kiki的上海エトランゼ その3

-幻影的上海-



ワタシが久しい前から一度行ってみたいと思っていた上海のスポットに「大世界(ダーズージェ)」というところがあった。ここは戦前に有名だった上海市民の娯楽場で、映画、演劇、演芸、軽業、手品、遊技場、賭博場などが入っていた。ダンスホールや鏡の迷路などもあったという。千人ぐらい収容できる京劇の劇場もあったらしい。マルレーネ・ディートリッヒの初期傑作群の監督として有名なジョセフ・フォン・スタンバーグも戦前の上海で、この大世界(Great World)で夜明かしして遊んだようだ。
彼が上海を訪れたのは、ディートリッヒとのコンビを解消した1930年代の半ばごろ。人でごった返す「大世界」を1フロアずつ上って見物したスタンバーグは屋上まで上がって、いざ降りようとすると下から昇ってくる人々で降りる事ができず、屋根伝いに路上に飛び降りたらしい。共産体制になってのちは、かつての不夜城「大世界」は上海市青年宮(!)と名を変えて健全な娯楽の殿堂になっていたが、いわゆる浅草六区のようなもので時代の流れに次第に取り残され、客足が悪くなり、1990年に営業を中止した。現在は建物だけが残されていて、何かに再利用されるのかなどは不明だが、建物は重要文化財として保存されることが決まっているらしい。


建物だけが辛うじて残っている大世界(2011年)

「大世界」は宿泊先のホテルからひと駅先で近かったのだけれど、建物だけが辛うじて残ったかつての不夜城の抜け殻のような姿を見るのも何やら気が進まず、友にわざわざ営業もしていないかつての娯楽場に寄りたいとも言い出しにくかったので、「大世界」は見ないでおくことにした。

ホテルを出てバンド(外灘)方面に向って歩き出すと、すぐに上海第一の繁華街、南京路(南京東路)に入る。ここはもう、なんというか、新宿東口のような感じで、人が多くてワヤワヤしている。新しいショッピングビル、ブランド店、チェーン店に混ざって、昔からあるのだろう中華系のデパートに、土産物店や宝飾店、漢方薬品店、飲食店などが並んでいる。南京路は戦前から上海で一番の繁華街で、永安公司というデパートとその向いの東亜飯店は昔の南京路の写真にもよく登場しているが、今日もまだそのままの姿で残っており、健在だ。南京路は東西に長い大通りで、人民広場を境にバンドに向うのが南京東路、奥まった静安寺の方に向うのが南京西路である。


南京路に戦前と変わらぬ姿で建っている東亜飯店

泊まろうかどうしようかと迷ったが、今回は見送った和平飯店北楼(現フェアモント・ピース・ホテル)でアール・デコの装飾を拝見しなくては、という事で、まずは南京路とバンドの交差点に建つ和平飯店北楼(旧キャセイ・ホテル)のロビーに入ってみることにした。阿片で大儲けしたユダヤ系イギリス商人のサッスーン財閥が建てたこのホテルは、堂々たる広さと高さをもった空間をアール・デコ様式で装飾している素晴らしい建築物である。こんなにも堂々として大きく、しかも洗練されたレトロ建築は、横浜にも東京にも、日本にはないだろう。宿泊客ではないので入れる範囲も限られているため、ロビーを一回りしたあと、1階の南京路に面したカフェでお茶をしながら、向い側に立つ和平飯店南楼(スウォッチ・アート・ピース・ホテル)の優美なアールヌーボー風のエントランスの庇を眺めた。


和平飯店北楼(現フェアモント・ピース・ホテル)


北楼のエントランス とにかく広くてシックでゴージャス

天井の意匠



和平飯店南楼(スウォッチ・アート・ピース・ホテル:旧パレス・ホテル)

