美の巨人たち 「迎賓館赤坂離宮」

-素晴らしいけど住み辛い、華麗にして不幸な宮殿-
TV TOKYO



ワタシは地上波を見ないので、たまに必見モノの番組を見逃して「う!!」という事がある。地上波を見なくなってからも、基本的に「美の壷」とか「情熱大陸」とか「美の巨人たち」など、幾つかのドキュメンタリーはピンポイントでチェックする事にしているのだが、やはり忘れてしまいがちだ。ところが昨今では有難い事にキー局がいくつものチャンネルを持つようになったので、地上波の放映を見逃してもBSで暫くすると見られる、という事がある。ずっと内部を見たい、見たいと思っていた赤坂離宮が「美の巨人たち」で特集されたことを知った時には、地上波の放映は既に終わってしまっていた。「きゃ~~~!しまった!!」と地団駄を踏んだものの、BS JAPANで後日放映される事が分かったので、満を持して予約録画し、明治を代表する建築家・片山東熊の畢生の大作である「赤坂離宮」の特集をゲットした。…ふ~。マルチ・チャンネル時代に感謝、である。
この宮殿の不幸な来歴については、レトロ建築好きは愛読必携の書である「建築探偵」シリーズの「東奔西走」の巻で読んだ。その著者である「建築探偵」藤森照信氏も、番組中に専門家としてコメントを適宜入れておられたが、こんな素晴らしい建物が、明治、大正、昭和の三代のミカドに嫌われて、住居としては殆ど使われる事が無かったという事実には、非常に気の毒ではあるけれども、どこか物悲しいおかしみもあって、華麗な建物にまつわる伝説としてなかなかに興味深い。喩えて言うなら、絶世の美女で深い教養でも知られる貴婦人が、その怜悧さや、あまりに非のうちどころのないありようを夫に敬遠され、不幸で空虚な結婚生活を生涯耐え忍んだ、というような感じでもあろうか、などと思ったリして(笑)



堅牢にして華麗なる、贅を尽くした明治西洋建築の粋、「赤坂離宮」は、明治の中期から末期にかけて東宮御所として建てられたものの、新婚の嘉仁親王(のちの大正天皇)は、その完成を心待ちにしていながら、完成した後、結局は一度も住居としては使わなかったという不幸な宮殿である。
ジョサイア・コンドルの弟子にして、明治の建築界を代表する二人の建築家のうちの1人、片山東熊(もう1人は東京駅の設計者・辰野金吾)が、結婚を控えた東宮のための新婚の宮殿(東宮御所)を建設せよ、との命を受けて、自らの美意識と建築家としての技術、センスを総動員し、国家予算を使って、欧州から選りすぐりの建材や家具調度を集め、柱の装飾のために職人を欧州に派遣して技術を習得させるなど、一切の妥協を排した完全主義を貫き、欧米列強に負けない壮麗な宮殿を建築すべく、細部に至るまで凝りに凝り、渾身の力を揮って築いた傑作「赤坂離宮」は明治32年から10年の歳月をかけて建設された。外見だけでなく、内装にも凝りに凝ったので、予算は当初の予定を倍以上、オーバーした。


中央の階段を昇りきった階段回りの大理石の手すりの上に立てられた純金の蜀台

予算をオーバーしただけに、その内装は当時の日本の名工の技術を集めた素晴らしいもので、中央の階段を昇ったところの階段の間に並ぶ金色燦然たる蜀台の輝きや、バカラのシャンデリア、ネオバロック様式の建築に和洋折衷の装飾が施されたメイン・ダイニング「花鳥の間」の西陣のタペストリや、濤川惣助の手になる30枚の花鳥図の七宝焼きなど、幾ら眺めていても見飽きないに違いない見事な仕事が目白押しである。


オーケストラボックスを備えた舞踏会の広間「羽衣の間」


晩餐会が開かれる「花鳥の間」壁面に飾られた30枚の七宝焼きが素晴らしい




バカラ社製のシャンデリア …眩いが品がいい

また、明治の「富国強兵」という国策を反映して、屋根の上の青銅の飾りや、中央玄関の真上のカクテル・ラウンジ「彩鸞の間」の壁面の金箔の装飾などには鎧冑の武者姿があしらわれ、「彩鸞の間」のマントルピースの装飾には軍帽と軍刀をあしらった金の飾りが取り付けられている。赤坂離宮そのものも、市ヶ谷の陸軍士官学校(現:自衛隊市ヶ谷駐屯地)と向き合うように建てられているらしい。これはパリの都市設計などに習った配置であるとか。この配置には、明治以降の天皇は、雅びな天上人ではなく、勇ましい武人であるという明治政府の基本姿勢が反映されているらしい。


