「まほろ駅前多田便利軒」

-小指の思い出-
2011年 アスミック・エース他 大森立嗣監督



またもや「まほろ」でナンだけれども、先に連続ドラマ版の「まほろ駅前番外地」を見て面白かったので、原作の1作目を映画化した「まほろ駅前多田便利軒」も観てみたくなった。原作もあっという間に読んでしまったので、映画化作品はどんなもんだろうかと興味が湧いたのだが、かなり原作に忠実に作っていて好感が持てた。
メイン二人のキャラはそのままだが、ドラマ版のお気楽なノリと少し異なるシリアスな部分が折々しんみりと描かれていたのも、原作をきちんと踏まえているな、と感じた。映画版はこういうノリでいいと思う。ドラマはドラマの持ち味、映画は映画の持ち味。でもキャスティングは映画もドラマも同じ、というのが心地よい。

東京郊外の街、まほろ市の駅前で便利屋を営む多田啓介(瑛太)。元はフツーのサラリーマンで結婚もしていたが、あるショッキングな出来事から結婚は破綻。会社も辞めて、生まれた街・まほろに戻り、便利屋を始めた。彼の中では今もなお、結婚の破綻とそのキッカケになった事柄が重く深く、尾を引いている。そんな多田が、ある日思いがけず再会したのは中学時代(原作では高校時代)の同級生・行天春彦(松田龍平)だった。成績優秀だが一言もしゃべらず、一人の友人も居なかった変人の行天は、歳月を経てよくしゃべる世捨て人になっていた。終バスの出てしまった夜更けのバス停のベンチに、裸足の足に健康サンダルを履いた姿で一人座っていた行天は、行くところも帰るところもないらしかった。ぶっきらぼうだが根本的にお人好しの多田は、一夜の宿を貸してくれ、という行天の頼みを口では断ったものの結局は拒みきれずに、そのままズルズルと事務所兼自宅に居座られる事になる。



前回のドラマ版の記事にも書いたけれども、原作を読むと、多田と行天は瑛太と松田龍平よりも6〜8歳ぐらい年上の男たちのように感じる。つまり、アラサーではなく、アラフォー世代の男たちという感じなのだ。だから原作では高校時代の同級生で、過去として程よい遠さになっているのだけど、アラサーの瑛太や松田龍平の年代では、高校時代では過去としての距離感があまり遠くならないので、中学時代の同級生、という設定に変更したのだろう。常にねんねこばんてんで乳飲み子をしょっている駅前の弁当屋を演じている大森南朋の方が、年代的にも雰囲気的にも原作の多田のイメージに近いのではないかという気がする。


弁当屋の主人を演じる大森南朋

行天は、原作との年代的なギャップを除けば、松田龍平でまさにドンピシャなので、彼を行天にはめると、同級生という設定から、多田も同年代の俳優にしなければならないので瑛太がキャスティングされたのかな、とも思うが、その辺は分からない。
が、瑛太も年代的な事を除けば、心に傷を負いつつも、不器用ながらけっこう一生懸命に便利屋という仕事を続けている多田という男をきちんと表現していたと思う。
役としては変人・行天の方が目立つし、印象的な儲け役なので、松田龍平に目を止める人の方が多いと思うけれども、瑛太は、行天に手を焼く「普通人」多田(一見、普通であるだけにちゃんと演じるのは難しい役だと思う)を、陰影を持たせつつしっかりと演じていた。これまで一度もちゃんと観た事がない俳優だったのだけど、なかなか巧い人なのだな、という事が分かった。



お話は、ある年の正月早々に夜逃げの客から子犬を押し付けられた多田が、同じ頃にふいに再会した行天を居候させる羽目になり、その年1年間、便利屋として依頼をこなしつつ、互いに全く知らなかったと言っていい、かつての同級生の人となりや過去について、少しずつ分かり合っていく様子が、個々の依頼者の人生の側面や、周辺人物との関わりとともに描かれる。途中まではごく普通に、大学を出て会社に入って、という当たり障りない人生を歩んでいた二人が、再会した時には互いに会社員を辞めていて、訳ありのバツイチになっていた。互いに、「昔とは変わったな」という印象を抱く二人。