和平飯店の北楼と南楼は元は別々のホテルだった。2つの建物は建築様式も建った時代も違う。赤煉瓦に白い漆喰の南楼は旧名をパレス・ホテルといい、1906年の創業。北楼はサッスーン財閥の建てたキャセイ・ホテルで、1930年代の建築。キャセイ・ホテルを建てたエリス・ヴィクター・サッスーンはケンブリッジ大トリニティ校出身の伊達男で、百頭の競走馬を持ち、常に身辺に美女をはべらしていたが、中国が戦乱に巻かれだして危うくなると、上海で稼いだ富をバハマに移し、上海を去った。彼は表面的には派手な生活を送りつつも、第一次世界大戦中の飛行機事故で不具になり、女が自分に近づくのは金の為だと思い込んで容易に人に心を開かず、晩年になって、彼の世話をしたアメリカ人の看護婦と結婚するまで独身を通したという。大富豪というのは金儲けに関しては天才的な勘を持つが、非常な変わり者である(または人として大きな欠陥がある)という人が多い気がする。まぁ、「普通の人」では百頭もの競走馬を所有し、百年後も残るような建物を建てるような巨万の富を得る事はできないわけである。

和平飯店を出ると目の前はもうバンドであり、対岸の浦東の高層ビルやあの珍妙なテレビ塔も間近に見える。バンドに出ると、時計台から30分おきに時報の鐘が鳴る。時報のメロディは中国だけに「東方紅」である。「東方紅」というのは、毛沢東と中国共産党を讃える歌で、中国人なら誰でも知っている。歌詞はいかにも毛沢東と共産党を讃える内容のものがつけられているし、あまり仰々しく演奏されると白けるが、メロディだけを時報で聞いていると、妙に子守唄のようにのどかで悪くない。元々このメロディは陝北地方の民謡から取られているので、子守唄のような印象を受けるのはそのためかもしれない。そうこうするうちに、バンドは段々に夕暮れて、黄浦江(ホァンプージャン)を行き交う遊覧船のイリュミネーションが目立ってきた。



そういえば、上海から戻ってきて、偶然目にしたBOND23「SKYFALL」のトレーラには、上海の夜景が映っていた。ボンドと上海、いい取りあわせである。ちらと見ただけだが、ダニエルのボンドはなにやら憂愁の翳が濃い。悪くない。おまけに、その短いティーザー・トレーラーにはレイフ・ファインズの顔も見えていた。ボンドの新作は何やら面白そうな雰囲気だ。ダニエルはまた更に老けたようだが、映画は期待してもよさそうである。…それにしても、上海旅行から戻ったところで、BOND23に上海が登場するとは。何か、繋がっている。
使い古され、見飽きた香港の景観よりも、21世紀は再び上海が中国の顔になるのだろう。各国のスパイが暗躍する極東の大都市として、上海はいかにもそれらしい規模と過去の翳を備えている。しかも、現実にはかなり薄まってしまってそのよすがを探し出すのは困難ではあるけれど、人々のイメージとしての上海は、かつての魔都の幻影が21世紀になっても現実の街の上をすっぽりと覆っている。実に、ボンドが暗躍するのにふさわしい都市であるだろう。
ボンドと上海、うん。悪くない。


「SKYFALL」に登場する上海の夜景


更に孤独が深まった観のあるボンド


暗くて怪しいムードが漂う



というわけで、ここからは「上海的夜景」および「幻影的上海」。
ワタシ的には上海の夜景といえばバンドのレトロ建築群のライトアップであるが、人によっては対岸の浦東の、あの珍妙なTV塔とか、その右脇の栓抜きみたいな森ビルのタワーや、何やかやの新しい高層ビル群の灯りが上海の夜景であるかもしれない。または、その双方であろうか。ともあれ、午後7時になるとイリュミネーションが色づき始め、上海の夜は賑やかになる。ひときわ鮮やかな電飾をまとった遊覧船も行き交っている。だが、ワタシが見たいのは健全な、賑やかな上海の夜ではない。魔都の名残をどこかにとどめた、怪しい翳を引き摺った、いにしえの姿をちらっとでも垣間見たいから上海へ行ったのである。
英語に"Shanghai"という他動詞がある。無論、俗語だけれども、「Shanghai」とは「麻薬(阿片とか?)で酔い潰してムリヤリ船に乗せて重労働をさせる。あるいは、誘拐する、拉致する。騙してむりじいに嫌な事をさせる」という意味があるらしい。戦前の上海がどんな街であったか、そして欧米の人々が上海にどんなイメージを持っていたかを、この他動詞だけでも察する事ができるというものだろう。それは、スタンバーグの「上海特急」のディートリッヒのセリフ、「私の名を上海リリーに変えるには、一人の男じゃ足りなかったわ」にも繋がっていくのである。