この甲冑を着た武者姿の飾りだけは、些かキッチュな印象がある 

外観のみならず、内部の装飾も実に見事な赤坂離宮だが、藤森建築探偵イチオシなのは、中近東の様式で作られた喫煙室「東の間」。タバコの産地がエジプトやトルコであったことから、洋館の喫煙室はイスラム風の内装で作られる事が多かったというが、この赤坂離宮の喫煙室は実に素晴らしい内装で、この部屋こそが、もしかすると赤坂離宮の中でも最も素晴らしく、贅を凝らした造りであるのかもしれない。実に、映像で見るだけでも強い魅力を感じる部屋で、見事な内装だと思う。金(ゴールド)をふんだんに使っているのに些かも下品にならず、中近東の妖しい空気が紫煙とともに物語のように漂ってくるような気のする部屋だ。幾何学模様の内装のパターンも精緻な金の縁取りがなされて、整然としていながら、独特な雰囲気が横溢している。


エキゾティックな「東の間」 紙巻きタバコや葉巻より、水煙草が似合いそうな部屋だ

金をふんだんに使っていながら、些かも下品になっていない


こんな部屋でエジプトタバコなど燻らせて寛いだら、どんな気分だろうか…。アラビアン・ナイトの王様の気分だろうか。…とにもかくにも、素晴らしい。同じようなイスラム風の喫煙室は、現在スパニッシュ・レストランになっている「小笠原伯爵邸」にも有った。それなりに風情のある部屋だったが、スケール的にも内装の見事さからいっても、やはりこの赤坂離宮の喫煙室は本邦随一と言っていいだろう。熱海の岩崎さんの別邸だってここまでの喫煙室は備えていないのではあるまいか。


小笠原邸の喫煙室 こじんまりとしているが風情があり、天井のブルーが効いている

地上二階、地下一階、述べ床面積4,653坪。鉄骨を芯に耐火レンガでその周囲を囲み、白い花崗岩で外壁を覆ったネオ・バロック様式の宮殿は、(地下に自家発電装置が据え付けられ、宮殿内の電力はその装置で賄われていたという)当時の国策により欧州に負けない建築を、という事で建てられたのだが、新婚の住まいとしては些か立派すぎ、あまりにも建物が張り切りすぎてしまったのだろう。新婚さんのため、というよりも日本の未来を担う皇太子の宮殿として内外に威容を誇れる建物でなくてはならない、という方が優先された結果、新婚さんには適さない宮殿になってしまった。
旧朝香宮邸(現:東京都庭園美術館)ぐらいな規模の、建物としても優美で住居としても使い勝手のよさそうな建物が新婚用の住いとしては理想的ではなかろうかと思う。赤坂離宮はなにぶん、大規模すぎ、壮麗すぎた。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

赤坂離宮の壮麗なシンメトリーの構造は中央のエントランスから、建物の中心に配された赤絨毯の階段を境に西のウイングが東宮の住居、東のウイングが東宮妃の住居という具合に東西にはっきり分れるようになっていて、これは宮殿の構想を練る際に、東熊が1年にわたる欧州の宮殿建築の視察でオーストリアやフランスの宮殿を手本にしたからだと言われているが、とにかく大理石の床は冷たいし、構造的に新婚の住いとしては使い勝手があまりよくないし、当時としては最新式の自動温度調節装置付きの空調設備が装備されていたのだが、この自動温度調節装置はまっとうに作動せず、昼のさなかに温風を吹き出したり、夜になると冷えるのに暖房が止まったりして、居住者は無意味に上がったり下がったりする室温のため、体温調節に苦労することになり、従ってあまり体にもよいわけがなく、華麗な外観と反比例して非常に住み心地が良くなかったらしい。良かれと思って導入した最新設備が役立たず、というのはありがちではあるが、「便利な事は不便な事」であるのは昔から変わらない真理なのだろう。


中央玄関からまっすぐに伸びる階段で東西に分れていた

ともあれ、明治42年、片山東熊は明治天皇に拝謁し、着工から10年の歳月をかけて遂に完成した「東宮御所」の写真集をお目にかける。が、写真集をめくってご覧になった明治天皇はパタリと写真集を閉じて一言「贅沢だ」と仰せられた。ひたすら日本のため、明治国家のため、ひいては明治天皇のためによかれと思い、西洋に負けない宮殿を造る事を目指し、それを成し遂げて、どんなにお喜びになるか、どんな労いの言葉を賜るかと思っていたら、当の明治天皇に「贅沢だ」の一言で10年の労苦を断じられたのでは、片山東熊も立つ瀬がない。これを気の毒と言わずして何を気の毒というのか、というぐらいに気の毒である。言葉もない。同情を禁じえない。あまりにも可哀想である。可哀想過ぎる…。


明治天皇に「贅沢だ」と一蹴された赤坂離宮 右は気の毒な片山東熊

なぜ、こんな心ないとも言える一言が発せられたのかというと、明治天皇は質素倹約を非常に重んじられた方で、奢侈を好まなかった。夏でも冬服で押し通し、薄暗く、冬の寒さの耐え難い皇居の中でも、真冬にも火鉢だけで暖を取り、漏電で火災が発生して以降は電気の使用も出来る限り控えていたので、皇居内は昼なお暗かったという。自分だけ贅沢に過ごしては国民に申し訳が立たぬ、という君主としての立派なお考えの元に節倹を尊ばれたわけであるが、天皇の傍近くに仕える者達にとって、この節倹精神はなかなかにしんどいものだったのではないかと思う。
西洋に追いつけ、追い越せの明治精神で完璧主義を貫いて東宮御所を造営しおえたと思っていた片山東熊は、「贅沢だ」の一言を投げつけられ、これでも欧州の宮殿に較べれば質素なものであることを懸命に説明するが、明治天皇の目には華美にすぎる建物としか映らなかったらしい。

