か辛い事があった時に泣いて甘えて兄にしがみついて、そういう事になってしまったのだろう。
兄妹の過去に何があったのか…。この兄妹はどんな家庭で育ったのか。全ての根源はそこにあるに違いない。何が彼らをそうさせたのか。こんな二人に誰がしたのか?

妹はシンガーで、夜景のきれいな最上階のラウンジなどで歌っている。「ステージを聴きにきて」と妹に頼まれて、しぶしぶながら上司を連れて妹が歌う店に行ったブランドンだが、妹が独特の間で歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」を聴きつつ、彼の目のふちにはいつしか涙がにじみ、頬を伝う。その歌に籠められた妹の想いは、兄の想いでもあったろうか。何を求めてニューヨークに来たのか。ニューヨークに来るまで、どこでどんな人生を送ってきたのか…。妹を疎ましく思いながらも、同じ過去の痛みを分かち合ってきた相手として、やはりシンパシーを持たないわけにはいかない兄。





二人がどんな家庭に育って、どういう経緯を経て、二人ともに、こんなにまで損なわれてしまったのか、映画は彼らの過去を一切語らない。ただ、二人の間に過去に肉体関係があった事、そして妹が兄に言う「私たちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ」という言葉だけが唯一の手がかりだ。


映画の後半で、兄は酒場で近寄ってきた見知らぬ女に、いつものように誘いをかけ、女は店に彼氏と来ていながら、誘惑されたがっている。しかし女の彼氏が現れ、結局ブランドンは殴られるのだが、その後、深夜の街を彷徨うブランドンは、町角でじっと自分をみつめる男の視線を振りきろうとしても振り切れず、結局はその男の後をついて、ハスラー達の集う店に入り、そのいきずりの男と奥の小部屋に入ってしまう。このシーンが意味するものは何であろうか。ワタシが漠然と思ったのは、多分、ブランドンは少年期に父親に性的虐待を受けた過去があるのではなかろうかという事である。そして、それは妹も同様であるのかもしれない。憶測に過ぎないが、可能性はなきにしもあらずだろう。
その後、更にブランドンはプロの女たちのところへ行き、夜が白々と明けるまで、それこそ精魂尽き果てよとばかりに性行為に没頭するのだが、快楽に溺れている筈のブランドンの顔は、まさに海に溺れていく人のように苦しげに歪み、根深い疲れと果てしもない虚無だけを湛えている。何をどうしようとも、その場限りの虚しさの海に溺れていくしかない人のSOSが、その表情に浮かんでいた。埋まらない空虚を抱える事の闇が、ありありと伝わってきた。



***
ラスト、紆余曲折の末に、この世の果てでも見たように疲労の色濃いブランドンが地下鉄に乗っていると、そこに映画の前半で登場した地下鉄の女が、もう一度同じ時間、同じ車両に乗り合わせている。彼女は既に彼に気づいていて、このほどは、すっかりと媚びた笑顔を浮かべ、その気満々であるらしい。だがブランドンはもう、前のブランドンではない。女の媚びた笑顔を疲れたまなざしで見返すだけだ。もう、前のように女の後を追う気はなさそうに見える。…だが、じっと女を見やりながら、ブランドンの目の表情がかすかに変わって来る。何かが微妙に変化してきている。駅が近づき、女は降りるために席を立った。ブランドンは立ち上がって女に続いて降りるのか、それとも女をやり過ごしてそのまま自分の駅まで乗っていくのか…。映画はどちらとも示さぬまま、ブランドンのアップでパっと幕切れになる。あれだけ行為の虚しさや自分と妹の過去の重さ、自分の恥を痛感してもなお、またしても以前の生活に戻っていくのか、それとも別な生き方へと向うのかは、それぞれ観客の想像に委ねられている。
ワタシはどう感じたか。…ブランドンは女の後をついて、自分の駅ではない駅で地下鉄を降りてしまっただろうと思う。兄もそうやって懲りなければ、妹もまた、何かうまくいかないと兄に甘えてすがりつき、挙句の果てには見えすいた自傷行為を繰り返して手首に傷を増やしていくに違いない。そうして夜から朝へと虚しくさすらいながら、この兄と妹はどこへ行くのだろうか…。行き着く果てはあるのだろうか…。



キャリー・マリガンがピアノの伴奏で物憂いヴォーカルを聴かせる「ニューヨーク・ニューヨーク」は、この映画の見所の1つだろう。もっと上手く歌おうと思えば歌えるのだろうけれども、あえて技巧を弄さずに、声と間合いだけである世界観を現出させる事に成功している。聴いているうちに目に涙をにじませるマイケル・ファスベンダーの表情ともども忘れがたいシーンである。
キャリー・マリガンの歌声を聴きつつ、なぜかワタシは「アニー・ホール」でのダイアン・キートンの歌声を何となく思い出したりした。

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