なぜ、今「こころ」なのか?

-連載開始から100年目に読み直される漱石の代表作-



少し前に、BSで「漱石「こころ」100年の秘密」という番組をやっていた。作家や脳科学者や漱石研究が専門の学者などによる「こころ」の読書会(専門家でない一般読者という立場で若手女優も居た)といった番組で、予想外に面白かった。でも、なぜ今「こころ」なんだろうかな、と思ったら、漱石が「こころ」の新聞連載を開始してから100年目という節目の年であることや、現在は森鴎外とともに夏目漱石も、ずっと定番だった高校や中学の国語の教科書から消えているという事で、この先、「こころ」はどう読まれていくのか、漱石は国民作家で有り続けられるのか、という議論の湧き上りとともに、いま、再び静かに「こころ」にスポットライトが当たっているのだろうかな、と思われた。

漱石が国民作家と認識されていることの裏付けとして「こころ」が累計で、今日までに1千万部以上売れている国民的ベストセラーであるという事実がある。でも、「こころ」は最初からベストセラーだったわけではなく、大正時代は累計で2万部程度しか売れていなかったらしい。売れだしたのは昭和に入り、岩波文庫になってからで、戦後は更に教科書に載ったため、文庫の売れ行きが飛躍的に増した。
作品が国語の教科書から消えたら、夏目漱石は通過儀礼のように読まれる作家ではなくなるのではないか、漱石文学はこの先、生き残っていかれるのか、という議論は少し前から時折目にするのだけど、そう言いつつも連載開始から100年たったといえば、特集番組が作られたり、朝日新聞でリバイバル掲載されたり、「こころ」をどう読むか、という事がテーマの本などが出版されたりしているのをみると、なんだかんだ言って、「こころ」って根強いじゃないの、と思うわけである。

殊に冒頭の鎌倉の海岸で、書生の「私」が、西洋人と連れだって海水浴に来ていた「先生」と初めて出会うシーンについて、海岸で年上の男性をいきなり見初めるなんて(まるでベネツィアで異邦の美少年を見初める初老のアッシェンバッハのありようを逆に行くような感じで)、「私」の心情はボーイズ・ラブなのだ、などという説がけっこう流布しているのを知ると、漱石先生の作品は21世紀にも、それなりに生き残っていけるんじゃない?という気がするわけである。

ワタシに関していえば、漱石作品の中で、「こころ」は好きな方ではないし、「私」が鎌倉の海岸で先生に目を止めたのは、単に西洋人を連れていたから目立ったという事に過ぎない、と思ってきた(今でも思っているけれど)。
小説や映画やドラマの中で、それとあからさまには表現しないけれども、裏に同性愛のニュアンスが隠されている、という事について、ワタシはけっこうアンテナが働く方だと思ってきたのだけど、「こころ」の「私」と「先生」について、そんな風に考えた事は一度もなかったので、文芸評論の世界において、そういう説が定説化してきている、という事には些か驚き、なんだか世の中が全体に少女漫画のような発想に陥っている、というか、少女漫画の影響を受け過ぎなのでは?などと思ってしまった(それとも、ワタシもそれなりに年を取って感性が鈍ったという事なのか…ガーン)。でもまぁ、そう言われてみると、「私」は何故、特に理由なしに「先生」にああも惹かれるのか奇妙ではあるし(海岸で何日も先生の姿を目で追うなど、ストーカー気味だったりする)、深刻な親友Kと「先生」の間にも、そこはかとなくホモセクシャルな空気感があると思えば、そう思えない事もない。

漱石作品の中で、「こころ」はそんなに好きではなかったので、今日までに2度ほどさらっと読んだきりでこだわりが無かったせいもあるが、<下>の「先生と遺書」の部分が他と比べて異常に長いという事なども、今回、「漱石「こころ」100年の秘密」を見て、へぇ〜、そうなんだったっけ、と初めて気付いた。まぁ、言われてみれば確かに長い。そして、<中>の「両親と私」は異常に短い。どうでもいいんじゃないかというぐらいに短い。そもそも、「こころ」は「心 先生の遺書」というのが新聞連載時のタイトルだったらしいので、もちろんそれが作品の核なのだけれども、その部分が異常に長いという事にも気付かないほどに、ワタシは関心が薄かったわけである。

