「鑑定士と顔のない依頼人」(THE BEST OFFER)

-肖像画しか愛せない男が生身の女に惚れた時-
2013年 伊 ジュゼッペ・トルナトーレ監督



数ヶ月前にトレーラーを見て以来、封切りを楽しみに待っていた作品。トレーラーを見て期待した通りの世界を見せてもらったと思う。何のサービスデーでもない平日の夜に、シャンテのシアターはほぼ満員だった。

この映画は、細かい事を考えたり、先読みや裏読みをせず、素直にジュゼッペ・トルナトーレが提供してくれるヨーロッパのエッセンスとミステリアスなムードに身を委ねて見ればいいと思う。心地よく身を委ねる事が一番いい観賞法のような気がする。とにかく、始まってすぐから心地よく映画の世界に引き込まれて行く。見るからに濃いヨーロッパ的な陰翳と思わせぶりの世界に…。
そして、オーストラリア人俳優ジェフリー・ラッシュは、見事にこの世界にはまり込んでいる。監督は主人公の鑑定家として、彼のイメージを脳裏に描き、アテ書きで脚本を書いたそうだけれども、まさに、彼以外の一体誰がこの役を?という当り役だった。

梗概:一流の美術鑑定士にして、カリスマ的オークショニアのヴァージル・オールドマン。極端に人間嫌いで独身を貫く彼が唯一愛情を注ぐのが、女性の肖像を描いた名画たち。これはと思う肖像画が出品されると、相棒のビリーを使い、不正な手段で自分のコレクションに加えてしまうのだった。そんなある日、彼のもとに、亡くなった両親が遺した家具や美術品の鑑定をしてほしいという若い女性からの依頼が舞い込む。ところが依頼人は、決してヴァージルの前に姿を見せようとはしなかった。憤慨するヴァージルだったが、依頼人の屋敷である歴史的名品の一部とおぼしき部品を発見してしまい、この依頼を引き受けずにはいられなくなる。そして屋敷に通ううち、姿の見えない依頼人に少しずつ興味を抱き始めるヴァージルだったが…。(all cinema onlineより)

冒頭から暫し紹介される、主人公の鑑定人兼オークショニアのヴァージル・オールドマンの人柄と生活が映画としてとても魅力的に描写されている。あの色も素材もとりどりな、専用の壁一面の棚さえある手袋の数々。あまりにも数多い手袋は、あまりにも数多い靴と同様に、その持ち主の病的なこだわりや精神的な病理を示唆していると思う。潔癖症で人嫌いのヴァージルは、他人に素手で触れるのが嫌であり、食事をするときでさえ手袋をとらない男である。冒頭近くにヴァージルが一流レストランに食事にいくシーンがある。彼は恭しく店の人間に案内されてテーブルにつく。と、小さなガラス張りの食器棚から、ヴァージル専用の食器やグラスが取り出されてテーブルに並べられる。食器はご大層に彼のイニシャル入りである。そこで傍の見る目も構わずに、彼は手袋をはめたままで一人食事をする。偏屈な変人の鑑定家。




食事をする時でも手袋をとらない男

そして、彼の手袋コレクションの棚の背後には、彼の生涯の精華ともいうべき、真打のコレクションが隠されている。それは年代も、額縁の形や大きさも様々な、女性の肖像画のコレクションだ。出入り口のある壁以外の三方の壁をくまなく埋め尽くす、様々な時代の、様々なスタイルの女性の肖像画たち。肖像画の女性というのは不思議である。みなポーズを取り、絵を見る人間に向って物いいたげな眼差しを向け、その体の捻り方、視線の投げかたには、まごうかたなき媚態が窺える。肖像画の中から、数え切れぬほどの女性がヴァージルに媚態を示している。彼一人に。もはや髪には白髪の方が多くなった年でありながら、女を知らぬ独身のヴァージルは、これらの絵の中の女達のものいいたげな視線を一身に浴びて恍惚とする。物言わぬ肖像画たちは彼に逆らわない。黙って莞爾と微笑みつつ、彼だけに媚態を示すのである。むろんヴァージルも彼女たちをこよなく愛する。それは彼だけの密かな愉悦。誰も知らない、穏やかに閉じられた幸せな世界である。彼はこれらの肖像画たちを、自らがオークショニアを務めるオークションで不正な手段で競り落とし、自宅の壁の向うに隠して来たのだ。