明治天皇に「贅沢だ」と言われてしまった宮殿に、東宮が住むわけにはいかない。かくして折角出来上がった宮殿には主が住まないというキテレツな事態が出来した。考えれば、あまりにも凝りに凝った宮殿には、主が殆ど住まないという事は往々にしてあることで、バイエルンのルードヴィッヒの建てた3つの城にも、主であるルードヴィッヒは殆ど住んで居ないのだ。(彼は建築道楽で、住む事よりも建てる事に重きをおいていたのだろうけれど…)



現在の貨幣価値にして500億もの予算を投入し、もてる限りの気力と能力を注ぎ込んで造り上げた宮殿が、施主である明治天皇に否定され、新婚の東宮も住居として使わないという予想もしない事態を迎え、あまりの大ショックに片山東熊は寝込んだという。…そりゃ寝込むよ。心臓発作をおこしてその場で亡くなってもムリないと思う。心血を注いだ宮殿がこんな仕打ちを受けようとは、誰が想像しただろうか。結局、片山東熊は東宮御所の完成後、8年生きたが、もはや殆ど仕事をせず、意欲を失い、失意のままに世を去った。臣下に常に公平に御心を配ったと言われる明治天皇にしては、片山東熊の苦心に対して、あまりにも心無い一言だったのではないかと、ワタシには思えてならない。
大体、明治天皇がそこまで節倹を重んじるなら、何故、構想の段階で、質素を旨として設計せよ、という指示が下されなかったのだろうか。天皇と明治政府の間で、宮殿に対する意向に乖離があったのだろうと思うのだけれど、天皇の予測を超えて東熊が頑張りすぎてしまったのでもあろうか。ともあれ、設計、施工の段階で思惑がずれて齟齬を生じたのだとしか思えない。片山東熊はひたすらに気の毒である。


菊のご紋が虚しく光る

ただ、華美にして堅牢なこの宮殿は、関東大震災にもビクともしなかった。壁が一番厚いところで1.4mもあるというのだから、かなりの大地震にも小揺るぎもしないのである。震災後、東宮時代の昭和天皇が数年、住まわれたが、例の不具合な自動温度調節装置のせいで、住み心地が悪く、そう長くお住いにはなれなかった。その後、東京大空襲をも潜りぬけ、建物は残ったが、戦後は内閣府へと所有の移った「赤坂離宮」は国会図書館になり、裁判官弾劾裁判所になり、東京オリンピック組織委員会の本部が置かれたりしたあと、改修工事が行われて、「迎賓館」としての用途が定まった。また明治以降の建築としては初めて国宝に指定された。国宝に指定された事を草葉の陰で片山東熊が知ったら幾らかでも気持ちが慰められただろうか…。うーん、やはり明治天皇から「些か贅沢ではあると思うが、よくやった」というお言葉を賜らない限りは、片山東熊の魂はやすまらないのではないか、と推察する。本当に、一言、「よくやった」と言ってあげてほしかった。その一言さえあれば、東宮が実際に住まわなかったとしても、東熊としては随分、その後の気持ちが違っただろうに…。



かねてより、ワタシは一度でいいから、この赤坂離宮の内部を見学したいものだと思っていた。迎賓館だから一般人は入れないと頭から諦めていたが、実は昭和50年から毎年、応募者を抽選して、行事の少ない夏季に、当選した応募者が内部を見学できるという制度が出来ている、という事が分かった。来年はこの一般参観に応募して、是非とも赤坂離宮の内部を観たいと思う。ただ、ワタシがどこの部屋よりも、どの部分よりも一番観たいと思っている喫煙室「東の間」は一般公開されないらしいのだけれど。…ガックリ。「東の間」も公開してちょうだいよ。ああいう部屋にこそ、こういう建築の精髄があるんじゃないのよ。来年あたりから公開範囲に入れてちょうだいな、頼んだわよ、プリーズ、と融通のきかなそうな内閣府に要望を出したところで、この記事を締めようと思う。

コメント

  • 2014/11/03 (Mon) 19:11
    こんなに面白いのに、誰もコメントを残していないのは何故?


    去年、抽選に当たりまして、赤坂離宮の見学のチャンスが巡って来ましたが、猛暑で8月26日の昼間2時半の現地集合が出来ませんでした。来年こそは!と思います。

  • 2014/11/04 (Tue) 06:46

    みみさん 抽選に当たられたのに残念でしたね。時期が真夏というのはキツいですよね。ひところはワタシも応募しようと思ってたんですが、最も見たい「東の間」が公開されていないと知ったら興味索然で、「東の間」が一般公開になったら応募しようと思っています。

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