「華麗なるギャツビー」(THE GREAT GATSBY)

-見果てぬ夢、届かぬ夢-
2012年 米 バズ・ラーマン監督



前にも「映画の中の1920年代および30年代」という記事に書いたけれども、この作品は、制作されると聞いて期待し、ギャッツビーをデカプーが演じると知ってから興味薄になっていたのが、昨年トレーラーを見て、ローリング・トゥエンティのムードがよく出ているようだし、キャリー・マリガンのデイジーと、トビー・マグワイアのニックがはまり役のようなので、やはり見ておこうという気になっていた。 というわけで、封切られたので早速観てきた。



タイトル・デザインからしてアール・デコ満載。そして、毎日毎日、シャンパンの泡の上でチャールストンを踊っているような狂騒の20年代の空気がバックグラウンドとしてよく表現されていた。美術も、衣装も、脚本も、撮影も、演出も、そして配役もドンピシャリ。見る前はデカプーがギャッツビーじゃ興味索然だねぇと思っていたワタシ。自邸のパーティに隣人のニックを招いて、思わせぶりに遅れて登場し、振り向きざま、「どうも。ギャッツビーです」と自信満々の笑顔がドアップになったシーンでは、胡散臭い日焼けマシンで焼いたような肉付きのいいオレンジ色の顔で、「キマった!」とでもいいたげなデカプーに思わず吹き出してしまったワタシではあるけれども、映画を観ていくうちに、演出と、デカプーの演技力もあって、やはりきっちりと役にはまっていたのはサスガだった。御見逸れしました。



原作と少し違うのは、事件のショックからか酒びたりになり、サナトリウムに入っているニックが、苦悩を癒すには文章を書くのが一番いいと医師に薦められて、ギャッツビーとの出会いから別れまでを回想し、それを文章にする、という部分である。原作に忠実という点では、その死後にギャッツビーの貧しい父親が息子の大邸宅を訪ねてくるという部分まで、1974年版の方がより忠実に作っていたとは思うが、映画としてはキャスティングのハマり具合からしても、2012年版の方が断然良いと思う。



1974年版と明らかな差が出るのは、デイジー役。キャリー・マリガンのハマリっぷりは想像通りで、白くて細くてフワフワ、キラキラしていて、デイジー役には、まさに打ってつけだった。ブロンドのショートボブもよく似合っていたし、生まれた時から絹にくるまれ、富と家の名前に守られ、夫の浮気以外は苦労知らずで来て、自分は指一本動かさずにボヤーっとしているうちに、他人が何でも尻拭いしてくれる事に慣れきっている乳母日傘で育った女の浮遊感と、そんな環境が失われる事を心底では最も懼れているという部分をよく出していたと思う。デイジー初登場のシーンの演出も、彼女のフワフワ、キラキラと現実の上に浮遊しているような雰囲気がよく出ていた。

とにかく全編、実にお金が懸かっている。ふんだんにお金をかけて作品世界と時代色を構築している。ロング・アイランドのイースト・エッグ(上流階級の住む地域)と、入江を挟んで対峙するウエスト・エッグ(新興成金の住む地域)のそれぞれの水際に建つ、デイジーの住いとギャッツビーの住い、その内装、その外観ともに、いかにもそれらしく構築されている。殊に、女好きでプライドだけは高いが、人としては低劣な男であるデイジーの夫トム・ブキャナンの屋敷は、主人がどんなに人として低レベルな男であっても、やはり室内装飾や調度品は落ち着きがあり、コケ脅かしの派手さなどは必要としていない雰囲気がある。それは「昨日今日、金持ちになったわけではない」という空気である。



一方で、ムリに背伸びして巨万の富を掴んだギャッツビーの屋敷は、やはりそこはかとなく胡散臭い成金臭にまみれている。そのへんの対比も見物である。(ブキャナン邸はあまり登場しないけれども)ただ、そのギャッツビー邸の胡散臭い成金臭が、夜毎にその屋敷で開かれる大パーティのランチキ騒ぎに、とても似つかわしいのである。ギャッツビーが対岸のデイジーの耳目を引き寄せようと、ただそのためだけに馬鹿げた金を使って、NYの遊び人に無料開放しているような大パーティのシーンに、20年代というジャズ・エイジのエナジーがスパークしていた。



20年代はバブル時代だった。株価は高騰を続け、摩天楼は空に聳え、人々は禁酒法などどこ吹く風で密造酒を飲んで浮かれ騒いだ。今日も明日も沈まない太陽を追いかけるように、人々は享楽に酔いしれた。シャンパンの金色の泡の向うに虹が浮かび、男も女もチャールストン・ダンスで飛び跳ねた。彼らはフレミング・ユース(燃え上がる青春)を謳歌したのだった。

