「小さいおうち」

-届けられなかった一通の手紙-
2013年 松竹 山田洋次監督



これは、パンフレットを見かけた時から何となく気になっていた作品だった。山田洋次のファンでもないし、松たか子にも興味がないのに、この映画が気になったのは何故だろうとつらつら思ってみるに、「小さいおうち」というタイトルに何かしら郷愁を感じたからかもしれないと思い当った。子供の頃に母がシリーズで揃えてくれた岩波の絵本の中に、「ちいさいおうち」という本があった。岩波の絵本シリーズは挿絵の美しいものが多かった。絵本の「ちいさいおうち」は、アメリカの赤い屋根の小さなおうちの話だったっけ…。この映画は赤い屋根の小さな家で暮らしていた戦前の東京の人妻のささやかな秘密の物語らしい。戦前の東京の小さなおうち…か。 ワタシは随分久々に、邦画の新作を映画館に観にいくことにした。

直木賞を受賞した中島京子の原作は未読。映画化された小説は、未読の場合は映画を観てから興味が湧いたら読んでみる、という方がいいようだ。観るより先に読まない方が心穏やかに映画を見られる。むろんのこと、既読だった場合には、この限りではないけれど。

梗概:すべては、数冊の大学ノートから始まった。健史(妻夫木聡)の大伯母で、先日亡くなったばかりのタキ(倍賞千恵子)が遺した“自叙伝”だ。大学生の健史は、一人暮らしのタキの身の回りの世話に来るたびに、執筆途中の原稿を読むことを楽しみにしていた。
そこには、まるで知らない国のような、昭和初期の日本が描かれていた。物語は、タキが山形から東京へ奉公に出るところから始まる。(「小さいおうち」公式サイトより)


というわけで、山形から出てきたおぼこい女中のタキに黒木華。1990年生まれだそうだけど、この人だけリアルに戦前の空気を漂わせていたような気がする。ワタシはもちろん戦前など知らないので、昔の日本映画を見たり、昔の小説を読んだイメージで言っているだけなのだけど、黒木華は戦前のモノクロの映画から抜け出してきたようなつつましい女中さんの佇まいで、実に好演だったし、平成も26年の今、こんなふうに戦前のつつましやかな若い女中さんの雰囲気を自然に出せる女優はかなり貴重な存在と言わねばならないだろう。
戦前の東京には、こんな女中さんがあちこちの家に沢山いたんだろうな…。



上京したタキは小説家(橋爪功)の家に1年ほど勤めたあと、その姪の平井時子(松たか子)の家を紹介されて女中奉公をすることになる。時子の家は、丘の上の、赤い三角屋根の小さいモダンな家だった。玩具会社で重役を務める夫(片岡孝太郎)と、恭一という幼い息子が居た。タキはたちまち、この小さなおうちも、女主人も、小さな坊ちゃんも好きになり、誠心誠意、奉公に励む。

昭和10年から13年あたりというのは、あとで年表で見れば「2.26事件」があったり、支那事変が始まったり、国民精神総動員が叫ばれたりと、あの戦争への坂道を転げ落ちて行くだけの、暗い一方の時代だったように後世の人間は思うのだが、実際にその時代に生きていた人にとっては、段々息苦しくなっていくにせよ、まだ一般の市民生活には笑いもあったし、希望もあったし、明るく平和でもあったらしい。
ワタシは獅子文六の「悦ちゃん」というユーモア小説が好きで、これも母が揃えてくれた少年少女向けの文学全集の中に入っていたので、少女のころから愛読しているのだけれど、昭和10年ごろの東京が舞台の小説で、戦前の東京市民の生活や時代の空気がよく分って興味深い。「悦ちゃん」に描かれている昭和10年ごろの東京には、豊かな昭和モダンのにおいはするが、キナ臭い戦争の影などは全く感じられない。
このあたりの時代は、ちょうど向田邦子が少女時代を送った時代でもあり、「父の詫び状」などを読むと、彼女の小学生時代には、彼女の記憶の中の、戦前の「古きよき日本」が息づいており、そこには暗い影はない。向田は常に小学生ごろの自分の家庭とその時代をとても懐かしく回想している。数年のちの戦時中でも、明日をも知れないという時に女学生だった自分や周囲の友達は、何かといえばよく笑っていた、というような事を書いている。国が戦争に突入していても、人々の気分は暗い一方ではなかったわけである。この映画の中でも、タキの自叙伝を読んで、妹の孫である健史(妻夫木聡)は「この時代はそんなに明るかったはずはない。過去を美化しちゃダメだよ」などとタキに再々言うのだが、実際にその時代に生きていた人々は、昭和18年ごろまでは、そんなに暗く緊迫した日々を送っていたわけではないようだ。