浦東のTV塔と高層ビル

バンドのレトロ建築群のライトアップ

浦東側から眺めるバンドのライトアップ


ワタシにとって、上海の最も上海らしさが濃い景観というのは、ガーデンブリッジと、その袂に聳え立つ上海大厦(旧ブロードウェイ・マンションズ)である。ガーデンブリッジというのは古い鉄骨の橋で、勝鬨橋を少し貧弱にしたような橋だが、かつてはバンドからこの橋を渡って虹口(ホンキュウ)地区に入ると、日本人が大勢住んで日本租界のようになっていたエリアがあったという。うちは祖父の世代とかで戦前の上海に住んでいた人などは居ないので、ガーデンブリッジは古い歌の歌詞でしか知らないけれども、ガーデンブリッジ越しの上海大厦というのは、21世紀の今日でも、独特で、上海的で、絵になる姿だとおもう。


ガーデンブリッジ越しの上海大厦


ガーデンブリッジの醸し出す雰囲気に、微かにオールド上海の残り香を感じた


橋の向うに峨々たる姿で聳えたつ上海大厦の威容は健在 かつては外国人専用のマンションで現在はホテル


魔都上海に夜が来る…


通りを挟んで上海大厦と並ぶアスターハウス・ホテル
その昔、チャップリンやアインシュタインが宿泊したというクラシック・ホテルである

この短い旅でつくづくと思ったが、21世紀の上海に20世紀前半の深い陰翳やゆがみやひずみや闇を探しても甲斐ない事であるのだろう。全ては時の流れと共に過去へと流れ去り、今の上海には、観光用に化粧され、きちんと整えられた、かつての姿の淡い影だけがちんまりと残されて並んでいるだけである。ワタシはやはり上海に本当に行くべき時期を逸したのだ、と今回の旅行で改めて実感した。あらかじめ分りきっていた事ではあるけれど、それをハッキリと自分に納得させるための旅でもあったのかもしれない。無論、戦前の上海が見られればそれに越した事はないが、タイムマシンでもなければムリな相談である以上、できるだけ昔のままの姿で手付かずで残っている時期に見るのがベストであっただろう。ということはせいぜいでも92年~94年ぐらいに上海に行くべきだったし、理想的には天安門事件の前あたりが、ワタシの世代では最も戦前のままの姿が残った上海を見る事ができた時期だろうと思う。今と較べたら数日の旅行でもビザは必要だったし、簡単にツアーを予約して香港と変わらないような気分でさくっと行って帰ってくる、なんていう旅は出来なかったに違いない。その頃の上海は、OLがちょろりと旅行に行くような場所では無かった。中国の研究者か留学生か、作家かレポーターかカメラマンか、戦前に上海に住んでいて懐かしいというシルバー世代か、よほどの好事家でもない限りは、誰も上海に行こうなどとは思わなかった。その頃の中国はまだ貧しく、町角のショーウインドウに飾られた最新型の自転車に人々が目を輝かせ、人民服の人々が都大路を銀輪をひらめかせて右へ左へと行きかっていた。その頃に上海へ行ってみたら、荒削りで汚れていたかもしれないが、今のようにきちんと整えられ、どこもかしこも殆ど東京と変わらないような、観光客向けの、かつての密造酒が100倍に薄められて酒のニオイがする水になってしまったような上海ではなく、そこかしこに戦前のさまざまな出来事や物事や人々の匂いがしみついた、生々しい廃墟とでもいうべき上海が見られたのではないかと思う。