孤独で人間嫌いのヴァージルは、自分の審美眼のみを信じる男である。真贋を見分ける目は誰にも負けないと過剰に自負している。そして、かつては画家だったが、ヴァージルによって凡庸という評価を下された友人のビリー(ドナルド・サザーランド)は、今や彼とグルになってオークションでヴァージルが望む絵画を表向き競り落とす役目を引き受けている。その絵はのちほど、落札額+αの金と引き換えに、ひっそりとヴァージルの元に渡るのである。
ヴァージルがオークショニアとして壇上で「さて、それでは本日の最良の出品物(The best offer)です」と呼ばわると、その作品はその日のヴァージルのお目当てだというサインである。ビリーは周囲の収集家達に負けずに、何がどうでもその出品物を競り落とさなくてはならない…。




ヴァージルと組んで「最良の出品物」を落札するビリー

世界の美術界を股にかけて活躍するヴァージルに、ある日突如としてかかって来た若い女からの電話。女の、両親の遺産の査定の依頼を迷惑がりつつも、引き受けるハメになってしまうヴァージル。そこには、けして人前に姿を現さないという依頼人の若い女への抑え切れぬ好奇心があった事は否めない。この謎の依頼人の住む「ヴィラ」の佇まいが秀逸だ。その古び加減といい、謎めいた雰囲気といい、物語の舞台として申し分ない。

面白いのは、この映画は監督がイタリア人で、イタリア映画だし、作品中に登場する風景の殆どはイタリアの町の風景だと思うのに、主人公の名前はヴァージル・オールドマンであり、セリフは英語である。イタリアで公開する時には、セリフはイタリア語版になるのかもしれないけれども、主人公は名前からしてイタリア人ではない。そういう設定が、欧州のどことも知れない国の、どことも知れない町の話、という不思議な無国籍性を生み出し、特定の土地に縛られていないという事が、いよよ純粋に、その物語の世界に観客を誘うのである。



そして、気まぐれでエキセントリックで、「広場恐怖症」という対人恐怖のパニック発作を持つ謎めいた若い依頼人の女性クレアに対して、観客はヴァージルと同じぐらいの好奇心を持って、映画の世界に入り込むのだ。彼女は、最初は「声」だけ、次には壁の覗き穴から覗く「目」と壁越しの「声」になり、そして遂にヴァージルの前にその姿を現すのだが…というわけで、ここからは見てのお楽しみである。
クレアを演じるシルヴィア・フークスは痩せぎすで神経性的な様子が、それなりに役に合っていたと思うけれども、ただの若い娘のようにも見えたので、もう少しミステリアスな雰囲気のある美女でも良かったのではなかろうか、と思った。思ったけれども、もちろん悪くはなかった。



映画の始まりから折に触れて描写される、ヴァージルのいびつな人間性、傲慢さ、尊大さ、自己中心主義、自分の鑑定眼への過剰な自信、周囲の人間への無関心は、物語の根幹に深く関わってくる事柄であるだろう。

