「千利休 本覺坊遺文」

-いつか、あの寒い磧(かわら)で別れたな…-
1989年 東宝 熊井 啓監督



1989年は、千利休をテーマとする映画が2本封切られて競作になった。確か千利休の生誕400年にあたる年とかで、利休三昧だなぁ、と思った記憶がある。どちらも映画館には見に行かなかったが、その後TV放映された時に見た。その時の印象では、本作ではなく勅使河原宏監督の「利休」の方が好ましいように感じられた。絢爛たる桃山文化を背景に、天下人・秀吉と茶人・利休との確執を描いた「利休」は、大きな体でぬらりくらりとした三国連太郎の利休と山崎努の成り上がり丸だしな秀吉の対決が効いていた。一方「千利休 本覺坊遺文」は、全体に暗く厳しいトーンで、三船敏郎の利休は茶人というにはあまりに侍風味過ぎないだろうか、と当時のワタシには思われた。晩年の三船敏郎出演作は、何となく見るのが辛いような気分になって、あまり見ていないしレビューも書いていないのだけど、「千利休 本覺坊遺文」はうっすらと再見したいという気持ちがあったところ、日本映画専門chでタイムリーに放映されたので、早速録画して観賞してみた。
今更に本作のスタッフ、キャストを見てみると、実に日本映画の黄金期を支えてきた人々が結集した作品である事が分かる。スタッフ側では監督に熊井啓、脚本に依田義賢、美術に木村威夫、キャストでは、何といっても三船敏郎の千利休、信長の弟である織田有楽斎に萬屋錦之助、古田織部に加藤剛、秀吉に芦田伸介、古渓和尚に東野英治郎が登場する。女は一人も出て来ない。男だけの映画である。脚本の依田義賢は溝口健二とのコンビで何本もの傑作を生み出した名脚本家。これが実質的に最後の作品になった。また、萬屋錦之助にとっても、映画出演は本作が最後になった。いわば、日本映画黄金期を支えた映画人たちが、その存在を最後に輝かせた時代が80年代末から90年代だったという事だろうか。00年代に入ると、日本映画はまた別の局面に入っていくように感じる。


とにかく男しか出て来ない映画である


みな、茶の湯の大特訓を受けたとか 萬屋錦之助のお点前 さすがに手つきが美しい

本作放映後のインタビューによると、奥田瑛二は「やった!間に合った!」と思ったそうだけれども、熊井啓監督の元、これだけの顔ぶれの揃う作品に出演する事ができるなど、そうそうある事ではない。彼らが現役である間に若手として共演する機会に恵まれたのは、まさに僥倖といってもいいだろう。三船敏郎も萬屋錦之助も、本番前に全てセリフが頭に入っている、現場に台本など持って来ないプロ中のプロの俳優だった。そして、ベネチア国際映画祭で本作が銀獅子賞を獲ったのは、1にも2にも三船敏郎の存在あったればこそだろうとワタシは推察する。それは必ずしも、あの三船敏郎が戦国時代の茶人として出演し、クライマックスに桜を背景に切腹(正確にはその瞬間は映らない)するシーンがあるから、という事ではないだろうと思う。本作は日本映画の輝かしい伝統と映画文法を引き継ぐ作品であり、その中できりりとした端正な佇まいを際立たせている三船敏郎の姿には、国境を越えて何か観客に訴えかけて来るものがあったのだと思う。三船敏郎にとっても、1980年代以降に(もっと言えば70年代中盤以降に)出演した映画の中で、これより質の高い映画は無いように思う。同じ熊井監督の「深い河」を観ていないので何とも言えないけれども、1シーンのみの出演だった「深い河」と較べて、三船敏郎の演技としてはこちらの方が見応えがあるに違いない。いわば、彼の晩年の代表作といえる作品である。


陣幕の中で出陣前の武士たちに茶を立てる利休

奥田瑛二が演じる本覺坊というのは、一応実在の人物ではあるらしいけれども、ただ実在したらしいというだけで、別段、利休に関する文章などは残していない。要は特に有名ではない無名の弟子の本覺坊という人物を通して、彼の語りという形で井上靖が利休の最期についての謎に迫った作品である。