多田はほんの一晩のつもりが、いつ果てるとも知れずに居候を続ける行天にゲンナリしていて、早く一人の気ままな生活に戻りたいと思いつつも、奇妙な共生を続けるうちに、それなりの生活のリズムも出来てきて、行天を追い出すキッカケがない。一方の行天は便利屋になっていた多田と再会した時から、野良猫が餌をくれる人を野生の勘で察知するように、軒先を貸してくれる人を嗅ぎ分けるように、多田の傍らに自分の居場所を見いだす。いつ「出ていけ」と言われても文句の言えない状況ながら、それとなくサラリと小指の傷をちらつかせる事も忘れない。



行天の右手の小指は、一度根元から完全に切り離されてしまったのだ。昔、二人が同級生だった頃に。処置が早かったので小指はくっついたが、まるきり切断される前と同じというわけにはいかない。行天は元通りになった、と言うが、指の根元に傷は残り、小指の血行はあまり良くはなく、動きも少しぎこちない。行天の小指が切れたのは、工作の授業中の事故だったが、そこには多田が絡んでいた。原作ではもう少し間接的に、陰湿に多田が絡んでいるのだが、映画ではもっと直接的に、無邪気な感じになっている。行天は、多田がその事をずっと忘れず、気にしているのを知っている。自分自身はその事で多田を責める気などみじんもないし、気にしてもいないが、多田が気にしている事を時折やんわりと利用したりもする。

行天は、自分を有用の人と思っていない。全てを捨てた世捨て人であり、親との関係性に根深いトラウマを抱え、子ども時代の辛い思い出からずっと逃れられずにいる男である。行天は、多田が見ていない一人の時は、寄る辺なく、とても寂しげである。よんどころなく多田がしばらく預かる事になったチワワを懐に抱いて、一人でぼんやりと座っている時、行天は無意識のうちにその孤独をありありと浮き上がらせる。そんな、一人でいる行天の姿を垣間見てしまった多田は、すぐに声をかけられずに暫く佇む。多田が声をかけると、行天はいつもの飄々として何を考えているのか分からない男に戻る…。
松田龍平は鼻の形が綺麗だ。細い白い鼻梁がすーっと長髪の陰から伸びている。伸ばしっぱなしの髪と筋の通った細い鼻に漂う寂寥感。駅前やバス停で、懐に子犬を抱いて一人座っている行天の孤独が、その細い鼻梁からにじみ出して来るように感じる。



そういう無意識に滲んでしまう孤独感の表現も巧いが、飄々とした行天のキャラを顕す独特の笑い声や歩き方、走り方も、この役のために松田龍平が作り出した個性だと思うが、原作のイメージがよく出ている。行天は「ひゃひゃひゃ」と笑う、と原作に書いてあるが、龍平の行天も「うひゃは!」という感じの笑い声をよくあげる。雰囲気が出ている。また、龍平の行天は体の両脇に腕をだらりと垂れたまま、手の先をひらひらさせつつ、ひょいひょいと走るのだが、その脱力した走り方も行天らしさがよく出ていると思った。そんな飄々とした行天だが、心に底なしの虚無をたたえているようでもある彼は、暴力についてあまり抵抗がない。いざとなったら、あっさりと一線を超えてしまいそうな危うさを抱えつつ、のんべんだらりと、ひなたぼっこする猫のように多田の元で居候をしているのだ。
この役はまさに松田龍平が演じるべくして演じた役で、彼以外の誰にも、このキャラに血肉を通わせる事はできなかっただろうと思う。

そんな行天の、期間限定で形式上の妻だった女医・凪子を演じるのは本上まなみ。原作のイメージではもっと地味な女性の感じだが、ふぅん、本上まなみか、と思った。案外、ハマっていた。凪子と行天の間には2歳になる女児がいるが、その子は人工受精で産まれた子である。凪子は同性愛者で女性のパートナーがいる。原作では「春ちゃん(行天)は、男とも女ともセックスしたくない人なんじゃないですか」と、凪子は多田に言う。頭はいいが童貞で変人—行天は誰かに似ている(笑)
多田と銭湯に行った帰りの夜道で、行天が近くに咲いている木蓮の花に目を止める。あまり花に興味がありそうな感じでもない行天だが、あとで登場した凪子が、通りすがりの人の持っている桔梗に目をとめるシーンがある。行天が季節の花の名を覚えたのは、凪子の影響かな、と思わせるシーンである。



