「少年は残酷な弓を射る」 (WE NEED TO TALK ABOUT KEVIN)

-人生の悲劇の第一幕は、親子となったことに始まっている-
2011年 英 リン・ラムジー監督



最初にトレーラーを観た時から強く興味を持った作品。ついに封切られたので日比谷シャンテで観賞してきた。原作がある映画は、既に読んでしまっている場合を除き、原作を先に読まない方が映画を純粋に楽しめる。ゆえに原作は読まず、一切の予備知識や先入観を入れずに、まずは映画を観賞してきた。

20代の頃、ワタシはなぜか「子供は原罪」という観念を持っていた。そしてもし自分が子を産んだとして、その子の中に自分の、或いは配偶者の性質上の最大の欠点が如実に遺伝しているのを発見したら、または、どちらから引いたわけでもないのに、我が子ながらどうしても好きになれない性格や性癖が明かになったりしたら思うと、想像するだにゲンナリしたものだった。実質的にはワガママで精神的に子供だったので、20代のワタシは親になるなどムリだったという事なのだろうが、ワタシのそういう子供観は30代前半まで続いていた。この映画を観ていて、20代の頃に感じていたそんな気分のあれこれがふと脳裏に甦ってきた。
あの頃、ワタシが漠然と懼れていたのは、こういう事だったのかもしれない、と。

***
主人公のエヴァ(ティルダ・スウィントン)が作家であるというのは、映画を中盤まで観ないと分らない。とにかく世界中を旅行するのが好きで、自由奔放に生き、色々な国を巡った旅の記憶を大事にしているのだな、という事は、夫が郊外に家を買い、エヴァが自分の部屋の壁を旅の記憶で彩った事で分かる。旅の記憶の中には日本も入っており、奈良の寺(東大寺あたりだろうか)だと思われる写真か絵葉書を懐かしげに手に取るシーンがある。また、エヴァが好んで聴く音楽の中には津軽じょんがら三味線を現代風にアレンジしたような楽曲があったりもする。ところどころに隠し味のようにちりばめられた日本…。月満ちて、エヴァと写真家の夫フランクリン(ジョン・C・ライリー)の間に生まれた息子ケヴィンは、両親のどちらにも似ない黒髪の、どことなく東洋風な面差しの少年である。

エヴァは予期せず出来た子供をあまり喜んではいなかった様子も描かれる。誇らしげに大きな腹をつきだして、検診だか、運動だかに参加している周囲の妊婦たちの中で、エヴァだけは何もせずに茫然とベンチに座り、周辺の、これでもかと腹を突きだした女たちの中でため息をつく。彼女は戸惑っている。馴染めない。少なくとも、子供が生まれる日を指折り数えてワクワクして待っているわけではない。あ~あ、こんなに腹ボテになっちゃって…という彼女の無言のつぶやきが聞こえるようだ。が、とりあえず最初の子は生まれてきた。ケヴィンと名付けた。それなりに母親らしくあやしてはみるものの、ケヴィンは乳飲み子の時は、執拗なまでに泣き叫び、寝ている間を除いては、泣き喚く事をやめようとしない赤ん坊である。乳母車に乗せて泣き喚く我が子と散歩しながら、工事現場の騒音の中で息子の泣き声がいっとき掻き消される事にやすらぎを覚えるエヴァ。騒音の中のいっときの静寂。 …奇妙な生き物を産んでしまった…。でも、この先もずっとこれを抱えていかなくてはならないのだ。面倒臭くても忌々しくても自分がこの世に産み落したからには、放り出すわけにはいかないのだ…。やがて諦めて乳母車を押しながら、エヴァは工事現場を離れる。

もう少し大きくなると、泣き喚かない代わりに今度は一言もしゃべらなくなる。自分に白い目を向けて、何一つ言う事を聞こうとしない息子。母は自閉症を心配するが、その兆候はないと医者に言われる。しかし、息子は変だ。懐かないどころか、あからさまな憎しみの表情を浮かべて自分を見据えてくる。この根拠のない憎悪はなにゆえか。彼なりには根拠があるのか。生まれ落ちた時から、何故、息子は母に対してこうも反抗的なのか。そして何故、父にはよそいきのような笑顔を浮かべて可愛らしく接するのか…。 
一切の説明はない。一切の根拠もない。不条理である。ただ、ひたすらに不条理である。親と子の関係というのは、そもそも不条理なものなのであろうか。
また、とっくにオムツの取れる年齢になっても、自分の意志でトイレを使おうとせず、紙オムツの中に排泄して、母にその後始末をさせるケヴィン。彼がいつまでもトイレに行こうとしないのは意図的な母へのいやがらせなのか。それとも、彼なりのスキンシップを母に求めての事であろうか…。