ワタシの初漱石はご他聞に漏れず「坊ちゃん」だった。我が家は母が全集ものをがんがん取り寄せて揃えてくれたお陰で、講談社の少年少女向け世界文学全集と、偕成社のジュニア版日本文学全集とその姉妹版の世界文学全集は、小学校の中学年から中学生時代のワタシの愛読書だった。そんなわけで、ワタシが最初に漱石に触れたのは教科書ではなく、偕成社のジュニア版日本文学全集による。小学生の時に「坊ちゃん」を読み、中学の頃に「吾輩は猫である」を読み、「草枕」を読み、偕成社のシリーズに入っていなかった「虞美人草」は、新潮文庫を買って読んだ。「草枕」で漢詩に興味を持ち、「虞美人草」では、ヒロイン藤尾の腹違いの兄で哲学者の甲野さんを、ちょっと素敵だわ、などと思って読んでいた。「三四郎」も読んだが、中学生の頃には「三四郎」の小説としての魅力などはサッパリ分からなかった。三四郎のキャラが魅力に乏しい事が大きかったのだと思う。「三四郎」はともかくも、漱石は江戸っ子で、口絵の写真もハンサムだし、少女の頃から漠然と好きな作家だった。でも、「こころ」には、高校生になるまで手を伸ばさなかった。辛気臭そうで興味が湧かなかったからだ。高校時代には「夢十夜」とか「文鳥」、「硝子戸の中」、「道草」、「それから」などを新潮文庫で読んだ。これらの作品は今でも好きで、時折読み返す。最近でも、集英社が新装版の文庫を、漱石と三島の作品に関して出していて、集英社文庫の「それから」は、カバーの装丁が気に入ったので買ってしまった。高校生の頃に買った新潮文庫が、古くなって活字も薄くなり、読みにくくなっていたので、カバーの装丁が素敵な新しい集英社文庫は、文字も大きくて読み易く、買い替えるのに最適な文庫だった。それで久々に読み返してみたのだけど、何度読んでも、いつ読んでも、ワタシは何故だかやっぱり「それから」が好きなのだな、と再確認した。



「それから」がとても好きなので、そこから遡って、三部作と言われる作品の最初である「三四郎」をつい昨年、読み返してみて、遅ればせながら「三四郎」も好きな作品の仲間入りをした。あれは思春期や20代に読むよりも、30代後半以降になってから読む方が良さがしみる作品なのではなかろうか。その瑞々しい「青春時代」の甘っちょろい刺激や煩悶などは、ある程度オトナになってしまってからの方が、目を細めて受け入れ易くなるのだと思う。若いうちに読んでも面白くもなんとも感じられない。三四郎があまりにヒヨコでキャラとして面白みに欠けるからという事が大きいけれども、美穪子のように上から目線で男を振り回す女が珍しくもなんともなくなってしまった現代においては思春期に読んでも仕方がないかもしれない。

「三四郎」は、最初に読んでからかなり長い時間を経て好きな作品になったけれども、「こころ」はこの先、好きになったり、良さが分かったりするだろうかと思うと、甚だ心もとない。でも、「漱石「こころ」100年の秘密」で、色々な意見や読み込み方がなされているのを見て、ふぅんと思った事はいくつかあった。例えば、真面目な求道者のKは金之助のK、つまり、漱石による自分自身の投影ではないか、という見方である。孫の夏目房之介は、漱石は「生よりも死に、より親しみを感じる」傾向があった人(死は解放だと思っていたのだろう)だろうと書いているが、そんな真面目な人が、人の道だの生き方だのを云々して真っ向からそれらと対峙すれば、行き詰まったら死ぬしかなくなるのは自明の事だ。漱石は小説を書く事で折々、病的にキリキリする神経をどうにかなだめ、自殺はしないで人生を全うしたけれども、小説を書いていなかったら、彼の人生はもっと短く終わっていた可能性もあったわけだ。つまりKは、小説を書かなかった場合の漱石その人であるのかもしれない、と。
…なるほど。確かにそうかもしれない。
また、漱石は経済小説の作家だった、という意見も面白かった。「こころ」でも先生は実家の財産を叔父に部分的にだまし取られた、という事について、かなり長きに渡ってネチネチと恨みつらみの感情を抱いている(でも、何も仕事をしないで妻と悠然と銀行利息だけで暮らしていかれる余裕は依然としてあるわけだ)。中年高等遊民として寂しくも優雅に暮らしつつ、先生の頭からは叔父にだまされたという事と、お金は大事だ、という事はガンと根を張って抜けていかない。先生のセリフには財産やお金に関する事がしばしば出て来る。漱石は、「経済状態が人間関係を決める」という事を書いた作家だった、という関川夏央の意見は、ワタシには新鮮だった。

「こころ」という小説は、妻を道連れに明治天皇に殉死した乃木希典に対する批判がこめられているのでは?という高橋源一郎の意見も面白かった。日露戦争での戦い方のまずさについて、当時でも、読む人が読めば分かったかもしれない批判をさりげなく小説の中に差し込み、なおかつ100年後の人間が読んでも、そうかもしれない、と分かるように書いている事が、漱石が作家として偉大であることの証ではないか、と。