一方の多田には、離婚にまつわる心の傷が深いこと、その際に大きな喪失を経験していることを、行天も知ることになる。全てを聞いた行天は「これまで何回もいろんな人から言われたと思うけど、俺も言うよ。あんたは悪くない」と多田に言う。いまだにその事で悪夢にうなされる多田には、その言葉も慰めにはならない。が、行天の優しさは、その淡々としたセリフの中から立ち上って来る。芯のところに、とても優しい良いものを持っている人間なのに、親に虐待された子ども時代の記憶が行天から色々なものを奪っていることに、観客は改めて気付かされる。だが逆に、どんな目に遭ってきたにしても、彼の中で損なわれずに残ったものもあるという事にも気付かされるのだ。多田は、何もないと言いながら、自分を気遣ってくれる人も、血を分けた子どもも、曲がりなりにも持っている行天に嫉妬する。そして、聞かれもしないのに自分の過去の傷をぶちまけたあげくに、身勝手を承知で、行天に出ていってくれ、と言う…。



*****
映画の中で、軽トラのフロントガラスをシャリシャリに割られた多田が思わず「なんじゃこりゃあ〜!」と叫ぶシーンがある。助手席の行天が、「それ誰の真似?全然似てない」と言うと、「誰の真似でもない。俺の正直な気持ちだ」と多田が答える。このシーンを見て、龍平が出ているから、その父の有名なセリフをギャグに使ったのだな、と思う人もいるかもしれないが、これは原作にあるままのセリフなのだ。つまり、龍平が行天を演じるから脚本に加えられたセリフ、というわけではなく、元々原作にそのままあったセリフだ、というところが面白い。

脇役に目を向けると、駅周辺でたちんぼうをしている自称コロンビア人の娼婦ルルとそのルームメイトのハイシーも、多田便利軒を取り囲む人物群像の中で印象深い。この娼婦たちは、多田が否応なく新しい飼い主を探す羽目になったチワワを貰いたいと名乗りを挙げるのだが、元の飼い主が小学生の女児なので、その子に会わせられない相手ではマズいと考えた多田に断られる。多田が自分の風体を見て、生業を知って、犬をやれないと判断したのだ、とすぐに察知し、物わかりのいい、諦めた微笑を浮かべ、「そうなんだぁ」と自分の要求をあっさりと引っ込める。このルルの諦める事に慣れた、物悲しいまでの柔らかさは、相棒のハイシーが犬を断られたと知って多田に怒ったのを「勘弁してやって。あの子、まだ若いから」というシーンでもしみじみとダメ押しで発揮される。何故にいつからそんな仕事をしているのか不明だが、人生経験をいろいろと重ねるうちに諦める事に慣れてしまった女の、それまでの人生の色々が想像されるような物わかりのいい笑顔がちょっと哀しい。そんな自称コロンビア人娼婦ルルを演じるのは片岡礼子。原作から受けるイメージよりも綺麗になっているが、雰囲気はよく出ていた。若いルームメイトのハイシーには鈴木杏。鈴木杏が娼婦役か。ふぅん。一応、演技派美少女で売り出したんだったような気がするのだが…。でも、どこかいつまでも垢抜けないの、鈴木杏。プロポーションは良いのだが、顔の輪郭がイマイチなのか。


自称コロンビア人娼婦のルル

かなり微妙な鈴木杏

小学生を運び屋に使い、まほろの裏街道でいっぱしのいい顔になっている未成年のヤクの売人・星くんを演じるのは高良健吾。熊本出身だそうだけれど、南の熊本とか北の秋田には、唇と鼻の形の綺麗な、くっきりとした顔立ちの男女が多い気がする。高良健吾もそういうタイプで、怜悧な感じがするほど、肉薄のすっきりとした鼻筋と形のいい唇で、表の顔と裏の顔を使い分けるクールな星くん役に、これまたピッタリとハマっていた。1シーンしか登場しないのだけど、強い存在感で、若いのにたいした貫禄なのね、という感じの星くんに鮮やかになりきっていた。



星くんから小遣いを貰って運び屋のバイトをする小学生・由良を演じている少年は、いまどきどうなの?と思うぐらいに棒ゼリフの上にかわいげもない子だったが、達者な子役がいくらもいる中でこの子を使ったのには、監督の中にそれなりの理由はあったのだろう。不器用さが、親に愛されずに感情がいびつになっている由良を表現するのに向いている、とか? う〜ん、しかし、由良はもう少し達者な子役が演じた方が、却ってそのキャラを巧く表現することができたような気もする。



