「悪女について」

-ある女についての27の考察-
有吉佐和子著 新潮社刊



この小説はその昔、単行本が出たときに買ってすぐに読んだ。本が出版されて暫くすると、それがテレビで連続ドラマ化された。主演の影万里江は舞台女優だったのかワタシには馴染みがなかったが役のイメージにピッタリで、他の出演者も豪華だったし、ドラマもよく出来ていた。それはなによりベースとなったこの原作が非常に面白い小説だったからである。有吉佐和子は多方面に関心を持ち、常に話題作、問題作を世に問うて、若くしてデビューしてから53歳で突如亡くなるまでべストセラー作家の地位を降りなかった人。「恍惚の人」「複合汚染」など社会的な視野に立つ代表作もあるが、映画化、舞台化された作品も枚挙に暇がない。「紀ノ川」「香華」「花岡青洲の妻」など代表作中の代表作はもとより、大女優競演芝居の舞台にもなっている「木瓜の花」「芝桜」はいまだ人気演目として上演されつづけている。(かなり前に舞台中継で杉村春子と山田五十鈴という2大女優競演の「木瓜の花」を放映しているのを見た事がある。すごい顔合わせである)
有吉佐和子は三島由紀夫と並んでワタシが中学生ごろから愛読していた作家だった。この二人は長編はもとより、短編に冴えがあるところも共通している。20代で文壇のスターになった点でも共通点がある。三島の「宴のあと」で主人公の大料亭の女将・福沢かづが代議士野口と旅行に行くことになり、彼の名前をどうにかして着物の意匠に取り入れたいと工夫する場面は、有吉の「芝桜」「木瓜の花」で主人公の正子が惚れた男の名前や家紋をどうにかして季節ごとにあつらえる着物の意匠に活かそうと呉服屋を呼びつけてあれこれと知恵を捻る場面とそっくり重なる。ワタシは高校生の頃に「芝桜」を読んですっかり大正時代の花柳界と着物の世界に魅せられ、ことに着物にはかなり関心を持ち、祖母にお太鼓の結び方を教えてもらってなんとか一人で着物を着られるようになると、大人になったら好みの着物を季節ごとに誂えて衣装道楽をするのだわ、などと思っていた。
大人にはなったものの、なかなかそこまで手が回らない。

さて。
「悪女について」は、富小路公子という女について、彼女の死後、大なり小なり関わりのあった27人の人間が自分の知っている富小路公子について語るという手法で、日本の戦後復興史の中でヒロインの人物像とそのライズ&フォールを多角的に浮かび上がらせた小説だ。本人は自らについて一言も語らない―もう死んでいるから―が、それこそがミソなのである。数学的なまでに計算され尽くした語り手の登場順やその話の内容など、揺るぎない構成が実に見事。長編小説をきちんと組み立てるには数学的なセンスが必要だと聞いたことがある。有吉佐和子は科学(化学?)者になろうと目指していた時期もあったらしいので、理数系に強い人だった。そんな有吉の数学的センスが生み出す美しい数式をみるような構成の見事さが、この作品では一際冴え渡っている。(そういう数学的な長編の構成力という点でも、有吉と三島は共通点があると思う)

近所に華族さまの屋敷もある町で八百屋の娘として育った鈴木君子(のちに改名して富小路公子と名乗る)は、盗癖のある母親や甲斐性なしの父親に囲まれて育ちつつ、幼いころからか細い声とやんごとない言葉遣いで掃き溜めのツルのような少女だった。彼女はクラスメートに、自分はさるやんごとない大家の落胤で、出入りの八百屋に貰われて育ったのだ、とほのめかすのだが、君子の母タネ(八百屋の妻)は、正真正銘あれは自分がお腹を痛めて生んだ娘だ、と語る。
君子はある人にとっては天使であり、希望の光であり、ある人にとってはヒルかマムシのように忌み嫌われる女である。商売をはじめる元手の資金を作るために彼女が打って出た捨身の作戦は、有吉の描く計算高い女の駆け引きの真骨頂だ。また、君子の容貌も、物静かで品は悪くないけれども、特に美人というのではない十人並の容貌で、どこがどうというわけではない、という設定が上手い。こういう女はえてして、目にたつような美貌だったりはしないものだと思う。素顔は地味で平凡だが化粧栄えがするというタイプなのである。