見終えると、これは自らの生き方に復讐された男の話なのだな、と気づく。全てはヴァージルの、あまりの傲慢さ、あまりの偏狭さ、あまりの自惚れ、あまりの尊大さが惹き起こした事ではないかと思える。得意満面だった彼に、ほんの少しの妥協心や慈悲心があれば、誰もあんな手の込んだしっぺ返しは企まなかったに違いない。彼はごくごく近しい業界の友人知人の間でも、鼻持ちならない嫌われ者だったのだろう。あんな手の込んだ復讐を企まれるほどに、それはシビアなものだったのだ。それゆえに、ゲームのように、その茶番劇は仕組まれたのである。それはあらゆる意味で彼を試し、成功すれば、彼を徹底的に損なう事のできる残酷な茶番劇だった。これを仕掛けた人間には目的が2つあった。ヴァージルには、本当にモノやコトの真贋を見抜く目があるのかをテストすること。そして、これまで散々、何食わぬ顔で収集家の目の前から「最良の出品物」を掠め取って来た彼が、それを奪われた時に甚大なショックを受ける様子を人知れず見届けること。あるいは直接見届けずに想像して楽しむこと…。
仕掛け人は、彼の手元に最後に1枚残った肖像画を描いた人物であるだろう。長年、身近に居て、どんなものがヴァージルの興味を惹き、どんなものに魅せられるかを知り尽くした人物…。彼が全ての源なのだ。若い男も、若い女も、彼の意を汲んで動いたに過ぎないだろう。(彼らは仕掛け人の息子と娘ではなかろうか、とワタシは思うのだけど) もしかすると、若い男の方には残酷なゲームを楽しみたくなるような理由が、別個に存在したのかもしれないけれども、それは分らない。

途中から話に絡んでくる古びたカラクリ人形の、あの不気味な顔は、全てを奪われて虚脱したヴァージルを徹底的に嘲笑うためにのみ存在しているのである。カラクリ人形はただそれだけの為に登場するのであり、それがカラクリ人形である必然性はなかったのだが、監督のトルナトーレは何年か前から精巧なゼンマイ仕掛けのカラクリ人形に興味を持つようになり、それをどうしてもストーリーの中に登場させたくなった。そこで「ヴィラ」の地下室に、カラクリ人形の部品のごく一部分であるゼンマイ仕掛けの部品が落ちていたことが、ヴァージルをクレアの古い「ヴィラ」に惹きつけるための導線になり、カラクリ人形が少しずつ部品が揃って完成に近づいた時、ヴァージルにとってのカタストロフも訪れる、という展開になったのだと思う。そういう監督の「興味」を知らなければ、カラクリ人形の登場は、かなり唐突で面妖な印象ではある。



クライマックス、肖像画の女性たちは踵を返して一斉に去る。壁に額のあとだけを残して。それはあたかも、不本意な隷属を強いられてきた女達が、呪縛を解き放たれて、哄笑を響かせつつ去っていったようでもある。長年、好きでもない男にゆくりなくも所有されてきたけれども、その不本意な支配をやっと逃れる事ができた、もう二度と戻ってくるものか、と、そのところどころ額縁の跡が残った白い壁が冷ややかな笑いを浮かべているようでもある。


古い肖像画を触る時には手袋を外し、指先で愛撫するように汚れを払うヴァージル

ヨーロッパの陰翳を湛え、時に重厚感の漂う映像と、モリコーネの音楽を背景に描かれる、一人の男の破滅と新たな妄執の物語。モリコーネの音楽は時折、過去の作品のメロディを新しくアレンジしたような雰囲気の曲もあったが、映画の世界観とヨーロッパのムードにはぴったりと合っていた。また、肖像画ではなく、忽然と消えた生身の女への妄執にとりつかれた初老の男の煩悩をあますところなく表現するジェフリー・ラッシュの姿や演技にも、その音楽がとても似合っていた。
また、邦題も映画への興味をそそる上手い邦題だと思う。原題は「The best offer」(最良の出品物)。そういえば、ヴァージルが自分の秘書を務める初老の部下に「君は結婚しているか?」と尋ねる。部下は「もう30年もしています」と答え、「時折いまでも思うことは、妻が果たして『最良の出品物』であったのかどうか、という事です」とジョークを言うシーンで、映画館内の男性が殆ど全員、同意的な笑いを洩らしていたのが印象的だった。


どこを切り取ってもヨーロッパ

冒頭にも書いたけれども、トレーラーを観て、こういう映画ではなかろうか、と予想した通りのものを見せてもらった。久々に映画館で充実した時間を過ごした。映画の世界の中に気持ちよく漂う事ができた。昨今は、一応観たには観たけれども、何も書く気にならないという映画が多くなってきた中で、本当に久々の映画的満足感を味わった。
あの、「どこを切り取ってもヨーロッパ」な世界を味わいに、そして隠し部屋の肖像画たちにみつめられに、もう一度ぐらい映画館に行こうかな。