戦前の昭和モダンな雰囲気を醸し出しているのは、小さいおうちの奥さんである時子(松たか子)のコテで波打たせた髪型や、その着物の柄などに色濃く現れている。また、玄関脇に洋間の応接間がついた文化住宅も昭和初期の流行だった。本作は、赤い屋根の小さいおうちのデザインには相当にこだわりをもって臨んだのだろうと思われるし、屋根の真ん中にある白いよろい戸のついた窓はいかにもで良いけれども、ちょっと屋根瓦が赤すぎやしないのかしらん、と思わないでもなかった。あまりにメルヘンチック過ぎて、実際に住むとなると気がひけてしまいそうな…(笑)



この家で夫と子供と、何不自由ない暮らしを送っていた時子は、ある正月、年始に訪れた夫の会社の新入社員・板倉に胸のときめきを覚える。彼は美大出身で、夫やその会社の人間とは異質な空気を持っていた…というわけで、この美校出身の繊細な雰囲気を持つ板倉の役に、なんと吉岡秀隆。…うーん。子供の頃から使ってきた馴染みの俳優だけに山田洋次が起用する気持ちもわからなくはないのだけど、これは吉岡秀隆じゃない方がよかったのではあるまいか。誰がいいというのはすぐに思い浮かばないけれども、他にもっと人材がいたんじゃないかと思われる。強いて挙げると、昨今メガネ男子役で好感度UPしている松田龍平とか…。
吉岡秀隆は少年時代は(殊に小学生の頃は)、天才的な子役だったと思うのだけど、大人になったら何がどうという事もない俳優になってしまった気がする。本作での板倉正治役も、気がいいだけでどうにも魅力がないという印象。松たか子ともつりあいがいいとは言えない。板倉役に魅力があれば、物語はもっと盛り上がったのではないかと思うのだけど…。山田洋次は、そういう、いかにも映画的な構図を意図的に避けたのかどうなのか…。



ともあれ、時子と板倉は惹かれ合い、次第に戦争の影が濃くなる世情の中で、ひそかに道ならぬ関係に陥っていく。タキが、二人がそういう関係に陥ってしまった事に気づくシーンは、いかにも女の目線という感じである。外出から戻ってきた奥さんの帯の柄が行きとは逆側に出ているという事には、着物ならではの謎めいた艶がある。帯の柄に向けられたタキの視線に気づいたのかどうか、奥さんは、その後の逢瀬には洋装で出向くようになる。
やがて戦局が苦しくなり、遂に丙種合格だった板倉にも赤紙が来て、時子およびタキとの別れの時が来る。

タキはこの奥さんに対して、ほのかに同性愛に近い憧憬を抱いているのであろうし、板倉に対しては淡い恋心を抱いているようでもある。戦局が険しくなっていく中で、奥さんと板倉の関係に気を揉み、周囲に知れぬように、会いに行くのはやめた方がいいとやむにやまれず進言するタキの心の中には、どちらがより大きかったのだろうか…。奥さんを心配する気持ちと、板倉を想う気持ちと…。
タキの没後に遺品を整理していた健史(妻夫木聡)は、開封されなかった時子の古い手紙を見つける。それはタキが、入隊間近の板倉に届けると時子に約束したはずの手紙だった…。



老婆になったタキを演じるのは倍賞千恵子。常に自然に役になりきるのがこの人の身上なのだけど、今回は、若い時代を演じる黒木華があまりにも東北出身の戦前の女中さんという風情がハマっていたためか、「その老後を演じている倍賞千恵子」という風にしか見えず、山形から出てきて年老いた女性というよりも、東京の下町のお婆ちゃんという感じがして仕方がなかったのはワタシだけだろうか。
本作は山田洋次の映画にありがちな説教臭はなかったものの、泣きが多く、老婆になったタキはちょっと泣きすぎのような気もした。



謎が幾つかある。
老婆になったタキは、何故、自分は長生きしすぎてしまった、と言って泣いたのか…。
タキの枕辺にかけられていた赤い三角屋根の小さいおうちの絵は、いつ板倉から貰ったのか…。(あの絵は本当にそのまま捨てられてしまったのか?)
タキと板倉は、時子に気づかれずに、ひそかに想い合っていたのかどうか…。
生きて戻った板倉とタキは、二度と会う事はなかったのかどうか…。

強いて憶測すれば、こうだろう、ああだろうと答えは出て来ない事もないけれども、謎や秘め事はあからさまにせず、そっとしておくのが花だろう。本作を見ていて感じたのは、秘密は秘密のままにしておく方がおくゆかしい、という事、また、どんな地味で平凡な人生を送っているように見える人にも、墓の下まで持って行く秘密はあるものなのだ、という事だった。
戦前の東京の中流家庭の平和な家庭生活の中にも、人知れぬ恋愛があり、秘密があった。ごく普通の人々の運命を、戦争が揺るがし、押し流した。平和でモダンな都市の家庭生活の象徴だった赤い屋根の小さな家は、秘密の記憶を内包したまま空襲で焼け、戦前の東京は灰燼に帰した。赤い屋根の小さな家が焼けた事で、タキの人生のささやかなプライムも永遠に幕を閉じた。タキはその後、ひたすらに長い孤独な余生を生きて、一人で死んだ。