冒頭、枯山水の庭が映り、その後、暗い霧の中の磧(かわら)の道を雲水姿で1人歩いていく師匠、利休の背中を追って、本覺坊が磧(かわら)を追いすがる。三船敏郎の利休はつと振り返ると、手を無造作に一払いして「もう、帰りなさい。 …この道は常の道ではない」と言う。昔、最初に見た頃は、この「もう帰りなさい」に続く一連のセリフがあまりにも棒台詞の上に調子が重すぎて、利休としてはいかめしすぎないかなぁ…と思ったりしたものだった。三船敏郎は、いつのころからかセリフ廻しで声を唸らせるようになり、まっすぐスーっと声を出さなくなってしまった。重みを出すためなのか、そういう役が多かったせいか、とにかく咽喉声で唸るのである。もっと普通に声を出せばいいのに、なんで唸るんだろう?と思ったりした。これだけは残念だ。年を経るに従って重鎮の役が多くなり、そういう重みを出すために唸っているうちに普段からそういう語り口になってしまったのかもしれない。が、声そのものは良いんだから若い頃のように普通に声を出せばいいのに、と思うのだ。利休役でもやはり唸っている。



その唸り声は気になるが、姿は贅肉の一切無い研ぎ澄まされた姿で、宗匠姿がよく似合い、背筋のぴしっと伸びた美しい座姿は「端正」という言葉がふさわしい。剃髪した形のいい頭に載せた宗匠頭巾も、とてもよく似合っていた。三船敏郎は老境に入っても、やはり「美」を持っていたという事を改めて認識した。
そして、セリフを言わない時にもその姿から、本作での利休の研ぎ澄まされた何か、究極の世界に身を置く者の覚悟、死を覚悟した人の厳しい潔さが伝わってくる。そして何より、宗匠姿の三船敏郎はどのシーンでも端然として厳しくも美しいのである。あぁ、さすが三船敏郎。精神的にも肉体的にもたるんでいない。少しのゆるみもない。きりっと立てた背筋が美しい。贅肉のない引き締まった頬の線が美しい。


茶人まで似合うとは…さすが三船敏郎 当初はミスキャストかと思ったがやはり良かった



物語は、利休が秀吉によって死を賜ってから(切腹を申しつけられてから)、27年後の設定である。利休の死後、洛北の侘び住いに隠れ住んで、利休の位牌を守り、日夜、師匠と語らっている本覺坊。それは利休の霊なのか。それとも本覺坊の心の中に生きつづける師匠の姿なのか…。



ともあれ、洛北に隠棲する本覺坊が師匠について折々回想し、織田有楽斎(萬屋錦之助)と交流し、その瀕死の床を見舞い、師匠の死の前の心情について語る。本覺坊が有楽斎とともに利休の死にまつわる謎に分け入っていく中で、利休と二人の弟子、山上宗二(上條恒彦)、古田織部(加藤剛)が、侘び数奇者として「死」の同盟を結んでいたのではないかという結論に行きつく。彼らは戦国乱世の茶人だった。これから出陣する武将たちにはなむけの茶を立てて、戦場へ送り出した。そのまま戦死した者も多かった事だろう。太閤秀吉が天下を平定し、戦乱の世は一度終わった。権勢並ぶ者なき秀吉との関わりの中で、利休は草庵茶室を作ってそこに籠もった。反骨精神の強い山上宗二は再三にわたって秀吉を怒らせ、遂に耳と鼻をそがれて斬首される。が、映画「本覺坊遺文」では、宗二は捕らえられつつも秀吉に向って着物の前を開き、自ら切腹したという形で描かれている。腹を切ったあとで、耳と鼻をそがれて斬首されたという事であろうか。ともあれ、まず、山上宗二の死があり、そして利休が切腹し、家康の茶頭になっていた古田織部が、大阪夏の陣の際に豊臣方に通じていたという詮議を受けて捕らえられ、切腹する。



切腹三昧の映画のようだけれども、目を覆いたくなるようなそのものズバリのシーンはない。
萬屋錦之助演じる織田有楽斎は、「まるで名のある茶人はみな、腹を切らねばならぬようではないか。わしは腹は切らん!腹を切らんでも茶人だよ」と言う。言って自嘲的に哄笑し、ふと苦く押し黙る。


織田有楽斎を演じる萬屋錦之助

利休が何故、突如、太閤の勘気を蒙って堺に所払いを命じられ、また、切腹を命じられたのかは、本作でも憶測の域を出ない。本覺坊は「朝鮮出兵を批判したからではないか」という自分の見解を利休の孫である千宗旦(川野太郎)に語る。
一般的に囁かれているところで一番有名な理由としては、大徳寺の山門の上に自分の木像を設置して、その下を太閤に潜らせようとした、という難クセとしか思えないものがある。それ以外では、娘を妾に差し出すのを拒んだから、とか、安い茶器類を高額で売って私腹を肥やした、とか、秀吉の側近があまりの利休の重用のされ方を嫌って讒言したとか、諸説ある。勅使河原宏の「利休」で描かれていたのは、権力者・秀吉と、茶人・利休の対決-信長に仕えていた頃を懐かしむ利休が、成り上がりの秀吉を内心ではどうしても受け入れる事ができなかった様子、そして石田光成との不和などが描かれている。