コメント

  • 2013/12/18 (Wed) 11:14

    こんにちは。
    はじめてコメントします。
    ある誌上でこの映画を紹介してあり注目していました。
    今回感想を読ませていただき、ますます見たくなりました。
    おっしゃる通り、鑑賞後「・・・」となってしまう映画が
    量産されているような気がしています。
    もう一度見たいと思う映画が少なくなりました。

    >最良の出品物であったのかどうかは・・・に対する
    世の男性の方々の反応には苦笑してしまいます。
    時を経て価値が変わらず、時には価値が上がり、あまたの審美眼にさらされて生き残ってきたある意味完成した本物のものたちと同様に評されると妻もたまったものではありませんね。
    夫婦は例外はあるにせよ相互作用的なもの。
    夫たちが自身の研磨に不足があったかもしれないことは棚にあがってますね。
    まあでも、終わりよければすべてよし、最後の最後に「最良の出品物だった」と言ってもらえるようにしましょうか。

  • 2013/12/18 (Wed) 11:38

    何処を切り取ってもヨーロッパ

    これ、からくり時計ですよね
    観た、見ました。
    天使の反対側に、骸骨が登場する。扉が開くまで、20分位、待った記憶あり。真向いのお店で、ジェラート食べながら、待っていた。

    映画の感想でなくて済みません(笑)・・・・

    • ジェード・ランジェイ #-
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  • 2013/12/19 (Thu) 07:35

    あんだーぐらうんどさん こんにちは。

    映画の感想、印象は人それぞれで、この映画についても「期待はずれだった」と思った人もいるかもしれませんが、ワタシはとても面白く観ました。一度は観て損のない映画だと思います。
    配偶者が「最良の出品物」だったのかどうか、という思いは、ある程度、男女共通のものかもしれませんね。ヴァージルの秘書が初老の女性で、自分の夫について同じ発言をしたら、映画館内では女性が同意の笑いを漏らしたんじゃなかろうかと。ふふふ。今は今で悪くはないけれども、別な選択肢もあったかもしれない、と思う事は誰にでもある事かも。迷いもなく「Best Offerだ」と言い切れればそれに越した事はありませんが、そうでもないところに人生のアヤがあるのかも。いずれにしても、終わりよければ全てよし、ですわね。

  • 2013/12/19 (Thu) 07:37

    ジェード・ランジェイさん

    そうそう。からくり時計ですよね。実物をご覧になったことがあるなんて、ステキング。ジェラートを食べながら仕掛けが出てくるのを待つのも、オツってものですわね。ふほほ。

  • 2015/05/24 (Sun) 21:00
    鑑定士と顔のない依頼人

     kikiさん、初めまして。

     この映画、最近DVDで観たのですが、観終わった後に誰かと話したくなる、そんな映画でした。

     誰かと話したくなるのは、この映画の結末です。kikiさんは、傲慢な老人が幸福の絶頂から奈落の底へ突き落される話だと捉えているようですね。私はちょっと違うのですよ。紆余曲折はあったけれど、最後は老人が幸福を掴むハッピーエンドの物語だと思うのです。つまり、オールドマンが待つあのレストランに、いつかクレアが現れると思うのです。偽物だらけの世の中で、真実の愛を見つける物語ですね。

     そう思う理由は二つです。

     一つはクレアの言葉。初めてオールドマンの秘密の部屋に案内された時に、クレアが呟いた、「たとえ何が起きようと、あなたを愛しているわ」。これから起きることを予感させる言葉です。そんなの口からでまかせでしょ!といったところでしょうけど、このクレアの言葉は、映画の中でキーワードになっている、「いかなる贋作の中にも、必ず本物が潜む」という言葉の具現化だと思うのです。この言葉が真実の言葉となるように、トルナトーレ監督は、メタファーをこの映画に潜ませているように思います。