ギャッツビーのパーティで、余興に歌やダンスのショーを披露していた芸人は多分、キャブ・キャロウェイなのだろう。1920年代、30年代のNYのショービジネスを表現するのに、コットン・クラブの花形スターだったキャブ・キャロウェイほどふさわしい人は居ないだろう。本作は時代が20年代なので31年にリリースされた代表曲「ミニー・ザ・ムーチャー」は歌われなかったけれども、白か、淡いピンクのテイルコートで、長い前髪を振り立てて陽気に歌うその様子で、キャブ・キャロウェイを登場させたのだな、と分った。



自邸を開放して、招待もしていない連中がらんちき騒ぎをするのを、ギャッツビーは高いところから一人、眺めている。そして、宴が果てると屋敷の前の波打ち際から伸びた桟橋の突端に立って、対岸の屋敷の桟橋の灯りをみつめる。そのグリーンの灯りは、彼が手を伸ばして、そこに到達したい人生の目標、見果てぬ夢なのである。

ディカプリオのギャッツビーは、極貧の家に生まれた野心家の男が、偶然掴んだチャンスを生かして、上流階級の一端に触れ、そういう世界がある事を知る。そして自分の生まれを忌み、別な何者かになりたいギャッツビーは、中西部の名家の娘デイジーと軍人として出会うのである。二人の間には忽ちロマンスが盛り上がった。それは、女にとっては過去の美しい思い出であり、男にとっては生涯を賭けた夢だった。彼女はただの美しい女ではない。ただの昔馴染みではない。彼女はギャッツビーが生まれたかった世界に属する女であり、彼がこれから到達し、手に入れたい世界に生きている女である。デイジーはギャッツビーにとって、人生を賭けて追いかける夢と憧れの象徴なのである。だから、入江を隔てて遠く光る彼女の住む屋敷の桟橋の灯りは、到達点を示す目印として、彼を惹きつけてやまないのだ。

裏ではどんな後ろ暗い事をやって稼いでいるにせよ、ギャッツビーがデイジーを一途に思っていることはまるで初恋の少年のようで、その大掛かりで意識過剰な様子は、滑稽でもあり、いじらしくもある。



デイジーをニックの小さなコテージにお茶に招いて欲しい、そこに偶然来合わせたように装って再会したい、というギャッツビーの希望を叶える事を快く了承したニック(トビー・マグワイア)に、ギャッツビーは報酬を出そうといいかけるが、ニックはそんなものは要らないと笑う。無償で他人の好意を受けた事のないギャッツビーは、ニックの笑顔にとまどう。ギャッツビーの対人関係のぎこちなさがデカプーの演技でよく表現されている。そして、花に囲まれたニックのコテージの小さな居間に、これでもかと蘭を運び込んだギャッツビーの、滑稽なまでにしゃっちょこばった、てんてこ舞いの上ずった様子がいじらしかった。ここらへんまで来ると、デカプーが人相が悪くなった事もほとんど気にならなくなる。むしろ、あのぐらいアクがないと遮二無二、裏の世界で手を汚して巨万の富を掴んだ男のありようや、またそんな裏側とは裏腹な「夢の女」への純情が際立って見えてこないのかもしれない、とも思うようになった。観る前は、なんでライアン・ゴスリングをキャスティングしないのかしら、センスがないわ、と思っていたのだが、ゴスリングはデカプーよりも少し若くてスマートで綺麗だし、お坊ちゃんぽく見えて、どこか胡散臭い成り上がり者という空気もちゃんと出したであろうけれども、ただでさえ「ロマンティック」な人間であるギャッツビーを、いまが旬のハンサムマンであるゴスリングが演じると、過剰にロマンティックになりすぎ、甘味が効きすぎになったかもしれないなと思った。


時折、ドン引くほど人相悪かったりもするのだけど…

余談だが、小さなバラのアーチのあるニックのコテージは、小さいけれどもとても住み心地の良さそうな住いで、ワタシはこのコテージが一番気に入った。内装も素敵だったし、3人でのティータイムのためにニックが紅茶を入れる黒いティーカップと銀のポットなども、素敵なデザインだった。ワタシは大邸宅なんかより、余程あのコテージに住みたい。