また、先生は、Kの事があってから長い事、馬齢を重ねてきたのに、何故、唐突に「明治の精神」などを持ち出して殉死にあやかって死んだのか、という点については、ずっと「死」への誘惑を抱えながら妻のために生きてきた先生が、自分を慕ってくれる書生の「私」が現れたために、自分の財産と妻の静を「私」に引き受けてもらえるというアテが出来て、久しく願っていた「死」に向かう事ができたのだ、という説も、先生的にはそうかもしれないな、と思えた。つまり、「明治の精神」というのは、自死を選んだ先生の、世間一般と妻に向けての、みせかけの名分に過ぎないという事である。あたかも、三島由紀夫が45歳での、あの自決について、右翼思想というみせかけの名分を世間に向けて提示したように…。

この番組を見て、従来の定番的な読まれ方(漱石お得意の三角関係による明治の近代知識人のエゴを描いたもの)とは異なる、昨今の「こころ」の読まれ方にちょっと興味が湧いたので、「夏目漱石「こころ」をどう読むか」という評論(エッセイ含む)集を図書館で借りてきた。これもところどころ興味深かったが、中でも山口大学教授の平野芳信という人の評論「最初の夫の死ぬ物語—「ノルウェイの森」から「こころ」に架ける橋」が印象的だった。この人は、「ノルウェイの森」と「こころ」は似ている、と初読で感じたというのである。正確には、「ノルウェイの森」のプロトタイプである「蛍」と「こころ」が似ている、という事で、キズキとKはあたかも死ぬためだけに生まれてきたような人物であり、それは民話の一形式である「猿婿入」の形式に当てはまる、というのである。この民話の形式に当てはまる云々は、ワタシには強引なこじつけのように思われたけれども、春樹の小説には、その特有の文体に装飾されてはいるけれども、おなじみの物語の形式があり、それが読者を惹き付けるのだ、という説や、春樹が第2の漱石ともいうべき国民作家になりつつある、という結論については、さもありなんと思った。

いとうせいこうと奥泉光の対談は、「私」と「先生」、「先生」とKの間にボーイズ・ラブ的感情があるという事をメインに展開されていたが、新聞連載小説の書き手として、読者を引っぱり、惹き付ける手法において、漱石が非常にテクニシャンであるという事も語られていて面白かった。たとえば、鎌倉の海岸で先生に出会った「私」が、話をするキッカケもないままに、何日か海岸で先生を眺め続けたあとで、ある日、先生のあとをついて海で泳ぎ、沖で先生と二人きりになった時に、ふいに先生が振り返って「私」に話しかける場面で、何を話しかけたのか、その内容は書かないのが巧い、などと感心していて、ははは、と笑った。また、このシーンで、「先生」に話しかけられた「私」が、「自由と歓喜に満ちた筋肉を動かして、海の中でおどりくるった」という描写に、これはまさしくボーイズ・ラブですよ、と盛り上がったりしていた。言われてみると、確かに「私」の喜びようは過剰ではあるけれども、夏の天気のいい日に海で泳いでいて、自分は若くて元気でいくらでも泳げて、その上に、興味を持っていた人と知り合いになれたら、それは気持ちがよくて、海の中で踊り狂ったりもしちゃうでしょうよ、という気もしなくもない。必ずしも「先生」と口をきくようになったから嬉しくて踊り狂っているだけではないように書かれているのだけど、深読みする人は、深読みするなぁ、とニヤニヤした。また、父の危篤で故郷に帰った「私」のもとに、先生の分厚い遺書が届く場面にエンタテイメントの技が駆使されている、と盛り上がっていて、100年後の人間にも、物書きとして参考になる部分がいまだに大いに有るという事なのだろう。さすが漱石先生。新聞小説の作家として真面目に工夫を凝らした事が、100年後にも生きている。

そういえば、漱石は「こころ」に100年ののちにも、何故だろうかな、と思わせるような謎や仕掛けをあれこれと仕込んでいる。
「漱石「こころ」100年の秘密」では、小説の出だしの、私はその人を常に「先生」と呼んでいた。という一節の中で、先生についてよそよそしい頭文字などを使う気にならない、と書いているのに、<下>で登場する「先生」の親友Kについては、重要人物にも関わらず、Kというイニシャルで語られているのは何故なのか、とか、<上>の部分に、「子供を持ったことのないその頃の私は」と書いている事から、今は子供を持っていて若い学生ではなくなっている、という推察が成り立つ事とか、<下>の先生と遺書の出だしが、「…私がこの夏 という形で、鍵括弧から始められているのは何故だろうか、という事でも盛り上がっていた。ワタシは単に先生の手紙の文章だから鍵括弧で始めているのだろうと思ってきたのだけれど、そんな平板な読み方では「こころ」を楽しむ事はできないのかもしれない(笑)
まぁ、つまり、「こころ」は100年後の今日も、読み方にいろいろな遊び心を駆使できる余地がある作品なのであり、だから、100年たっても、まだ俎上に乗せられてあれこれと論じられる生命力を持った小説で有り続けているわけだ。