映画の大詰めで米倉斉加年が登場。本当に久々にこの人を見た気がする。戦前の病弱そうな乳母日傘の少年が、平成になって、こういう老人になったのだね…というリアルな存在感を湛えていた。

タキの没後、健史がガールフレンドから「ちいさいおうち」という絵本を贈られるシーンで、あの懐かしい「ちいさいおうち」のカバー絵が映り、そうだ。ビルの谷間にちいさい家が取り残されていく話だったっけ…と岩波の絵本を懐かしく思い出した。



一時期、どこを探してもなかったような気がするのだけど、また書店で買えるなら、買って手元に置いておこうかしらん、と思いながら映画館を出た。

コメント

  • 2014/02/12 (Wed) 23:30

    kikiさん

     映画も原作もみていないにも関わらず書き込みしたのは岩波のちいさいおうちの写真を見たからです。家にもあります。古くなっているけど、しっかりと本棚にあります。kikiさんの文章を読んでさっそく読み返しました。なかなかいい本です。絵もいいですね。
    映画はこちらでも上映中ですので観る機会はまだあるのですが..吉岡君と松たか子ですか~う~ん、吉岡君は別に嫌いな俳優ではないのですが、kikiさんもおっしゃるようになにかぴんとこない組み合わせとシチュエーションですね
    (^^;でも他にもなかなかいい俳優陣のようですので大戦前の昭和の雰囲気を味わいにいってもよさそうですね。

  • 2014/02/13 (Thu) 21:42

    ふうさん お手元にお持ちなんですね「ちいさいおうち」。
    懐かしいですよね。あの本に限らず岩波の絵本はあれこれと懐かしいものが多いです。ワタシは残念ながら今、手元にないので、出来れば岩波の絵本を再び揃えて持っていたいものだと思います。

    で、映画ですが、うーむな配役も部分的にあるので、恋愛関連の方はキャスティングの違和感もあいまってイマイチかなと思いますが、この映画で、戦前の東京市民のささやかに幸せな暮らしぶりなどを追体験する、という興味はあるかもしれません。戦前の昭和の雰囲気を味わう、という事でいけば、大きく外す事はないかな、と思います。

  • 2014/02/13 (Thu) 22:14

    こんばんは!
    この映画、kikiさん絶対upするだろなと思ってました(笑)。
    原作読んでいたので映画化されたと聞いて私も久しぶりに日本映画だけど見たいなと思いました。見に行けないのが残念。冬の映画館はインフルエンザがこわいので。ネットでこの家の間取りを見ましたがが、そんなに小さい家でもないような。
    絵本「ちいさいおうち」
    私は、子どもの頃絵本より先にディズニーのアニメで観たのですがすごく印象に残ってます。youtubeで「ちいさいおうち ディズニー」で検索すると観る事ができますよ。

  • 2014/02/14 (Fri) 21:04

    ジェーンさん
    これをUPすると予測されてましたか。ふぅん。傾向を読まれているかしらん。(笑)
    それにしてもジェーンさん。インフルエンザを懼れて冬の映画館に行かないとは、とってもか弱くていらっしゃるのねん。ご用心なさいまし。

    で、映画ですが、これはまぁ、映画館で見なくてもDVDになってからで十分だろうと思います。戦前の昭和レトロな雰囲気を味わいつつ、庶民のささやかな秘密や、ささやかな恋愛を通して、戦前という時代を追体験してみる、という点ではそこそこ悪くないかな、と。吉岡秀隆は悲恋の若者なんかには全く不向きではありますけどもね。
    で、絵本の「ちいさいおうち」。ディズニーのアニメというのはワタシは未見だったので、観てみましたわ。いかにもディズニーっぽいけど、こんな感じの話だったっけな、とおぼろげに思い出しました。情報サンクスでした。

  • 2014/09/02 (Tue) 08:37
    興味深い映画としてみました

    非常に興味深い作品だと思います。
    少なくとも最近の山田洋次の時代劇よりは違和感は極めて少ない。
    しかも、戦前の日本が大都市では、モダンな大衆文化が成立していたことを描いていることです。
    満州事変からの「軍需景気」で、日本は1941年の太平洋戦争までは一種の好景気で、1940年頃が最盛期だったと言われています。

    ただ、一つだけ気になったのは、松たか子が音楽会に行きますが、「コンサート」と言っていることで、当時は音楽会もしくは、演奏会、発表会などと言い、コンサートとは言わなかったと思うのです。

  • 2014/09/03 (Wed) 23:06

    さすらい日乗さん

    さだかには分かりませんが、戦前は「コンサート」と言わなかったかもしれませんね。

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