「ノルウェイの森」(エクステンデッド版)

-死ぬこと、生きること、愛すること-
2010年 「ノルウェイの森」パートナーズ / 東宝 トラン・アン・ユン監督



この映画が封切られた頃に、観なくても想像がつくし、全く観る気になれないという主旨の記事を書いた覚えがある。劇場公開版が公開翌年あたりにCSで放映された時に、ちらっと斜め見してみたが、やはり予想された通りだとしか思えなかった。それから数年たって、今年、necoで放映されたエクステンデッド版を深夜にたまたま途中から観たら、あれ?案外悪くないのかな、と感じた。そこで次回の放映を予約録画をしておいて、初めて頭からちゃんと観てみた。思っていたよりも原作の雰囲気が良くにじみ出た映画だった。
ワタシは村上春樹作品は好きだし、ある時期まではハルキストの端くれだったのではないかと思う。村上春樹を読み始めた80年代から、一貫して好きな作品は「羊をめぐる冒険」「ダンスダンスダンス」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などの系統の作品であり(最も好きなのは「ねじまき鳥クロニクル」)、「ノルウェイの森」や「国境の南、太陽の西」は嫌いな部類に属する。余談だが、この傾向は欧米の読者と同じだそうで、アジア各国の読者は「ノルウェイの森」、「国境の南、太陽の西」の系統の作品を愛読する傾向が強いらしい。

そんなわけで、原作も春樹作品の中では苦手な部類に属するせいか、この映画化作品にも興味が持てず、ましてや直子を菊池凛子が演じるとあってはもう何をかいわんやだ、という感じをずっと持っていたのだけど、今回、観る気もなく、風呂あがりに偶然CSで流れているのを目にしているうちに、段々と映画全般についても、菊池凛子の直子についても、ふぅん、そうか、悪くないなぁ、という印象に変わっていった。



松山ケンイチが役にハマっているだろうというのは、最初から何となく分かっていたし、事実非常にハマっていたけれども、再見してみて最も印象が変わったのが、菊池凛子の直子だった。外見はともかく、内面的な部分がきちんと直子になっている。ことにセリフの話し方にそれらしい感じが出ていて、ほんの些細な事柄や、微かな空気の違いにも損なわれてしまいそうな直子の雰囲気がよく出ていた。ルックスがもう少し原作から受ける直子のイメージに合っていれば良かったと思うけれども、それを言っても仕方が無い。けれど、この映画の中の直子としては、求められるものをきちんと出していたように思う。資質的には向いている役とはいえない役でも、説得力をもたせて演じ切る事ができるというのは、確かな演技力、表現力のなせる技だろう。あまり好きな女優ではないけれども、確かな才能をお持ちであるという事がよく分かった。一心同体だったような幼なじみの恋人に、突然、自殺という形で先立たれて、生きるということ、愛するということが分からなくなってしまった悩み深い直子の魂の叫びが、よく伝わってきた。



原作は随分前に読んだきりで忘れていた部分も多かったのだけど、映画を観ているうちに、段々と断片的に思い出されて来たりもした。劇場公開版をきちんと観ていないので、エクステンデッド版はどこがどう追加されて20分長くなっているのか分からないのだが、数年前にCSで劇場公開版を斜め見した時に感じた冗長感を、20分長い筈のエクステンデッド版で感じなかったのは、久しぶりに観たせいか、少し編集が違うせいなのか、それとも、ワタシの感じ方が変わったせいなのか、そのいずれかだと思うけれども、不思議ではある。ともあれ、今回再見して、村上春樹がこのトラン・アン・ユンによる映画化作品を気に入っているという心持ちが、なんとなく分かった気がした。

緑とレイコさんも原作から受ける印象と異なるのだが、まぁ、トラン・アン・ユンの捉えた緑とレイコさんという事で、これはこれでいいかもしれない。緑は出来ればセシール・カットぐらいにベリーショートで、もっとはっちゃけた感じの女性として描かれていると良かったけれども、セリフが棒でも、水原希子の緑も、キュートだし、そこそこエキセントリックで悪くはなかった。彼女は日本人ではないそうだけど、風貌がなんとなくベトナム女性と近い気がするのは、ワタシだけだろうか。
レイコさんはもっと枯れた感じの女性の方がイメージに合うのだけど、まぁいいか。小説と映画が全く同じである必要はないのだろうし。要は、原作のエッセンスが上手く表現できていれば、それでいいのだ。



俳優以外では、映像と音楽も良かったと思う。自然描写が美しい映像とともに、最も印象的なのがジョニー・グリーンウッドの音楽で、シーンの背後に流れる音楽は作品の持つ静謐でセンチメンタルな世界によくマッチしていた。ドアーズやカンの挿入曲も、効果的に時代の空気を顕していたのではないかと思う。