夏目漱石の作品は、教科書でとりあげなくなっても、今後も健在で有り続けるのではなかろうか。「こころ」はともかくも、「坊ちゃん」は大衆レベルで、いまだに強力な通過儀礼小説で有り続けているような気がするし、「夢十夜」も映画の題材として繰り返し取り上げられていくのではないかと思われるし、「漱石「こころ」100年の秘密」では、バランスが悪いとか、変な小説だとかケチをつけながらも、あの陰気な「こころ」をいいオトナが数人集まって、あれだけ楽しそうに論じるのだから、作品に100年たっても揺るぎないパワーがある事は間違いない。ワタシ的には「こころ」以外の漱石作品がもっと読まれて欲しいけれども…。

それにしても、日本において国民的ベストセラー、ロングセラーの地位を、「こころ」と「人間失格」が争い合っている、というのは、改めて聞くと、ゲー!という感じではある。双方、新しい事を好むアメリカ人の脳に比べると、保守的で悩みたがりの日本人の脳と感性に合った作品という事なのだろう、と番組で言っていたけれども、21世紀にも引き続き「こころ」(または「人間失格」)が読まれていくということは、日本人は21世紀も真面目で悩みたがりの民族で有り続けるという事になるのかもしれず、…う〜む。それってどうなんだろうねぇ、と、基本的には漱石ファンのワタシも、些か首をひねらざるを得ない気分ではあるのだった。

コメント

  • 2014/10/24 (Fri) 16:27

    こんにちは。
    漱石の作品はベタですが「坊ちゃん」のほか
    まともに読んだ記憶はないのですが(笑)
    所謂、文学作品といわれる書物があまり得意ではない
    私でも読み易かったという記憶があります
    余談ですが先日、漱石が通った?といわれる
    神田の『松榮亭』に行ってみました
    残念ながら味の方は期待したほどのものではなく
    フツーの洋食屋さんでしたが・・
    私は神田だと『まつや』か『ぼたん』がいいですね・・
    あ、話が脱線してしまいました
    スミマセン
    頑張って下さい

  • 2014/10/26 (Sun) 19:01

    henry Gさん こんばんは。
    漱石の作品で読み易いのは「坊ちゃん」と「三四郎」ぐらいかもですね。
    後半になるにつれて、段々と内容も文章も苦渋に満ちて来るので読みにくくなります。
    神田の「松榮亭」、イマイチでしたか。上野の精養軒もよく登場しますよね。今は明治時代ほどの名声はないけれども、老舗ではありますわね。

  • 2014/11/27 (Thu) 20:07
  • 2014/11/27 (Thu) 21:34


    なるほど。ありがとうございます。そのうちに。

  • 2016/10/16 (Sun) 07:12
    今もっとも旬な俳優

    キキさんコンバンワ。
    nhkが夏目金之助さんの妻 鏡子さん(後年漱石門人と本屋さんたちによりよってたかって??クサンチッペに例えられた謎の妻)に焦点を当てて作った連続ドラマが昨日最終回が放送されました。個人的には、nhkとゆう組織にいる人が作ったものは、ニュースを含め最近特にあくびが出るほどつまらなく思えて避けていたのですが。これは明暗の作者の家庭を扱ったモノとの事で初回から興味深々でさいごまで見続けました。
    してその結果は。。鏡子演じる尾野真千子の久々の熱演をあっぱれと言うべきでしょうがそれ以上に夏目漱石の日常を彷彿とさせた長谷川博巳の演技は見事でした。過去に仲代達也ほか大物俳優が演じてきた陳腐なステレオタイプの演技とはまるで異なるあの作家のコアともゆうべき内面の神経質さが一見さらっとした自然な日常の姿で見事で表現されていたことに驚きました。まさに日本で今もっとも興味がつきない旬な男優の気がします。

  • 2016/10/17 (Mon) 21:27
    Re: 今もっとも旬な俳優

    小林先生さん こんばんは。
    そうそう、そんなドラマやるんだなぁ、と思ってはいたんですが、ここのところあまりに忙しかったので、すっかり忘れて見逃しました。まぁ、NHKだからそのうち再放送があるでしょうね。
    出来が良かったみたいですね。長谷川博巳が夏目漱石ってどうだろうと思っていたんですが、ハマってましたか。尾野真千子の鏡子じゃ、ちょっと綺麗すぎるのでは?とも思ったけれども、どんな風に描かれていたのか見てみたいですわ。
    鏡子というと、ちょっとやそっとの事には動じない、あの女相撲のようなドッカリとした佇まいや物腰が強いイメージとしてあるわけですが、そこを尾野真千子がどういう風に表現したのか、興味があります。

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