     二つ目の理由は、この映画がトルナトーレ監督の作品だということです。
     彼の作品を全部観たわけではありませんが、彼は、「ニュー・シネマ・パラダイス」では、青年の恋と中年の愛を、「マレーナ」では少年の恋を、「題名のない子守唄」では母子の愛を描いてきました。これらの作品に通底しているのは、愛への賛歌、もっと言うと、女性への憧れ、尊敬の念です。勝手に羨ましく思っているのですが、恐らく彼は幸せな女性遍歴を重ねてきたのではないでしょうか。少年、青年、中年ときて、いよいよ老人(壮年?)ですが、そんな彼は、余程のことがない限り、自分より少し高い年齢設定をした男性を打ちのめすような映画を作るとは思えないのです。単なる願望と言えば、それまでですが。

     傲慢な老人が打ちのめされる話という感想と同じベクトルの中で、オールドマンが絵を失った場面を、不本意な隷属を強いられてきた女達が呪縛を解き放たれたように感じられたようですね。私はそこも違うように思うのですよ。クレアを秘密の部屋に案内した場面で、オールドマンは、肖像画の女性たちに愛されてきた、と言うのですが、それは彼の独りよがりな思い込みではないように思うのです。ただその絵の画家が誰かということでしか評価できない凡庸で馬鹿な金持ちより、その絵の真の価値を理解するものに肖像画の女性たちも所有されることを望んでいたのではないでしょうか。

     確かにオールドマンは、傲慢で奇矯な男ですが、真の美を知っている彼が、安易な妥協をせずに生涯独身を貫いてきたことに、ある種の清々しさを感じずにはいられません。

     初老の男性と若い女性(その逆でもよいのですが)の恋愛は成立しないのか?というのが、この映画の一つの問いかけです。今年のアカデミー賞を獲った「バードマン」の劇中劇にあったレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」にあるように、愛には前提を置かずにいろいろな形があってよい、というのがその答えのような気がします。
     勘違いすると大変ですが・・・。

     素敵なブログですね。(ありきたりな表現しか思い浮かばず、恥ずかしいです)映画を最近少し観るようになってきたので、時々お邪魔させていただければと思います。

     

  • 2015/05/25 (Mon) 21:55


    マチスさん 初めまして。

    そうですね。ワタシもこの映画を今年に入ってから久々に2度ほど観たのですが、最初に観た時と少し印象が変わって、これは「生まれて初めて、人を愛するという事を知った男の物語」なのだな、と思いましたよ。雨の夜にヴィラの前で暴漢達に殴られて血だらけになりながらも、「外に出ない」クレアがヴィラから走り出て来て、自分に付き添ってくれているのを見て、ヴァージルがストレッチャーで運ばれながら至福の笑みを浮かべますね。このまま死んでもいい、という程幸せそうな表情を。良かったねぇ、誰かを愛する事ができて、と観ていてつい思ってしまうシーンです。

    口を開けば嘘ばかりのクレアが唯一本当のことを話したのが、あの街のあのカフェの事だったわけで、あのカフェが実在したという事は、ヴァージルにとっては微かな救いであり、一縷の望みになったでしょうね。
    「待つ」という人生の目的が与えられたということで。

    何があろうと愛している、という言葉も嘘ではないかもしれませんが、ワタシはマチスさんの予想とは違って、クレアは愛してはいても、もうヴァージルの前には姿を現さないのではないか、と思います。その後、二度と会う事はなくても、心の中で互いにずっと思い続ける、というような愛の形かな、と。クレアはそういう選択をしそうな気がします。あれだけ手のこんだ裏切りに荷担してヴァージルを死ぬほど苦しめておきながら、また、暫くしたらシレっと何事もなかったように姿を現す、ということは、彼女はしないのではないか、と。ヴァージルが大喜びするのは分かっていても、それはまた別の問題ということで。
    まぁ、全ては憶測に過ぎませんけれども(笑)