有吉佐和子は怖い女というのを描かせると巧い作家で、「不信のとき」のホステス・マチ子もしんねりと静かだが怖い女だし、「芝桜」「木瓜の花」に登場する蔦代は文盲で金の亡者で、紙切れ1枚の法律や契約書など意にも介さず、白を黒といいくるめ、文盲をタテにとってその効力さえ失わせてしまうスゴ腕の女である。蔦代などはまさに痛快なほどの悪女だが、君子は目的のために手段を選ばない部分は蔦代が、そして、表面的には物静かで恨みがましい事を一切言わないひそやかな部分はマチ子が、それぞれオーバーラップしているようなキャラクターだ。
戦後、八百屋の父が死んで、近所の大家へ住み込みの女中として雇われた母とともに自らも小間使いのように働きつつ、中学を出ると簿記学校に通い、数字と帳簿の世界への扉を開く君子。この簿記学校でヤミ屋からのし上がった中年男・沢山と出会う。この沢山と君子はある種、運命的な出会いを果たすのだ。戦後のドサクサに小金を得た沢山が、宝石や飲食店の経営などに手を染めて事業をどんどん拡張していく手法を、君子はその店で働きながら間近に見て吸収するのである。二人の付き合いは生涯続くものとなる。
素封家の学生の実家から強請りとった大金を元にいよいよ事業を始める君子。
鈴木君子(またこの名前の思い切り平凡なことはどうであろう)が女実業家・富小路公子(聞くだに胡散臭い名前だ)になるまでの歳月。その背景に垣間見えるのは焼け跡から復興していく東京の戦後史だ。

そして、さまざまな人間の、さまざまな話から見えてくるのは、夢も希望もない環境に生まれてきた女が、自らの夢を現実にするため、そして理想の自分になるために、徒手空拳、孤立無援の中、一人必死に生爪をはがしつつも谷底から這い上がり、出生さえも偽って嘘に嘘を重ねながら理想とするものを手に入れるべく闘う姿である。彼女の戦いは水面下で誰にも知られずに行われている。人には見せぬ水鳥の足…水面に出ている部分はあくまでも優雅に「まぁぁわたくし、存じませんわ。苦労なんてしたことありませんの」「夢ですわ」「愛ですわ」なんてやっているわけだが、人知れぬ水面下では足をばたつかせ、時にヘドロの中をもがきながら懸命に前進しつづけるのである。貴顕という人種へのあこがれは富小路などという陳腐な苗字を名乗ることに集約されて現れるのだが、彼女の憧れる本物の貴顕の血筋に生まれた女実業家仲間の烏丸瑶子がおそるべきガラッパチで下品な女として描かれるのは有吉一流の皮肉が利いている。実際にそういう華族の末裔もかなりいそうな気もする。

君子は二人の息子を生むが、その父親はそれぞれに違う。長男は近所の華族サマの坊ちゃん尾藤輝彦の子であるかもしれないし、また勝手に戸籍を入れた最初の夫の子かもしれないがハッキリはさせていない。読者が想像するだけである。(多分に前者の子であろう)次男は沢山の子に違いなさそうである。彼女は長男と次男をそれぞれに違う接し方で愛するが、好きな男の子供だったらしい長男にいくら愛情をかけても長男は虚飾の人である母を嫌い、その母がなさぬ仲だと言い張っていた盗癖のある祖母の方をずっと愛しているのは、実に皮肉な展開でもある。

彼女は、最初の結婚は事業の元手を作るため、そして二度目の結婚は田園調布の地所を手に入れるためにそれぞれ利用する。最初の結婚では(彼女は相手に知らせずに勝手に入籍していたのだが)、自分を捨てた男が親の決めた相手と結婚し、新婚旅行に出た直後に、男の実家に乗り込んで、その両親の前で致死量の睡眠薬を飲むという命がけの荒技を繰り出し、眼の玉が飛び出るような大金を手切れ金としてせしめる。当然ながら最初の夫とは七里結界になるものの、二度目の夫は利用された事にも気づかずに、自分が至らなかった、彼女には悪いことをした、離婚したのを後悔している。自分は自ら幸せを手放した愚か者だと語る。騙した相手にもそれと気づかせないなんて実にアッパレである。君子の腕が格段に上がったことを示すエピソードでもある。しかし別な見方をすれば、君子が夫に選んだのは地方の素封家の息子や、田園調布に家のある銀行マンの息子である。彼女は氏素性もない貧しい自分の出から抜け出したいという悲願を持っていた。だからただ利用するためばかりでなく、その結婚がうまく行けば、あわよくば奥さまとして名家に収まっていたいという願いもあったのかもしれない。ただ、それが破れて転んでも、ただでは起きない女であるのが君子であり、転んでも損をしないどころか、別れた後にもっと大きなものを手に入れられるように計算をしながら結婚にも賭けていた、というふた筋道ではないか、という含みももたせているのが有吉佐和子のうまいところである。

