「6才のボクが、大人になるまで。」(BOYHOOD)

-流れ去る時と、積み重なる時間と-
2014年 米 リチャード・リンクレイター監督



今年は、観たい映画が殆ど無いので、ここ数年で最も映画館に足を運ばなかった年(観ても何も書く気にならなかった映画も2本ほど観た)だと思うけれども、食指が動く映画があれば見に行くのはやぶさかではない。まえに劇場に映画を見に行ったのは10月の初めだったと思うけれど、久々に封切り映画で観たいものが出て来たので、映画館のシートを予約した。

原題は「BOYHOOD」。少年時代である。ストレートでいいタイトルだと思う。
色々と工夫の果てにつけたのであろう邦題も悪くはないと思う。
父親、母親、娘、息子を演じる俳優、女優が12年間変わらずに同一の役を演じ続けるというこの映画。息子が6歳の時に物語が始まり、18歳の旅立ちの時を迎えて一応の幕を降ろすのだが、12年間、子供の成長を追いながら、家族を演じる主役の4人が同じ顔ぶれで集い、ある家族の物語を紡いで行くという実験的な手法で撮られた、さりげなく静かなアメリカの家族の物語。そういう映画を監督も撮りたかったのだろうし、まさに、そのような映画になってもいた。

どこの家族にもありそうな話を淡々と積み重ねていく脚本。12年間の積み重ねであるから当然165分という長尺にもなっているが、長くてダレる、とか退屈する、間延びする、という感じは無い。自然体で、よくある日常を描いているのに退屈させない脚本を書く事は、かなり難しい。至難の業と言ってもいい。それは一重に、この映画を企画し、自ら脚本を書き、延々と12年間に渡って毎年少しずつ撮影しながら狙い通りの作品を仕上げたリチャード・リンクレイターの感性と根気あってこそ、であるだろう。

主役のメイソン少年を演じるのは、オーディションで選ばれたエラー・コルトレーン。ぼうっとしているが、自分なりの世界観を持っている少年を自然に演じていた。6歳ごろは小柄で可愛いのだが、小学校高学年ぐらいでちょっと太りかけたような時期があり、うわ!このまま太ると観てるのがきっついなぁ…と危ぶまれた。が、中学生以降は、細すぎるぐらいスリムになり、そこそこ背も伸びてホッとした。18歳になったメイソン(エラー・コルトレーン)は、どことなくヘイデン・クリステンセンをひ弱にして、モワリと暗くしたような感じの若者に育った感じである。



メイソンの姉サマンサを演じているのは、監督の娘ローレライ・リンクレイター。初登場のローティーン時代は、肉付きよし子、という感じで下半身がブリンブリンしていたので、彼女についても、この先どうなることやら…と思っていたら、やはり中学生ぐらいになってすらりとやせ形の体型になった。成長するに従ってキャラも割に普通の娘になっていったが、小学生の頃はボヤーっとした弟のメイソンと異なり、成績もよく、ちゃっかりしていて、はっちゃけて生き生きした言動が面白く、彼女のセリフや動きで観客が受けるシーンがけっこう有った。



この姉弟の男運の悪い母を演じているのは、パトリシア・アークエット。撮影時期によって、かなりドッカンとした体型になっていたり(プライベートで妊娠している時期や、産後の時期などもあったのかもしれない)、ちょっとホッソリしていたりしながらも、二人の子供を懸命に育てつつ、自分の人生も充実させたいと頑張る母を演じていた。パトリシア・アークエットは、女優としてのありようや演技の雰囲気が、ちょっとメリル・ストリープ風味になってきたかもしれない。若い頃は、容姿的に姉のロザンナ・アークエットの方がキュートでヒロインとしての華もあるタイプだったので、女優としては姉に水をあけられていた印象だったが、妹には姉にない演技力と存在感があったのだろう。結局、時の篩にかけてみると、いま第一線の女優として残っているのは妹の方である。ウサギとカメ。人生レースは結構長い。
本作でも、何度も結婚に失敗しながらも前向きに進みつつ、子供二人を巣立たせる母を、力まず、いい感じで演じていた。おっかさん体型は、おっかさん役を演じる時には、有効な武器なのである。一目瞭然。無言の説得力があるものね。
この母が、息子が大学に入るのをキッカケに子育て終了を宣言し、家を売り払って小さなアパートに移るから、自分たちの荷物を、持っていくもの、捨てるもの、売るものに分けろ、と半ば強制的に巣立ちを要請するシーンは、キッパリしていてカッコよかった。



