「複製された男」(ENEMY)

2013年 カナダ/スペイン ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
-不安な世の中を漂う不安定な自我-



「プリズナーズ」以来、なんとなく築かれつつある監督と俳優の新たなコンビ、ドゥニ・ヴィルヌーヴとジェイク・ジレンホールのコンビ2作目。興味深いコンビではあるし、ジェイクの単独主演作は久々だし、素敵なメラニー・ロランもジェイクのガールフレンド役で出演するようなので、観に行ってみた。
今回は日本橋での上映はないので、仕方なしにせせこましいシャンテで鑑賞。TOHOシネマズ・シャンテは構造が実にまずい。動線が全くなってない。エレベーターは遅いわ、VITの発券機は数が少ないわ、地下にもシアターがあり、地上には2、3、4Fとシアターが入っているのに、のそのそとしか動かない1基のエレベーターで観客を運ぼうなんて無謀である。割に当たりそうな映画をかける事が多いので、尚更もうちょっと考えたらどうか、と思ってしまう。1Fチケット売り場の脇に2台ぐらいVITを置いておくぐらいすればいいのに。顧客満足度はかなり低いと肝に銘じた方がいい。建て替えるとか、さして客の入っていないシャンテ本館の一部をシアターにするとか、いつまでも今の建物で営業しようと思わない方がいいだろう。

…と、さっぱり動線改善の気配が見られないシャンテに文句を言ったところで、映画の方に話を移すと、
始まって早々から独特の映画文法。ハリウッド映画とは全く異なるスタイルを持っている。最初から最後まで映画を覆っているのは「漠然とした不安感」だ。この映画が切り取るトロントの町は、どこやら無機質で、妙にしんとしていて、そこはかとなく不気味である。そのどこやら無機質な町の景色に、潜在不安を煽るような前衛的な音楽が非常に効果的に使われている。


見ているだけで不安感をあおる映像

ジェイクが演じているのは、大学で歴史の講師をしているヒゲ面のアダム。何が面白くないのか、常に疲れて憂鬱そうな男である。鬱病じゃないの?と思ってしまうぐらいに沈んでモワーっとしている。彼は、あまりやる気のなさそうな学生を相手に、毎日判で捺したような講義をして、もさもさと殺風景なアパートに帰り、余計な物のないがらんとした部屋で過ごす。


鬱病気味?な大学講師アダム

時折、ブロンドの彼女(メラニー・ロラン)がやってきて、ベッドを共にするとさっさと帰って行く。このガールフレンドが部屋を出ていく時に、玄関のドアを常にバターン!と音をたてて閉めるのが印象的だ。
メラニー・ロランは、出て来るとジェイクとベッドシーン、という感じで、確かに相変わらず魅力的ではあるものの、メラニー・ロランじゃなくたって良かったような役である。というか、なんでこんな役でメラニー・ロランを使ったのか首をひねる。かなりもったいない使われ方だった。メラニー・ロランは何故こんな役を引き受けたのだろうか。不思議である。



モサーッとして、人ともあまりコミュニケーションを取りたがらない大学講師のアダムだが、ある時、講師仲間から、面白かったから見てみろ、とある映画を勧められる。ある日の仕事帰りに、その映画のDVDを借りて帰ったアダムは、映画の中でホテルのボーイというほんのちょい役を演じている男が自分と瓜二つである事に気付き、無性にその男に会ってみたくなる…。

というわけで、ジェイクは同じヒゲ面で微妙にキャラの異なる男アンソニーを二役で演じている。二人は全く同じ顔、同じ声、後天的についた胸の傷まで同じ位置にある。どちらがオリジナルで、どちらが複製された男なのか…。



三流俳優アンソニーには身重の妻が居る。妻を演じるのはサラ・ガドン。漂白されたようなブロンドの髪に、薄い瞳の色、さらされたような白い肌で独特な存在感を醸し出している。メラニー・ロランの演じ甲斐のない役に比べて、サラ・ガドンの妻は大いに演じ甲斐のある役だった。では、メラニー・ロランが妻役を演じれば良かったか、というとけしてそうではない。サラ・ガドンは、夫の浮気に深く傷ついた過去を引きずっている情緒不安定気味の妻を、とても印象的に演じていた。サラ・ガドン演じる妻が、この映画の質感に最も合っていたのではないかと思う。