ニックの居心地のよさそうなコテージの居間

そして、そのこぢんまりとしたコテージの居間に、花に囲まれてデイジーが佇んでいるシーンは本作中でも特筆すべき美しいシーンだろうと思う。まさに夢の女そのもの、様々な世知辛い事や苦い事の起きる浮世の上に、何からも影響を受けずにふわりと浮いているような夢の女の雰囲気が漂っていた。デイジーの衣装の藤色が、白や淡い黄色の花々の中でしっとりと引き立っていた。



それにしても、ギャッツビーというのは猛烈に、徹頭徹尾ロマンティックに出来上がった男である。自分の夢の象徴としての一人の女に徹底的にいれあげる。激しく志向する。彼女にふさわしい男になるために手段を選ばない。何があろうと愛し続け、求め続ける。相手はフワフワ、キラキラとしているだけで、まるで実体のない、魂の抜けた、甘やかされただけの金持ち女である。そんなにも想い続ける値打ちもない女、さよならの値打ちもない女である。デイジーとトムのブキャナン夫妻は、自分たちの各々の罪を死んだギャッツビーにおっかぶせて、何もなかったようにロングアイランドを後にする。ギャッツビーは死んでもなお、デイジーと彼女の住む世界を愛し続けているに違いない。それは見果てぬ夢、永遠に届かぬ夢、だからこそ眩いとこしなえの夢なのだ。そんなにまでも全てを賭けて何かを追う事ができたというのは、ある意味、ギャッツビーは幸せだったとも言えるかもしれない。人間誰しも、そこまで完全燃焼はできないし、死ぬまで(おそらくは死んでからも)見果てぬ夢を追い続けることはできないのだから…。



この作品の魅力は、ジャズ・エイジという時代、そして、その時代が生んだ鬼っ子のようなギャッツビーという男を通して、ほろ苦い夢の帰結と青春の蹉跌が描かれ、それが東部の華やかさに憧れつつも同化しきれず、常に冷静に周囲と自分を観察している西部の名家出身のニック・キャラウェイという人物の目を通して語られ、あわ立つジャズ・エイジのきらめきの儚さ、らんちき騒ぎのパーティが夜明けと共に果てたあとの、茫漠とした虚しさ、人生の一瞬の輝き、束の間に燃え上がる青春のきらめきなどが、1人の男のシニカルなライズ&フォールの中に砂漠の花のように浮き上がっているところにあるだろう。なお、本作でも1974年版と同様に、東部と西部の対比、という角度からの視点はなかったけれども、それは原作を読んで味わえばいいのかもしれない。

また、保養地のロング・アイランドとNYの中心部の間にある、貧困と石炭にまみれた荒涼とした「灰の谷」と、そこに取り残されたT.J.エクルバーグ博士の巨大な目の看板は、何故か1974年版と全く同じに見えた。まさか、同じ目の看板を使ったわけではないだろうけれども、物凄く似ていた。尤も、メガネをかけた青い目だけの看板といえば、同じようなものしか作りようがないのかもしれないけれども。

***
トム・ブキャナンを演じていたのはジョエル・エドガートンという俳優で、ワタシは本作で初めて見たけれども、トム・ブキャナンにピッタリだった。顔つきも、憎々しい態度も、スポーツが達者なだけで頭の良くなさそうな感じも、ずるそうな雰囲気も、オールOKだった。
そのトムの愛人のマートルを演じていたのは、どこかで観た気がするけれども、誰だっけ?と思いつつ眺めているうちに、あ、お買い物上手な彼女じゃないの、と思い出した。1974年版では、カレン・ブラックが食い付きそうに大きな口で演じていたが、今回のアイラ・フィッシャーはカレン・ブラックほどなインパクトもなく、どちらかといえばプチプチしてカワイイ系の女優なのが、ベティ・ブープのようなフラッパー・モードで頑張ってはいたものの、あまり適役とはいえない感じがした。



デイジーの友達である女性ゴルファーのジョーダンを演じていたのはエリザベス・デビッキという女優で、この人も本作で初めて見たけれども、ブルネットのショートボブがよく似合い、スレンダーな長身で、しみひとつないような白い綺麗な肌と上から目線の大きな目が印象的だった。ジョーダンという役にもよく合っていたし、とても雰囲気のある人なので、これから色々と出るようになるのではないかと思う。



オブザーバーであるニック・キャラウェイはトビー・マグワイアで違和感なし。トビーとしては些か演じ甲斐のない役だったかもしれないが、こういう役はギャッツビーのような役よりも難しいようにも思うのだけど、出すぎず、引っ込み過ぎずに過不足なく演じていた。

