「インドへの道」(A PASSAGE TO INDIA)

-ガンジス川の月-
1984年 英 デヴィッド・リーン監督



デヴィッド・リーンの遺作となった本作。ワタシが最初に見たのは、レンタルビデオでだったと思う。
本作はE・M・フォスターの原作をベースにリーン自ら脚本を書いているぐらいなので、思い入れが強い作品だったのだろうか。どうもクライマックスから終盤にかけてヒロインの心情が分かりにくいのが難点だが、全編を通して、モーリス・ジャールの音楽と、忘れがたい美しいカットやシーンが随所にあり、最初に見た時から何となく好きな作品。イマジカで放映されたのを捕獲しておいて、久々に鑑賞。
1920年代、英国植民地時代のインド。チャンドラポアという英国統治下の架空の町が舞台だ。デリーからさらに汽車でかなり移動するこの町で治安判事を務めている婚約者に会いに、若い英国女性アデラと婚約者の母であるモア夫人がインドを訪れる。船でデリーに着いた客を出迎える、港の壮麗な門が鮮やかなインパクトを残す。

インドに好奇心を抱くアデラと、常に公平な心をキープしているモア夫人は、インドに着いて以降、同胞のイギリス人およびその夫人達のインド人に対する差別的で思い上がった態度を見せられてゲンナリする。デリーで既にそうだったのだが、チャンドラポアに着くと更に、アデラの婚約者でありモア夫人の息子ロニーまでもが、そういう手合いの一員であり(行政側の人間なので仕方がないのだが)、むしろスムーズな統治の為にはインド人に甘い顔を見せない事が肝要だと考えている事が明らかになり、アデラとモア夫人は失望を禁じ得ない。



インドにあってもクラブを作って英国人だけで集い、そこに小さなロンドンを持ち込む事に躍起になっている植民地の同胞にウンザリし、本物のインドとインド人が見たいと願うアデラは、モア夫人とともに、現地の国立大学の学長フィールディングを通じて、哲学者ゴドボリとアジズ医師に会う。普通のインド人の生活が見たいと思うアデラは、アジズの家に訪問したいと言うが、家に来られたくないアジズは、名所マラバー洞窟への旅を提案し、案内役を買って出る。全てを予見しているようなゴドボリだけは、洞窟に行くと何かが起こる事を察知しているが、何も語らない。全ては運命(カルマ)であるゆえに…。

本作でアカデミー助演女優賞他、様々な賞を獲った名女優ペギー・アシュクロフトは、異国の文化や宗教に敬意を払い、他者との違いを受け入れる、偏見のない穏やかなモア夫人を、知性と品位をもって好演している。画面に彼女が映ると、見ているほうも気分的にホワリとするものを感じる。モア夫人のシーンで最も印象的なのは、彼女とアジズ医師が初めて出会う廃墟のようなモスクで、二人が夜のガンジス川を照らす月明りを眺めるシーンだと思う。月明りで青く浮かび上がる寺院の石の床や壁を背景に、モア夫人(ペギー・アシュクロフト)が真知子巻き(古い)にした薄いストールが夜風にひらひらと揺れる。月明りの中、さざ波をたてるガンジスの流れの中程で、ワニが身をよじらせる。時にはベナレスから遺体が流れてくることもある、とアジズが言う。生と死が分ちがたく混在している川。モア夫人は、恐ろしい川、でも素晴らしいわ、と言う。このセリフはモア夫人の人となりを端的に顕している。






ガンジス川の月明かり

ヒロイン、アデラを演じるのはジュディ・デイヴィス。ワタシがこの人を最初に見たのは、深夜TVの洋画枠で流れていた「わが青春の輝き」というオーストラリア映画だった。小説家志望の生き生きとしたヒロインを演じていて、映画そのものも出来がよかったし、テーマ曲として使われていたシューマンの「子供の情景」も、映画と雰囲気が合っていて、とても良かった。もう一度見たいとずっと思っているのだが、なかなかお目にかからない。もう一度見たいけれどもなかなか観られなかった映画達は、ここ数年の間に殆ど観る事ができたけれども、「わが青春の輝き」だけはいまだに観られないでいる。(イマジカさん、どうぞよろしく)



本作では、うっすらと欲求不満を抱えた物堅い女性がインドを旅してカルチャーショックを受ける中、マラバー洞窟の中でパニック障害を起こし、錯乱状態になって思いもよらない行動に走る、という役を独特のトーンで演じている。アデラのあの錯乱の背景には、彼女の欲求不満が欠かせないファクターとしてあるのだと思うが、原作を未読なので、映画を見た限りでは彼女がなぜアジズを窮地に陥れるのか、どうもよく分からない。原作を読んでも分からないのかもしれないけれど…。
アデラは問題の洞窟に入る前に、アジズ医師にあなたは恋愛結婚だったのかと尋ねる。アジズは親の決めた見合い結婚だったと答える。それで愛情は持てたのかと問うアデラに、アジズは「私達は男と女で、若かったのです」と答える。