アンソニーを演じている時のジェイクは、アダムと同じヒゲ面ながら、俳優をやっている男だけにどこかパリっとしている。常にうっそりと憂鬱に沈んでいる感じのモサったらしいアダムと比べて、アンソニーはバイクを乗り回し、皮のジャケットなど着てイケメン路線である。容姿的には全く同じ姿で異なるキャラクターを表現するジェイクの演技力の見せどころである。


売れない俳優アンソニー 同じ顔、同じヒゲで異なるキャラを演じ分けるジェイク

しかし、なぜ、殆ど売れていないチョイ役専門の俳優が、こぎれいなタワーマンションに住めるのか?
あまつさえ、身重の妻を抱えて、生活は成りたっていくのか?
そもそも、アダムとアンソニーは何故、あんなにも分身のようにそっくりなのか…後天的に出来た傷やその位置までも同じなのは何故か…。
そして、冒頭から折々に登場する様々な蜘蛛は何のメタファーなのか…。

それらの疑問の答えが、終盤になって示される1枚の写真で解き明かされる。

これは一人の男が、母親や妻の望みに沿って、世間から信用される職業に就き、ひとまずきちんとした住居に住んで、安定と平穏と茫漠たる退屈と敗北感の中に埋没していく自分の夢の残骸との間で葛藤する話、だと思う。アダムはアンソニーのアルター・エゴであり、様々な懊悩を抱えてあがき、悶える自我の現れなのであろう。妻や母の望むように不本意ながら人生の舵を切ったあと、彼の不安は増大し、魂は抜け殻になっているのだ。それゆえに、講師アダムはあんなにも、常に憂鬱そうなのである。



ジェイク演じる主人公の母親役でイザベラ・ロッセリーニが出て来た。ここ数年で激しくおば度が増進したようである。2006年の「Infamous」で見かけた時には、まだ十分に綺麗だったが、さすがに60の声を聞いては100%のおばちゃんになっても無理もないかもしれない。


「あなたは、私のただ一人の息子なのよ」

また、ラストが「ええ!?」というショットで幕切れなので、チープなSFみたいに勘違いされかねないとも思うのだが、これはあくまでも心理的かつ寓意的な映画であり、「不安な世の中を漂う不安定な自我」のお話だと、ワタシは思う。
本作には全体に霧のように不安な空気が漂っているが、冒頭、合鍵を渡された会員のみが入れる秘密クラブの描写も忘れがたい。そこで銀の盆に乗ってステージに出て来るタランチュラが非常に印象的だった。蜘蛛は女のメタファーなのでもあろうか。


さまざまな種類の蜘蛛が登場する

ジェイクは、彼の持つ2つの面をそれぞれをアダムとアンソニーに反映させて演じていたような感じで適役だったと思う。モサモサとヒゲを生やしていても、彼の目が魅力的な事は相変わらずで、ひところ仕事の方向性に迷いが生じていた気がするのだけど、彼なりのキャリアをいい感じに積み上げていっているんだな、と感じた。映画の中で、俳優であるアンソニーのプロフィールに使われた写真はジェイク自身の20代の時のポートレイト。ワタシも好きな写真だったので思わず、ふふふと笑ってしまった。
身長が6フィートちょうどで183cmとの事だけど、183cmもあるかなぁ。180cmそこそこじゃないかしらん、と、ジェイクを見ているといつも思ってしまうのだけど…。まぁ、どうでもいいですね。



なんだか不入りだった「プリズナーズ」に比べ、今回、水曜日の夜は女性で満員だった。一時期、あまりにもジェイクの映画に客が入らなくなって、日本にはジェイクの主演作が入ってこなくなるかも、と心配したのだけど、どうやら危機を脱したのではないかと思う。
この映画で折角メラニー・ロランと共演したのに、まったくロマンスが芽生えなかったらしいのは、個人的にちょっと残念だった。

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