ニック・キャラウェイが、原作よりもずっとギャッツビーにシンパシーを感じて、生活が荒れてサナトリウムに入るまでになる、という設定はニックとしてはいささか感情的過ぎるのではなかろうかと思ったけれども、それはそれとして、撮影も非常に綺麗だったし、美術も衣装も素晴らしかったし、何より時代色がよく出ていて、キャスティングがピッタリとはまっていたので、最初から最後まで違和感なく、気持ちよく観る事ができ、映画の世界に楽しく浸ることができた。もう一度観たいシーン(主にキャリー・マリガン絡みのシーン)も幾つかあるし、大好きな20年代がよく再現されていたので、その雰囲気に浸るために、もう一度観に行こうかなと思っている。

***関連記事***

「華麗なるギャッツビー」(1974年版)

「映画の中の1920年代および30年代」

コメント

  • 2013/06/16 (Sun) 19:59

    kikiさん、ご無沙汰です。
    本日見てきました!! なんとなくkikiさんもこれ見に行かれるのでは、という気がしてましたが、やっぱり!!
    狂乱(!)のパーティシーンとか見てて楽しかったですねえ。20年代ってこんなふうだったのか。ストーリーも面白かったけど、映像的に目の保養だったなあと。
    キャリーちゃん、可愛かったですよね。フワフワしてましたね。
    デカプー、ほんとに人相悪くて最近のデカプーを久々に見たのでビックリでした。
    デカプー邸で壁に備え付けられた棚から色とりどりのシャツをぱーんと放るシーンがわたしは好きでした。
    74年版も見たいと思ってますが、kikiさん的にはデカプー版のほうがよいとのこと、見較べてみたいと思います!

  • 2013/06/16 (Sun) 20:45
    Re: タイトルなし

    おおー。ミナリコさん。お久しぶりですねぇ。お元気でした?
    そして、観にいかれましたのねー。20年代の空気感がいい具合に炸裂してましたね。ギャッツビー邸のパーティに芸人が入って華やかなショーを繰り広げるという設定は、いかにも「ムーラン・ルージュ」の監督ならではだなぁ、とニヤリとしましたわ。で、その色とりどりのシャツをギャッツビーが投げるシーンについては1974年版のレビューで書いているので、今回は割愛しました。というか、そのシーンに限っては74年版の方が良かったんですわ。シャツの色もきれいだったしね。でも、映画としては今回の方が断然良いです。デカプーも観る前に思っていたようなミスキャストじゃなかったしね。CGを駆使して昔のNYも再現していたし、映画全体の雰囲気と、キャリー・マリガンと、美術と衣装と映像が素晴らしかったので、観たいものを見せてもらった、という満足感がありました。暫くしたら、もう一度観にいこうかなと思ってます。
    で、74年版は女優陣のキャスティングが個性的過ぎて、なんでまたこんな…という感じではありますが、見比べてみるのも一興かもです。

  • 2013/10/12 (Sat) 22:50

    ご無沙汰いたしております。
    ギャツビー、ビデオで見るより映画館向きですね。
    色の氾濫(バズラーマンらしいですね)が堪能できそうでティファニーの宝飾と衣装が目当てで見たのですが、意外に 芝居がかっていて楽しめました。

    デカプのギャツビーは後ろめたい男の単純な純情っぷりがよくわかりました。
    特にニックの家のシーン。

    それにしても、デイジーじゃなくてニックを友人に得たことのラッキに気づければよかったのにね。
    まあ、それじゃお話にならないんでしょうけど。

    ギャツビーはレッドフォードでもいい気がするけど、ミアファローよりはキャリーマリガンのデイジーの方がいいですね!
    可愛くて甘くて芯の無い女の子って感じで。

  • 2013/10/14 (Mon) 20:05

    cocoさん こんばんは。

    そう。今回のバズ・ラーマンの「ギャッツビー」は映画館で観た方がよさげですね。彼としては、ギャッツビー邸のパーティシーンに精魂傾けているという気配がぷんぷんと漂ってきます。ほんと、ああいう煌びやかなショー的な場面、好きそうですよね。
    デカプーのギャッツビーは、ニックの家にデイジーを招くシーンで純情大爆発・大炸裂でしたね。滑稽なほどにね。
    キャリー・マリガンは、あのふわふわ感といい、浮世離れした様子といい、ほっそりしていながらマシュマロみたいに柔らかそうな感じといい、役にピッタリでしたね。ワタシは、他の役はそのままで、ギャッツビーだけライアン・ゴスリングに差し替えたものを観てみたいですわ。

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