実体を越えたイメージだけが波の上にさすらう街 それが上海である

ワタシが見たかった上海は、もはやイメージの中にしか存在しない。21世紀の今日、地球上のどこにもかつての上海は存在しない。その土地に、昔の姿でめぼしい建物は残っていても、それはかつての上海の影に過ぎない。かつての魔都としての上海を甦らせる事ができるのは、映画や小説の世界だけかもしれない。そういう意味で、「ラスト・コーション」の上海は見事にあの街のエッセンスが再現されていて見応えがあった。BOND23における上海は現代の上海ではあるが、魔都上海のニュアンスを纏った幻影的上海だろうと想定される。ボンド映画の中で上海はどんな姿を見せるのか、ボンドの暗躍とともに、画面の中の上海にもそそられるものがある。あまり期待しすぎずに師走の封切りを待ちながら、今回の短い旅の雑感を終えようと思う。

コメント

  • 2012/05/27 (Sun) 17:13

    kikiさん、お久しぶりです。私が好みのタイプじゃないのに何故ライアン・ゴスリングがこんなに気になるのだろう?などと考えている間に上海にいらしていたのですね! 私も昨夏に上海に行ってきました。やはりレトロな建築物とシノワズリ雑貨と「魔都」の面影を求めてです。外灘の夜景と豫園、そして新天地は堪能しましたが「魔都」はもう無理ですね。(香港も同じでした)私の頭のなかは私が勝手に作り上げたイメージ(主に映画の影響?)の上海であり香港なので21世紀も10年を過ぎた今所詮無理なことでした。でもそれなりに楽しめましたよ。
    昨春に行った北京で、チャイナの方々のあまりの無愛想っぷりや図々しさ炸裂!という物腰に引きまくりだったことを考えれば(米系の一流とされているホテルマンさえ笑顔ゼロですから。笑っては損なの?)上海の方々は感じが良かったし。土地柄でしょうか。
    豫園での買い物(気を張って疲れる)やら栓抜きビルに登ったりしていると(高いところにはとりあえず上ってみる)短い旅行期間ではフランス租界やレトロ建築の内部まではとても行けませんでしたからkikiさんの写真で楽しませていただきました。
    今度のダニエルボンドは上海なのですね。行ったことのある場所だと更にテンションがアップするので楽しみが倍増です。

  • 2012/05/27 (Sun) 20:30
    Re: タイトルなし

    Rikoさん どうもどうも。
    昨年夏に上海に行かれたんですのねー。夏だったらかなり暑かったでしょう。大丈夫でしたか?でもレトロ建築と魔都探訪とは、好みが合いますね。ふふふ。
    そう、現代の上海も楽しめました。それなりにね。香港よりは上海の方が建物が良い分、21世紀になってもいいところはあると思いますが、やはり「魔都」的なムードは壊滅的で、ちょっとガックリしましたわ。まぁ、予想はしていたのだけど、予想された通りの様子でね。やはり再開発される前の88年ごろに行くべきだったと下唇を噛みつつも、まぁ、その頃に行ったとしたらこんなにイージーな旅行じゃなかっただろうしな、と思って自分を慰めたり。(笑)北京は愛想なしでしょうね。想像できますわ。上海は戦前から外国人に馴れている都市でもあるし、気分としてはかなり資本主義寄りな街でもありますね。フランス租界は、ちょっと空気感が違って並木の緑がしっとりしてましたわ。上海に行く前は、もう一度ぐらい行くつもりだったんだけど、帰ってくると上海にはもう見るべきものはないかなという気分になり、だったら和平飯店に泊まって専属ジャズバンドの演奏を聴いてくるんだった、とちっと後悔。でもまぁ、それなりには楽しめました。で、BOND23。どの程度ストーリーに絡んでくるのかは不明ですが、上海が登場するようですわ。行った事のある土地が映ると親近感が増しますよね。師走の封切りを楽しみに待ちましょう。
    そしてゴスリングですが、彼の待機作 'Gangster Squad' はよさげです。少なくともクールでカッチョ良いゴスリングが見られる事は間違いなさそうですわ。日本では年内に封切られるかどうか分りませんが、これも期待して待ちましょう。

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