    確かに、こういう映画を見ると、読書会みたいに、同じ映画を見た人同士で感想や印象、意見を語り合いたい、という気持ちになるのは、分かる気がしますよ。
    この映画なんかは、語り甲斐のある作品だろうと思います。

  • 2015/05/26 (Tue) 06:42
    鑑定士と顔のない依頼人

     こんにちは、kikiさん。

     そうですね、クレアは現れないかも知れませんね。様々な想像をめぐらすのが映画の愉しみであるので、何か一つの結論を導き出すということでもないですしね。

     ただ、前のコメントにメタファーと書いたのですが、この映画にはトルナトーレ監督が観客に向けて潜ませた仕掛けがあると思うのです。

     それは、あのオートマタです。
     拾ってきた歯車に製作者の名前が刻まれているのを見つけて、オールドマンとロバートが興奮してオートマタについて語る場面がありました。オートマタの謎とされているのは、誰かがこのからくり人形に質問をすると、必ず正解を答えたということです。二人の取りあえずの結論は、からくり人形の足元に小箱があって、そこに小人が潜んでいて質問に答えていた、ということです。ただ、なぜ正解を答えることができたか、ということはわからずじまい。

     この伏線は、クレアが消えてしまった後、オールドマンがヴィラに探しに来て、カフェの小人の女性に質問をした時に、クレアがそのヴィラから二百数十回も出てきたと正確に答えるところにつながっていきます。オールドマンはその冷徹な答えに打ちのめされるのですが、そこからさらにこの伏線は続いていきます。

     この映画の最後のシーン。プラハを訪れたオールドマンは、クレアが話していたレストランが実在することを知ります。たくさんの歯車がカラカラとまわる店内に、彼は入っていきます。まるで彼を待っていたように、一番奥の真ん中の席が空席になっています。そうあの店はオートマタを表していて、真ん中の席に鎮座した萎れたオールドマンは、小箱に入った小人を意味していると思うのです。

     ウェイターが質問します。「お一人ですか?」少し待って、オールドマンが答えます。「いや、連れを待っている」その瞬間にクレアがこの店を再び訪ねてくることが、間違いない事実となった、そのようにトルナトーレ監督は、仕掛けを施したように思えます。

     もう一つ、トルナトーレ監督が施した仕掛けは、女性の目、視線です。長くなるので割愛しますが、真実を見出す場面で目が重要な役割を果たすような構成にしているように思えます。

     もう絶版になっているようですが、鎌田敏夫というテレビの脚本家ですかね、彼が書いた「恋愛映画」という小説がありました。何本かの映画をモチーフにして、その映画を観た男女がお互いに感想を話しながら、映画を通してお互いの理解を深めていくといった内容だったと思いますが、ちょっと憧れたことを思い出しました。



     

  • 2015/05/27 (Wed) 06:43

    マチスさん
    トルナトーレ作品がお好きなんですね。ワタシは本作で初めてトルナトーレを観たので、この監督の傾向というのはよく知りません。トルナトーレの強い思い入れでオートマタがフィーチュアされた、というのは何かで読みましたが、オートマタがストーリーに絡んでくる部分はワタシ的には奇妙な違和感を感じました。でも、トルナトーレはオートマタに意味を持たせていた、ということですね。
    あのカフェの小人の女性はオートマタの中に潜んでいる小人のような役割だったのかな。全てを記憶していて数字に強いですね。そして、最終的にはヴァージルが、あのプラハのカフェでオートマタの小人そのものになる、と。
    確かに、あのオートマタに語らせている「いかなる贋作の中にも本物が潜む」という言葉は、クレアの愛は偽物のようだが本物だ、という事を現しているのかもしれませんね。

    クレアがあのプラハのカフェに現れるのか、現れないのか、それは観客がそれぞれ好きに想像してください、という部分だろうと思うので、ワタシは姿は現さない、という方に一票です。どこか物陰から、ヴァージルがずっと待ち続けているのを確認しつつも、出てこない、という方が好みに合ってるので(笑)