この田園調布の地所に豪邸を建てて、お座敷犬を飼い、主治医が毎朝かけつけて栄養注射を打ち、メイクアップ師や専属デザイナーがゾロゾロとくっついて、いつしかテレビにコメンテーターとして登場するようになるくだりを読んでいると、あの「トキノ」の鈴木その子を思い出すが、この小説は彼女がマスコミに登場するずっと前に書かれたものなのだ。鈴木その子がテレビに出まくっていた時に、彼女の田園調布の豪邸がお宅拝見番組などで映るつど、ワタシは有吉佐和子が創造したヒロイン・富小路公子をしきりと思い出した。鈴木その子が富小路公子のように世渡りをしてきたとは思わないが、世の中には小説はだしな事がまま起こったりするものなのだ。鈴木その子が株で実績を出しつつもバブルがはじける前にすべての持ち株を売りぬいたという逸話には、まだ軽井沢が沓掛などと呼ばれていた時期に将来を見越して土地を買い、値上がりを待って転売する富小路公子の姿がダブるのである。

果たして彼女は「悪女」だったのか。なぜ絶頂期に死んだのか。
その答えは読者個々の胸のうちにあり、正解はない。
いかようにも、あなたが捉えたいように捉えてください、というスタンスだ。
いわゆるオープン・エンディングである。

彼女が本当に愛していた男は誰なのか。沢山とも、尾藤ともずっと続いていた上に、アラン・ドロン似の男性秘書とも結婚の約束をしていた。(この秘書がアラン・ドロン似というところに70年代という時代色が出ている)

そして功なり名遂げた挙句に、どうして自社ビルからある日ふいに飛び降りたのかは、ラストで作者が次男・義輝に語らせている事がすべてかもしれない。

義輝は幼少期に、アパートの窓から身を乗り出して空の雲をうっとりと眺める母を見ていた。

「あの雲から音楽が聞こえてくるでしょう。まぁ七色の光が、ほら、雲が虹のように輝いているわ、ね、輝、行ってみましょうよ」


彼女はそうやって生涯、自分の目の上にある届かないものに向かって手を伸ばしてきたのだろう。次男の言うように「夢のような一生を送った、可愛い女」だったかどうかはともかくも。


公子は悪女というよりも、おそろしいまでに「計算高い女」である。
悪女は総じて計算高いものでもあろうが、計算高い女がみな悪女かというと、それは違う気がする。公子には「悪女」とまでは言い切れないものを感じるのだ。
公子のようなうわべを繕うタイプは、常に「本音のところ」にしか興味がないワタシには、現実には最も苦手な人種かもしれない。
が、小説の主人公として読むと、これほど面白い人物もまたとない。
そして彼女の生涯を俯瞰すると、どこかうっすらと淡い悲しみが漂ってくるのも見逃せないところなのだ。

全27章、冒頭からラストの次男の話まで間然するところのない見事な結構。
着想、人物設定、時代背景、そしてユニークな形式のどれをとっても揺るぎなく、全編に有吉佐和子の卓越した構成力と描写力が冴え渡っている。作家としての有吉佐和子のあふれ出る才能がキラキラと輝きを放つ晩年の傑作。単行本発売と同時に放映された連続ドラマもよく出来ていたので、是非、もう一度観たいと願っている。

コメント

  • 2014/03/16 (Sun) 23:12

    kikiさん、こんばんは!
    久しぶりにこの本読み返してみました。
    う〜ん、ぜんぜん古さを感じない。やはり有吉佐和子の真骨頂というべき作品のひとつですね。でも、初読みから30数年経っていろいろ感じ方が変わったというか新しい発見もありました。
    まず、これ「善女について」と題を置き換えてもあながち間違っていないかな〜なんて(笑)。だって悪か善かの賛否両論なわけだけど、困らされた人たちも最初は意外と「いい人(女)」評価してるし(渡瀬さんの親御さんは別として)、沢山夫人なんて一緒にお芝居見に行ったり。最初の一瞥で「この女はイケナイ!!」と見抜く人がいないのが不思議といえば不思議。