勅使河原宏監督「利休」

ともあれ、秀吉は何がどうでも利休を切腹させようとは思っていなかったという説もあり、「本覺坊遺文」でも、堺から京に呼び戻された利休が、最後の茶を立てていると、秀吉がにじり口から茶室に入ってきて「切腹しなくてもよい」と利休をなだめようとする。芦田伸介の秀吉は、狂気の権力者に近かった晩年の秀吉像を名古屋弁丸出しでギラギラと演じていた「利休」の山崎努の秀吉に較べると、非常にマイルドで上品である。(謝れば赦すんだから)意地をはらず、ムキになるな、という意味の事をやんわりと言う。利休を失いたくないのだ。だが、三船利休は「そういうわけには参りません」とこれをキッパリとしりぞける。



実際にも利休は一言の申し開きも謝罪もせず、さっさと切腹してしまった。乱世の時代に、合戦に出る前の武将たちに茶を立ててきた利休は、自分の茶は常に死と隣り合わせにあるものだった事を、秀吉から切腹を申しつけられた時に再認識するのである。そして、長い間の悪夢のような権力者の茶頭という立場から自由になり、本来の自分の道(冷え枯れた磧(かわら)の道)を行くために、決然として腹を切ってしまう。
三船利休は、最後の芦田秀吉との対話から、その後、床の間の花に向けて、水を含ませた榊をシャッ!シャッ!を揮うシーンにいかにも彼らしい気迫が籠もっていた。桜を背景に白装束で座っているシーンも美しかった。





瀕死の病に倒れた有楽斎に請われて、利休の末期の心境について語る本覺坊。有楽斎は深く納得し、常に死地に向う人のために茶を立ててきた利休の立てた幻の茶を喫し、目の当たりに利休の切腹を幻視しつつ、自らも瀕死の床で腹を切ったつもりになる。そして1人、27年遅れて、乱世の茶人の道を辿って行くのである。
この映画の撮影時、萬屋錦之助はもうあまり体調がよくなかったらしいのだが、持てる力の全てを出して織田有楽斎を演じているという雰囲気が強く伝わってくる。有楽斎が利休に殉じる擬似切腹のシーンは原作にはないらしいが、錦兄ィの花道として、このシーンがあって良かったと思う。



絢爛豪華な桃山文化を背景に、勅使河原宏が自ら生けた花で茶室を飾った「利休」と較べると、「本覺坊遺文」は全体に枯山水のようなトーンが効いている映画である。利休の人物像もそれぞれに異なる。どちらがどうという事ではなく、どちらもそれぞれに見所があり、見応えがあっていい映画だと思う。でも、若い頃に観た時にはあまりよく分からなかった「本覺坊遺文」について、今回久々に再見してみて、こういう映画だったのか、と納得できたのは嬉しい収穫だった。70歳に近づこうとする三船敏郎の端正な佇まいが、余分なものを削いで削いでそぎ落として、エッセンスだけが残ったような厳しい美しさを湛えていて、「三船敏郎は老境に入ってもやはり美しい男であった」事を認識できた事も、ワタシにとっては大きな収穫だった。



*****
本編放映後のインタビューで、奥田瑛二が熊井啓監督や、三船敏郎、萬屋錦之助について語った部分も面白かった。俳優だけに、それぞれの口調を真似てのいわゆる声色でその話を再現するのも、よくイメージが伝わった。錦兄ィは、巻き舌の江戸っ子弁で、甲高い声で話す様子が目に見えるようだった。また三船敏郎も、映画と同じ語り口で重々しく唸りながら話していたようだ。少し打ち解けてきた時に、奥田は三船敏郎にどうしても訊きたかった事を直球で訊いてみたという。それは「黒澤監督と仲が悪いという噂がありますが、本当はどうなんですか?」という質問である。(よくやった!)三船敏郎は唸りながら「いや、仲は今でも良い!」と答えたそうである。また、その頃はまだ三船敏郎は例の愛人とは別れていなかった時期だと思うのだけど、撮影現場には長男の史郎さんが(三船プロダクションの社長としてでもあろうが)付き添ってきて、ずっと撮影を見守っていたらしい。史郎さんによると、三船敏郎は朝五時に起きて家の中に貼った自分のセリフを一通り1、2時間声に出して読んで、それから撮影に向ったという。



ワタシは、史郎さんが三船敏郎を撮影所や現場に送り迎えし、撮影中もじっとその様子を見守っていたという話に、何かとてもホっとするものを感じた。史郎さんは偉大な父上について思い出すことなど沢山おありだと思うのだけど、何か書かないのかしらん。もしそんな回想本が出版されたら、ワタシはもう即行買いますけど…。(笑)

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