  • 2015/05/28 (Thu) 00:07
    鑑定士と顔のない依頼人

     こんばんは、kikiさん。

     ゴメンナサイ、何度も。

     ジュゼッペ・トルナトーレ監督は、好きな監督の一人です。もし、彼の作品を観ることがあるのならば、私は月並みですが、「ニュー・シネマ・パラダイス」をお薦めします。彼が映画を撮るときは、音楽はエンニオ・モリコーネが担当するのですが、「ニュー・シネマ・パラダイス」は映像も音楽も心に残る作品でした。

     でも、今まではあまり意識したことはありませんでしたが、今回改めて考えてみると、トルナトーレ監督の作品は男性目線の作品ばかりです。「ニュ-・シネマ・パラダイス」もそうなので、もしかしたら、kikiさんの好みには合わないかも。

  • 2015/05/28 (Thu) 23:26

    マチスさん
    ワタシも、「ニュー・シネマ・パラダイス」はさすがに一度ぐらいは観た事がありました。でも、殆ど覚えていないので、観ていないようなものかも。映画館で映写技師をしている老人が死んじゃう、みたいなシーンは漠然と覚えている程度です。
    エンニオ・モリコーネの音楽といえば、ワタシはセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の音楽(デボラのテーマ的な曲)が印象深いんですが、今回の音楽は部分的に、あの映画の音楽と似たところがあったような気がします。

  • 2015/06/09 (Tue) 08:14

    kikiさん初めまして。サマンサと申します。映画評が秀逸なので訪問しました。この映画、行きつけの?お店でラベルだけ見てレンタルしました。でも、実際面白く観ました。最近はDVD派になりましたが、ヨーロッパの匂いが隅々にまで漂っています。レトロ感もあり、すぐにマイ・ブログに感想を書きました。
     初めはホラー色?の物語、ミステリ色のある物語と思いつつ観ていくと、あーそうだったのか!と主人公の気分(私も男性ですから)になってこの仕掛けが判明、笑い。ラストで「愛」がテーマだったんだと納得。
     そして、2年前に行ったプラハでのからくり時計のイメージが重なりましたよ。うまくイメージをオートマタと重ねてますねえ、感心しました。ところで、「オートマタ」を扱った日本のミステリ作家の傑作があり、ミステリ・ファンとして、どんな描き方かな?という興味もありました。蛇足ですが。

    • サマンサどら猫 #-
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  • 2015/06/09 (Tue) 22:16

    サマンサさん 初めまして。
    サマンサというお名前でも男性なんですね(笑)
    プラハに行かれた事があるんですね。最近はみなさん、割に東欧に行かれますね。建築のいいものがかなり残っているらしいので、東欧はなかなか穴場のようですね。

    「オートマタ」とミステリーって何となく相性がいい感じがします。事件現場に座ってて、何か謎のような事を言って捜査をかく乱させる、とかね。

  • 2015/06/11 (Thu) 06:17

     愛猫の名前が「サマンサ」なのです。やんちゃな猫ですが、笑い。
     旅行は、ベルリンから旧東欧(今はドイツ・オーストリアを含め中欧という呼称が一般的なようです)、最後はオーストリアのコースでした。やはり、プラハは映画のラストにもってくるだけの独特の雰囲気はありますね。あの喫茶店(あれって創作ですよね?)があってもおかしくない?とさえ思いました。
     この映画のミステリアスな雰囲気は、あの小さい女性と、オートマタの不可思議なムードが醸し出しているのですよね。オートマタには結局騙されましたけれど、笑い。でも印象に残る映画でしたね。それにしてもジェフリー・ラッシュ巧いですね。

    • サマンサどら猫 #-
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  • 2015/06/12 (Fri) 07:25

    サマンサさん
    プラハって良さそうですよね。少し前から気になっている街ではあります。ほっつき歩いているだけでも、横溢するヨーロッパの空気でアルファー波がガンガン出そうですね。