    それから、これ読んだ時まだ私も10代だったわけですが、今にして思えばきみこサンを見習って簿記とか不動産や法律の勉強しとけば良かったな〜(笑)とか、田園調布のお屋敷には牡丹園があったんだ!さすがは有吉佐和子。ボタンの品種もいっぱい出てくる。当時は読み飛ばしてしまったんだろうな。そして、きみこサン高峰秀子に言及してますね。当時、すでにデコちゃんの自伝読んでたから、この場面も理解してたと思うけどすっかり忘れてたわ。有吉佐和子とデコの仲を知ってる今だとなんだか楽屋落ち的な場面にも感じる。。。等々

    現在の小説が面白くない理由のひとつがわかります。やっぱり戦争や戦後の混乱というのがストーリーにダイナミズムを与えてるよね。旧家とか元お公家さんや華族がいるのがリアルな頃って良くも悪くも陰影があって面白い。平等社会(という建前になってるけど)の今ではこの面白さがなかなか出せないですよ。

    ドラマについてチェックしてみると。。。家屋敷を取られてしまったのに公団住宅で(あくまで私的印象ですが)鷹揚に暮らしてる富本氏の母上は、木暮実千代だったのネ!30数年の時の流れの中、いつの間にか私の記憶では細川ちか子にすり替わっていました。調べたら、すでにこの頃死去されてたんですね。どちらの女優さんも好きでしたが。時々こういう記憶違いがあります。そして印象的だったが草笛光子の烏丸瑶子!!「富小路?なんて名前、公家では聞いた事無いね。綾小路ならしってるけど」なんて、確か麻雀しながら旧華族のお嬢さんがガラッパチに言う所が、ある意味カッコよくて好きなキャラクターだったな。白洲正子を読み始めた時、すこし彷彿としたけれど。でも正子様は薩摩の武士魂が生涯を貫いているから全然違うのよね、これが。で、もし烏丸瑶子が白洲正子に会ったら多分こう言ったのでは?「うちは公家華族。あなたんとこはぽっと出の武家華族でしょ。」

    と、次から次にいろんな場面が思い出されて、あ〜〜是非また見たいドラマです☆

  • 2014/03/18 (Tue) 02:27

    ジェーンさん
    読み返してみられたんですのねん。確かに公子は悪女というのとは違う感じがしますわね。今で言うと、美魔女系の女でもあるんだけど、悪女といえば悪女だけれども、全く罪のない人に害を及ぼすというような事はないような…。自分を傷つけた相手にはしれっと仕返しするところはありますね。セットを変えてやる、なんて言って尾藤家の宝石を受け取って偽物と差しかえちゃったりね。本物は自分がチャッカリ貰って(笑)
    この小説を書いていたのは有吉佐和子の晩年なので、ちょうどデコとも付き合いがあった頃なんでしょうね。あの二人が気が合ったというのは、さもありなんという感じです。いかにもそんな感じ。

    物語は戦争を絡めると格段にドラマチックになるし、いろんな要素を盛り込みやすくなりますよね。最近だって書こうと思えば戦争を絡めた物語は書けるんだろうけど、最近の作家って、ワタシは本当に読まないので何とも判断ができません。有吉佐和子が存命だったら、現代を背景にどんな小説を書いていたのかな。なんだろうと、きっと面白かったに違いないと思いますが。

    ドラマ、けっこう場面を覚えてますか?ワタシは主演の万里江さんの顔と声と、全体にこういう雰囲気だった、というようなおぼろげな記憶しかないんですよ。原作通りだったのは強く印象に残ってるんですが細部は忘れてしまって…。君子を捨てて痛い目にあう最初の夫は緒形拳が演じてるんですよね。覚えてないけど、それだけでももう一度観たいという気分になります。草笛光子の烏丸瑶子はキレイすぎやしないかしらん。小説のイメージだと何かもっと不細工でガラッパチですよね。確か(笑)
    もし烏丸瑶子が白洲正子に会ったら、確かにそんな事を言いそうです。ふふふ。

    ほんとにどこかのドラマチャンネルで放送して欲しいですね。じっくりと1話目から観てみたいです。

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