この子の住むマンションで、「フランダースの犬」の最終回を見ながら、多田と行天が涙を浮かべるシーンがある。「フランダースの犬」か…。ひところ、いろんな番組の最終回を集めた番組で、アニメ部門で必ず登場したのが、「フランダースの犬」の最終回だったっけ。ワタシがこのアニメの世界名作劇場シリーズを見ていたのは「母をたずねて三千里」ぐらいまでなので、ラスカルも見ていなければ、フランダースの犬も見ていない。だからこのアニメが大好きな人々の思い入れのほどが、イマイチよく分からなかったりもする。…そうか。泣きますか。


フランダースの犬のラストに涙する二人

このアニメを見た由良は、始めから親がいないのと、親に愛されないのと、どっちがいいのか、と考える。そんな小学生の由良に、多田がかける言葉はこの作品のハイライトでもあるだろう。彼自身、なかなか解決のつかない想いを抱え、由良に言ったようには生きられていないのだけれど…。

その他、ルルのヒモのシンちゃん役で松尾スズキ、まほろ署のベテラン刑事・早坂に岸辺一徳、というおなじみの俳優も脇を固めている。早坂が、「便利屋」という職業の、ある種の中途半端さを嫌い、執拗に多田に絡んで来る様子が少し面妖で、この刑事の異様に屈折した性格などをにおわせる。一徳さんは最近、得体の知れないヌエのようなオヤジの役が多くなった気がする。目の下がボッコリと膨れてカメレオンみたいになったせいか、もう気弱な善人の役などは、逆立ちしてもハマらなくなってきたのかもしれない。



その他、ドラマ版にもゲスト出演していた麿赤兒が、本作では、多田便利軒のお得意さんの頑固オヤジを演じていた。

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誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことじゃない?と、行天は多田に言う。
便利屋という仕事を続けつつ、風来坊の行天よりも、実は自分の方がもっと孤独だった事に気付いてしまい、多田はショックを受ける。しかし、多田は他ならぬ行天から必要とされているのだ。ラスト、「多田便利軒は、ただいまアルバイト募集中だ」と言われた行天が、心底嬉しそうに「うひゃは!」と笑い声をあげながら、多田に付いていく姿に、彼にとって、多田はただ一人のアンカー、まっとうな世界に彼を引き止めておくためのアンカーである事が窺われる。なんと言っても、二人をそもそも繋いでいるのは「小指の思い出」なのだから…。
多田にとっては、時折、迷惑でウザったくても、行天は彼の傍でうだうだとソファに寝転がりながら安らいでいるのだ。そして、真面目で融通のきかない多田に欠落している部分を折々さりげなく補うのである。その突発的な行動力と、意外なまでの洞察力で。
多田は多田で、寝てばかりいる居候の行天を鬱陶しく思いながらも、しかし、彼の身が危ないとなれば必死で夜の街を走り回らずにいられないし、出ていけ、と言いながら、彼の姿を探さないわけにはいかないのだ。つまり、多田にとっても、いつしか行天は厄介だと思いつつ、かけがえの無い相棒になっているのである。


なんやかんやと言いつつも、二人で楽しそうにやっているじゃないの

底に流れているテーマは、人はどこまでやり直せるのか、人生には、やり直しがきくのか、という事であろうか。
多田は由良少年に言う。「人生でやり直しがきく事なんて殆どない」と。しかし、「求めて得られなかったものを、自分が人に与える事はできるのだ」と。
ワタシ個人の意見を言わせてもらえば、人生はある程度までやり直しがきくんじゃないか、と思っているのだけれど…甘っちょろいかしらん。ふほほ。

と、いうわけで、連続ドラマになった続編の「まほろ駅前番外地」と、二人の関係性や空気感などは変わらないが、底に人としてのシリアスな悩みを抱えつつ、互いに必要な存在として認識しあっていく多田と行天を、原作のテイストに添ってきちんと描いていた良い映画だったと思う。公開当時、劇場ではヒットしなかったらしいけれども、劇場よりはDVD向きの作品であるかもしれない。

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余談だが、監督の大森立嗣は麿赤兒の長男で、俳優・大森南朋の兄だと今回初めて知った。だから父も弟も出ているわけなのね。なるほど、納得。

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