    この映画のミステリアスな雰囲気は全体にまぶされていませんか?小さい女性とオートマタだけではなく、あのヴィラの佇まいもそうだし、主人公が女性達の肖像画をひそかに飾っていた隠し部屋もそうだし、物語の設定そのものがそうだし、全体から細部に至るまで映画の世界観が出来上がっていて、心地よく浸って観ることができた、という感じです。

  • 2015/09/21 (Mon) 18:05

    kikiさん はじめまして。
    今日、「鑑定士と顔のない依頼人」見ました。
    何も考えずに見たので、ラストの展開には驚きました。

    しかし、様々な人が書いている映画の評価や伏線の意味や裏の図面の解説を読んでいくと、多くの人がいろんなことを書いてあり、見る人にとって、受け取り方が大きく変わるということをこの映画を通じて学んだ気がします。

    私は、この映画を見て思ったことは、ストーリーよりもカメラアングルなどや音楽の方に目が行ってしまいました。

    私が一番衝撃だったシーンは誕生日のケーキを持ってきたが、火を消さずにずっと眺めているシーンです。
    あそこのシーンでオールドマンの性格を正確に表現している気がしてならなかったです。
    音楽も聞いていると、この映画によく合っているという印象を強く受けました。

    この映画の評価で胸糞が悪いとか後味が悪い映画というような評価を見ましたが、私は老紳士が真の愛と出会ったいい映画だと感じました。
    ハッピーエンドでもバッドエンドでもとれる内容でしたが、多くの人のブログを読み自分なりの結末を考えました。

    拙い文章で、誠に申し訳ありませんが、
    コメントを残させていただきます

  • 2015/09/21 (Mon) 23:04

    17:43:09さん 初めまして。
    そうですね、この映画は観る人によって様々に感想や解釈が分かれる映画かもしれません。また、初回と2回目以降では感想が変わってくる映画かもしれません。ワタシは劇場で最初に見たあと、このレビューを書いたんですが、その時には、「自分の生き方に復讐される男の話」だ、という印象だったんですわ。でも何度か見てみると、これはやはり「初めて人を本当に愛する事を知った初老の男の話」だなと思えてきます。多分、そういうことなんだろうな、と。

    エンニオ・モリコーネの音楽が、非常に効果的に映画を盛り上げてましたね。

    誕生日のケーキのシーンも含めて、ワタシは冒頭のオールドマンの日常を描写したシークェンスが好きです。流れるように、しかも印象的に、彼が傲慢で、功なり名遂げていながら、恒常的に非常に深い孤独の中にいる、という感じがとてもよく出ていましたね。久しぶりに、とても映画らしい映画を見た、という気分に浸れた映画でもあったと思います。

  • 2015/09/22 (Tue) 10:29

    kikiさんお返事ありがとうございます。

    他にも自分なりに思ったことなのですが、
    オールドマン氏がクレアと初めて出会った時から、屋敷の色彩が鮮やかになった気がしました。
    初めて屋敷を訪れたオールドマン氏にはその屋敷は古びた屋敷のように映り、寒色系の色ばかりが映っていたような…
    しかし、クレアの顔を見て、その女性に惹かれていくうちに、屋敷の色彩が徐々に温かみをもつ色が増えたという印象です。

    その時点からだと思いますが、オールドマン氏は手袋をつけていないシーンが増えたと思います。
    監督は色の配色によって、オールドマン氏の恋模様を映し出したのではないかと思いました。

    細部にいろんな伏線を張り巡らせ、その伏線の解釈次第で映画の印象が変わる絵画というより、トリックアートの世界に入った気分でした。

  • 2015/09/24 (Thu) 21:08

    17:43:09さん
    オールドマンがクレアに出会って、徐々に人間性に目覚めていくということは、映画的に色々な手法で表現されている、という感じでしたね。セリフに語られること以外の部分で、色々なことを示唆したり、表現したりできるのが、映画の真骨頂だろうと思います。そういう意味でも、本作は極めて映画らしい映画、ということかもしれませんね。
    オートマタといい、ラストシーンのケレン味たっぷりのカフェといい、確かにトリックアートっぽい雰囲気も醸し出していた映画でした。

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