幼年期を演じる少年 可愛いが三白眼をするとなかなか迫力がある

ケヴィンの幼児時代を演じる少年も、6~8歳ごろを演じる少年も、どこかオリエンタルな面差しで、どちらも謎の少年ケヴィンの憎々しさと不気味さを好演していた。幼少時代から16歳のケヴィンを演じるエズラ・ミラーにイメージがスムーズに繋がっている。殊に6~8歳ごろを演じた少年がなかなか上手く、この小学校低学年時代のケヴィンとエヴァの暗闘もけっこう時間をとって描写されている。この時期のケヴィンに、父がプレゼントで与えたのがオモチャの弓だ。郊外住宅地の広々とした芝生の庭に的を置き、ケヴィンは先端が吸盤になったおもちゃの弓で無邪気に遊ぶ風を見せつつ、家の中の母めがけて、窓ガラスに吸盤の弓を放つ。弓は派手な音を立てて窓ガラスに吸い付く。エヴァは茫然と、窓の外の息子を見つめる。


6~8歳ごろを演じる少年 なかなか上手かった

到底、我が子とは思われない不気味な息子が一人いるだけでは耐えられなくなったエヴァは、夫に相談せずに今度は意図的に妊娠して娘を産む。娘はブロンドで無邪気な”ごく普通の子供”である。生まれたばかりの娘を幸福そうにあやすエヴァの傍に立ったケヴィンは赤ん坊の妹にぴちぴちと指先で水を掛ける。ケヴィンは妹に嫉妬していたのだ。母に望まれて生まれてきた妹に…。

そして15歳になったケヴィンで、満を持してエズラ・ミラー登場である。適役中の適役。彼以外の誰がケヴィンを演じる事ができただろうか。まさに役の雰囲気にピッタリなルックスと持ち味。東洋と西洋が融合したルックス。細身で均整のとれた体つき。ほぼ漆黒の髪。切れ長の目。魅力的ではあるが、どこか禍々しい印象の少年。まさに魔少年というにふさわしいムード満点である。ルックスばかりでなく、演技的にも申し分のない表現力だった。
15歳になったケヴィンが庭で放つのはアーチェリーの矢である。もはや先端は吸盤ではない。刺されば血も出る。悪くすれば死ぬ。



ケヴィンにとって、この弓とは何であるのか。そして何故、弓だったのか…。

年の離れた妹セリアは無邪気にケヴィンに懐くが、ケヴィンの心には愛情のかけらもない。何食わぬ顔で妹のペットを殺し、妹自身にも災難が降りかかるように仕組む。得体の知れない息子に対して恐怖にかられ、何もかもをケヴィンのせいだと言うエヴァに夫は離婚を決意する。両親は自分のせいで離婚するのだとありありと分かっているケヴィン。…そしてある日、彼はある計画を実行に移す。
それは母に地獄の苦しみを味わわせるためだったのか、それとも、永劫の母との絆を求めたのか…。

映画は過去と現在を行き来しながら、次第に「事件の日」へと迫って行く。エヴァを演じるティルダ・スウィントンのヘアスタイルで、現在か過去かが容易に分るようになっている。編集のリズムや音楽などにいかにも本作のムードにふさわしいセンスを感じた。また、冒頭の、トマティーナ(バレンシアのトマト祭り)に参加して、大量の潰れたトマトおよびその果汁にまみれるエヴァの姿から、事件後、木造の小さな家に赤い塗料をぶちまけられたエヴァが、屋根からドアから窓ガラスに至るまで、毎日必死にその赤い塗料を除去する作業にいそしむシーンまで、鮮烈な赤がとても印象的に使われていた。

ケヴィンは何故あのような事件を起したのか。妹はおろか父さえも、彼にとっては最初から視界に入っていない存在だったのか…。

事件を起した息子のせいで、被害者の親族から激しい憎しみを受け、また、街中の殆ど誰もが事件について知っていて、隙あらばエヴァをあざけろうとするような状況の中で、抜け殻のようになりつつも、彼女は仕事を探し、汚された家をキレイにし、小さな部屋を整える。面倒臭くても忌々しくても自分がこの世に産み落したからには、放り出すわけにはいかないのだ。たとえどんな怪物に育っても、それは彼女がこの世に生み落とした生き物なのである。


事件後に街で被害者の家族から強い憎しみをぶつけられたり、陰湿ないやがらせを受けたりするエヴァの姿を見て、「神戸連続児童殺傷事件」の犯人だった少年の親は、似たような思いをしたのだろうか、とふと思った。自分の産んだ息子が信じ難いような犯罪を平然と働いたとしたら、母親は一体どう息子と向き合えばいいのだろうか。とりわけ、その息子が未青年だった場合には…。

ケヴィンは生まれつきの異常性格でもあろうが、彼が真に求めていたのは極限の状況下で、母が自分に手を差しのべてくれること、であったのかもしれない。そして、その後のエヴァを待っているのは、どこまで行っても二人だけ、果てしなく息子と二人の、二人地獄である。