主人公のワタナベと直子、ワタナベと緑が散歩をするシーンの背景は、都内という設定のシーンでも、都内とは思えないような静謐な庭園や草木の中で、のちに登場する京都の山の中の療養所を取り囲む森が日本の森とは異なる空気感をたたえているのと共に印象的だったが、そういう森の緑の中のシーン以外では、外国人が監督をしている、という事をほとんど意識させない映画だったようにも思う。

60年代末から70年代にかけての時代考証もきちんとなされていたと思うし、ワタナベがバイトをするレコード屋とか、ワタナベが住んでいる学生寮も、それらしい雰囲気が出ていたと思う(レコード店店主で細野晴臣、寮の門番で高橋幸宏、大学教授で糸井重里などが登場する。突撃隊はイマイチだった…)。外国人が監督をした映画としては、よくその時代の日本の空気感を出したな、と思う。(…と言いつつ、ワタシだってその時代の映画やドラマでしか、その時代の風俗や雰囲気などは知らないのだけれど)


ワタナベの住む学生寮 それらしい感じが出ている

登場人物の服装や髪型も時代の空気感がよく出ていた。松山ケンイチの佇まいも、その時代にゴロゴロいたであろう、ノンポリの学生の感じがよく出ていたと思う。読者がどうしても村上春樹本人のイメージを投影しがちなワタナベ君としては、松山ケンイチは、いささか長身で脚が長過ぎるとは思うけれども。



独特の人生観を持つ永沢というキャラも、映画を観ているうちに、そういえばそんなキャラ出て来たな、と思い出したのだけど、玉山鉄二がけっこうハマっていた。その恋人のハツミさんを演じている初音映莉子は、原作を読んだ時に、こういう感じだろうなと脳内に描いた通りのイメージだったので、ふ〜ん、と思った。初音映莉子は「終戦のエンペラー」にヒロイン役で出ていたっけ。



全ての発端となるキズキを演じているのは高良健吾。出演シーンは少ないが、寡黙な中に誰にも言わない何かを抱えた人間の雰囲気が出ていたと思う。
それにしても、キズキは何故、17歳で突如死を選んだのか。全てはそれが発端なのだ。何の説明もなく、キズキが一人で死んだ事が。小説には、若くして、これという理由も傍目には分からぬまま、こつ然として死んでしまう人間が時折登場する。それまで特になんらそんな兆候を示さず、ごく普通に暮らしているように見えた人が、突如死を選ぶのはどういう心理なのか。何が彼を死に向かわせるのか…。宮本輝の「幻の光」も、幼なじみの男と結婚した女性が、夫に突如自殺されてから、数年後に再婚してのち、徐々に立ち直っていきつつも、心の底に最初の夫の死のショックと、なぜ?という疑問が、ずっとわだかまって消えない女性の姿が描かれていたが、誰にもその死を予感させずに、若くして唐突に自ら死を選ぶ人のメンタリティは永遠に解けない謎だ、とつくづく思う。ただ、生まれた時から自殺願望に取り憑かれている人というのが存在するのだろう、としか言えない。



そして直子。子どもの頃からキズキと一心同体のように生きてきた直子の体は、何故、キズキを受け入れる事ができなかったのか。キズキとはどうしても出来なかったのに、20歳の誕生日にワタナベに抱かれて感じてしまった事で、直子は更に収拾のつかない混乱に陥る。それは、あとにも先にも、その時一度しか直子の身に起きなかった事なのだけれど…。人生には、そういう悪魔的に皮肉な時が、まま、あるのだろう。
「なぜ」と泣く直子をなす術もなくワタナベがみつめるシーンは切ない。好きな女の子が居て、その子が愛しているのは自分ではなく死んでしまった親友で、しかも、その親友とはどうしても出来なかったのに、なぜあなたとは出来たのか、と泣かれるのは、男として、なかなかにやりきれないものがあるだろう。

静かな画面の中で、この「せつない」感じが、全編にじわじわとよく滲んでいたし、何より予想外に原作の空気感がよく伝わってきた映画だった。小説の映画化というのは、原作の持つ空気感がちゃんと伝わればそれでいいのだな、と改めて感じた映画だった。



東京の大学に入ったワタナベが、同じく東京の女子大に入っていた直子と1年ぶりに再会するシーンで、もうかなり精神的に危うい状態になっている直子の表情や、あてもなく競歩のように歩いて歩いて、いつの間にか、よく知らないところに立っていたような表情をする菊池凛子の直子は、冒頭からきちんと直子になっているな、と感じた。その後、二人で歩いていく、公園の中なのであろう森の木々の枝が、風に煽られて下から湧き上るように揺れるシーンが美しかった。
風や光がわたっていく、草原や木々の葉の描写が、どのシーンでも美しく、印象的な映画だった。

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