そして、姉弟の父である、なんとなく頼りないメイソン・シニアを演じているのが、ザ・情けない顔No.1 のイーサン・ホーク。垂れ眉毛の下の奥目。気弱な情けない顔で情けない男を演じさせたら右に出る者はないだろう。今回は、お調子者で夢を観ているだけのダメ男かと思いきや、息子と娘をこよなく愛している、とても真っ当な、愛情だけは売るほどたっぷりとある父親を好演していた。当初はかなり頼りなく思えるのだが、パトリシア・アークエット演じる母オリヴィアが、実は問題のある男と気付かずに再婚した相手がアル中のDV男だったり、再々婚の相手が、ボランティアや愛国心はやたら持っているが、あまり稼げず、自分のルールを家族に押しつけてくる鬱陶しい説教男だったりするのを観るにつけ、最初はなんだか情けなく頼りなく感じられた実の父であるメイソン・シニア(イーサン・ホーク)が、とても人間味に溢れ、子供達と元妻を愛するチャーミングな父親として、その輪郭がくっきりと浮かび上がって来るのである。イーサン・ホークはまさにハマり役かつ儲け役で、ワタシがこれまでに観た中では、一番ナイスな男を演じていたと思う。ああいう父親はいい。殊に息子にとっては、本当にいい父親だと思う。歌で食べていけない事を悟って、途中から割り切って保険会社に勤め、そのうちに素敵な奥さんと再婚して新しい子供も作る。二度目の奥さんと息が合っている感じも、観ていてなかなか良かった。ハイティーンになった息子と父親がキャンプに出かけ、二人で湖ではしゃぎながら泳ぐシーンなど、このお父さんで良かったねぇ、とメイソン・ジュニアに思わず心の中で語りかけた。



母親の結婚・離婚のたびに引っ越し、違う家に住み、学校も変わり…という事を繰り返しつつも、メイソンも姉のサマンサも特にねじ曲がったりもせずに思春期を乗り越え、それなりの歳月を経て親のもとを巣だっていく。その根底には、口うるさいが子供達を愛している母、そして、別れて暮らしていても週末には必ず子供と過ごす時間を大事にして、遠く近く見守ってきた父、という二人の親から豊かな愛情を注がれて育った事が、間違いなく大きいだろう。引っ越して環境が変わったり、義理の父親が入れ替わったりする中でまっとうに育つには、実の親の愛情は不可欠だ。逆にいえば、とうに離婚してしまっていても、新しい家族が出来ていても、気持ちが繋がっていて、互いに愛情を持ち合っていれば、家族はずっと家族であり続けられるのだ。

母親が恋に落ちて結婚し、そのたびにそれが次第に失敗の様相を呈して来るのを観ていると、こっちまでハラハラドキドキする。人間というのはなかなか分からないものだ。最初は感じがいいと思った男も、結婚して何年か一緒に暮らしてみないと、どんな面を持っているやら窺い知れない。母親の二度目の結婚相手である、知的で穏やかそうな大学教授は、当初は隠れアル中だったが、段々おおっぴらに酒を飲むようになり、昼間から飲んだあげくに暴力をふるい出すシーンなどを観ていると、結婚は博打だなぁ、とつくづく思ったりもする。メイソンとサマンサは、夫のアル中とDVから逃れなければ、と決断した母親に連れ出されて危難を逃れたが、あの大学教授の実の子の子供たちは、その後どうなったのだろうと思わずにはいられない。

ぼうっとしつつも思春期を乗り越え、一丁前に恋をしたり、失恋したりもしながら、メイソンは自分が何をしたいのか、何をして生きていきたいのか、次第に方向性を見いだしていく。

メイソンが高校を卒業し、母親が家でパーティを開くシーンでは、なんだかんだとありつつも、あの小さかったボクが高校を卒業する年になったんだねぇ…と観客は親のような感慨を抱く。子役の成長を追いながら1本の映画を撮って行く、という手法の効果は、観る者がどうしても子供たちの親のような気分にならざるを得ない、というところに端的に現れるのだと思う。



メイソンの構えるカメラはCanon製。あれはEOSかな。確かに写真というのは面白い。何年もまえから買おうと思っては、別にいいか、と先送りにしてきたのだけど、ワタシもそろそろ一眼レフを買おうかしらん、と、方向性を決めて親元を巣立ち、トヨタのピックアップトラックを運転して大学の寮に向かうメイソンを観ながら、ふと思った。

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