人間ひとりをこの世に生み出す事には、重い責任と義務が伴う。時には生涯背負わねばならない十字架にもなるほどに…。

エヴァはそれを引き受け、恐るべき息子を両腕に抱く。
それは愛なのか。あるいは義務か。それとも諦めか。はたまた贖罪か…。

トレーラーを観て、期待し、予想したとおりの映画だった。ティルダ・スウィントンと、エズラ・ミラーのキャスティングがぴたりとハマっている事が、この映画のキーだろう。エヴァの夫役のジョン・C・ライリーも、息子のデモーニッシュな側面に全く気づかない父親を好演していた。

コメント

  • 2013/10/12 (Sat) 23:11

    この映画、見たかったのですが、怖くて見るに至っていませんでした。
    エズラミラーの写真しか見ていなかったのですが、強烈に惹かれるものの、怪しすぎて…
    ところがひょんなことでロイヤルペインズというドラマで彼を見かけ、なかなかの美少年ぶりに気を良くしてこちらも鑑賞して見ました。

    印象的だったのは、母役のティルダスウィントンと息子のエズラミラーは、似た雰囲気があるということ。
    怪しいとかではないのですが、自分の見たい世界だけを選んで見つめて、それ以外の関心とか社交性が薄いというか。。。
    母の関心が欲しかった息子というだけでは説明しきれない執着ぶりですが、事実としてケヴィンは母親だけを常に特別扱いするわけですよね。
    神経を逆撫でするという方法ですが。
    愛も憎しみも源の感情は強い執着だとするならば、そういう感情が負の方向で結ばれてしまった親子なんだろうな、と。
    最後、「何故」と聞かれて、「わかっていると思っていたけれど、今はわからない」と答えるケヴィンは、母への執着が少し剥がれて行っているように見えました。

    エズラミラー君の美少年ぶりはすっかり有名になったようですが、このまま崩れることなく成長して、目を楽しませてもらいたいものですね。
    あと、意外にも低い彼の声も素敵です。(ちょっとアメリカ訛りがきつい気がしますが、役によっては修正してくるものと期待!)

  • 2013/10/15 (Tue) 07:20

    cocoさん 

    ロイヤル・ペインズのエズラ・ミラーは難病を抱えた美少年で、不思議な魅力がありますわね。
    で、この映画ですが、確かにティルダ・スイントンとエズラ・ミラーは、似た雰囲気がありますが、双方ともに両性具有的な雰囲気があるのが、最も似ているところじゃないかなと思いますね。ひんやりと植物的だというのと共に。
    何故、この息子はこういう風なのか、というのは、誰にも分りませんわね。それだけでは説明できないかもしれないけれども、彼が求めているのは一途に母親の愛情や関心なのは確かですわね。でも、何故あんな形で屈折するのか。自分の子ながら、どうしても愛せないと感じてしまったら、どう対処していけばいいのか、実に難しいと思いますわねぇ。最後に、息子の激しい執着が少し和らいだ感じがするのは、邪魔物を消して遂に母親と二人だけの世界になったから、と言えなくもないような、ね。

    エズラ・ミラーの新作は、いかにもなティーンの青春ものみたいですね。小説がベースの、高校生のほろ苦い青春の目覚めを描いた「ウォールフラワー」という映画がこの秋、日本で封切られるようです。エキセントリックな殺人者ばかりでなく、ちゃんと高校生も演じてますわ。バランス感覚がいいですね。

  • 2013/10/21 (Mon) 05:08
    母と子供の不協和音

    先に読んだ原作は、事件後のエヴァからフランクリンに宛てた手紙、または独白形式になっていました。エヴァという人のどこか強迫観念的な所が耳にも鼻にもつき、途中で断念。
    映画のラストを見て当のフランクリンがあんなことになっていたと知りました。
    これを見て私が思い出したのは、反社会性人格障害と言われた宅間守とその母でした。妊娠中に「私、これ堕ろしたいねん」と言っていたという部分。
    自分は望まれていない、というのを子供のころからやはり感じるものなのでしょうか。
    ケビンが自慰行為をエヴァに見せつける辺り、やはり全て母への当てつけの様な気がしましたが。。

    • ポン酢 #52SUVx6o
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  • 2013/10/21 (Mon) 21:32

    ポン酢さん
    原作はエヴァの独白形式なんですね。読まなくても、読むのがしんどそうな原作だろうなぁ、という気配は漂ってきます。
    宅間守とその母親の話というのは象徴的かもしれませんね。
    子供は、親が本当に自分を愛しているか、必要としてくれているのか、という事を本能的に嗅ぎ分けるものなのかも。それにしても、なにゆえそこまで激しくケヴィンは母を求めたのか…。他の誰も必要としないほどに濃く、深く、ひたすらに。…何ともいえませんが、求めても得られないので、余計に妄念が濃くなったということなのかしらん、と。親子というのは因縁の深いもんですわね。

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