アデラの欲求不満を示唆するシーンとしては、チャンドラポアに着いた時に、婚約者ロニーにもっと熱烈に出迎えてほしかったのに、彼の礼節を保ったあっさりとした出迎えに肩すかしを食う様子や、夜、部屋をノックするロニーに胸をときめかせるが、ドアも開けず、「おやすみ」という挨拶だけで去って行くのにガックリするシーンがある。それらが積み重なった後で、昼、一人でサイクリングに出かけた彼女が、草ぼうぼうの荒れ地の中に建つ忘れられた廃屋のような寺院で、その寺院を装飾する、いくつもの男女の奔放な交歓図のレリーフに圧倒されるシーンが前半のハイライトだろうか。様々な姿で愛をかわす男女の彫刻を呆然としてみつめていると、その廃墟寺院を住処とする野猿の群れが蔓や壁を伝ってキイキイとアデラに向かってくる。アデラは恐怖し、一目散に自転車で逃げさる。





アデラが衝撃を受けたレリーフのある寺院について、あの沢木耕太郎の「深夜特急」インド・ネパール編に、それらしい寺院の記述が出て来る。カジュラホの有名な石造寺院を訪ねる部分だが、多分、この映画でロケに使ったのも、そのうちのひとつなのだろうと思われる。

彼女の脳裏には寺院の彫刻が忘れがたく刻まれる。眠れない夜のしじまに、男女の彫刻を脳裏に思い浮かべるアデラ。彼女の寝室の窓の外には、白い花が月明りにほわりほわりと浮かび上がっている。夜風が薄いカーテンを微かに揺らす…。女性のフラストレーションをもっとも美しく映像化したシーンだと思う。



アデラの婚約者でチャンドラポアの治安判事を務めるロニーを演じているのは、ナイジェル・ヘイヴァース。この人は「炎のランナー」で小粋なリンゼイ卿を演じていた人で、近年では「ダウントンアビー」にもヘップワース卿という役で出ていたらしい。TV出演が多いようだが、UKでは現在もコンスタントに売れているベテラン俳優の一人だろう。育ちのいいお坊ちゃんの役が似合う人で、リンゼイ卿役はそれが魅力的な方向に出ていたが、本作のロニーは、ハンサムだが凡庸で、真面目で融通のきかない面白みのないお坊ちゃんだった。インド人のアジズに「美人じゃないし胸もない」と評されるアデラを婚約者として愛しているが、ロニーに幻滅した彼女に婚約の解消を言い渡されたりするトホホな役回りである。ワタシはこの映画を見た頃、リンゼイ卿の余波でちょっとナイジェル・ヘイヴァースが好きだったのだが、この役を見てガックリした覚えがある。でも、いま改めて観ると、確かに役に合ったキャスティングではある。



植民地におけるイギリス人社会とは距離をおいている国立大学校長のフィールディングを演じるのはジェームズ・フォックス。この人も貴顕やインテリの専門職で、そういう役でしかお目にかかったことはない気がするが、これでもインテリ役で勿論ハマっていた。ちなみにこの人の兄は「ジャッカルの日」で有名なエドワード・フォックス。兄弟でもだいぶ身長が違う。息子は「オックスフォード・ミステリー」などに出演しているローレンス・フォックス。息子は父親より更に長身っぽい。で、本作のジェームズ・フォックスはインド人哲学者のゴドボリにある種の敬意を払い、アジズに友情を感じるフィールディングをいかにもな雰囲気で演じている。兄のエドワード・フォックスにはこういう役は演じられないと思う。何か裏があるように見えてしまって、別のお話になってしまいそうだから(笑)



アデラに妄想を抱かれるアジズ医師を演じるのはインド人俳優、ヴィクター・バナルジー。ワタシが最初にこの映画を見た時に、アデラはロニーが物足りないからといって、なんでこんなへちょへちょのアジズを相手に妙な妄想を抱いてしまったんだろうか?という疑問が浮かんだ。内心では、横暴な支配者のイギリス人に腹を立てつつも、面と向かうとへりくだってしまう卑屈さがあり、掛け値なしの人の良さもありで、インテリで弱気なインド人という感じである。このアジズ医師がもっと男性的で魅力に溢れていると、お話はただのメロドラマになってしまうのだろうし、主題はそういうことではないわけなので、アジズは非力でヘコヘコした被害者キャラの男でもいいのかもしれない。が、今見ても、アジズは人が良いだけで魅力薄だなぁ、と感じざるを得ない。声も甲高すぎる。もう少し態度物腰にキリっとしたところがあった方が良かったのではないかと思わないでもない。原作者のフォースターは、1913年の草稿では、アジズは暴行で有罪であり、法廷でも有罪の判決を受けることにしていたが、1924年の時点で、より曖昧な結末に変更したらしい。



そして、全てはカルマのなせる業、と何事にも超然としているゴドボリ教授を演じるのはアレック・ギネス。インド人哲学者の役を余裕のある態度と謎の微笑みで演じている。この頃はかなり肉付きが良く、フィールディングの屋敷の中庭の水辺に腰掛けて、足先を水につけてぽちゃぽちゃやっている姿は子供のようで少し可愛い。モア夫人やアデラと最初に会った日に、お宅を訪問したいと言われたアジズがその場しのぎにマラバー洞窟への探検旅行を提案するのを聞いて、ゴドボリはふと目をあげる。行けば問題が起こるだろう事は、彼にだけは分かっている。彼はその洞窟に行った事があるからだが、「洞窟について話して」と言われても極めて通り一遍の事しか言わない。何故なら、全てはカルマで決められている事なので、彼が何を言おうと言うまいと、アデラとアジズはマラバー洞窟へ行くことになったのだろうし、そこで何か問題が起きる事は、あらかじめ決まっていることだからだ…。輪廻転生を信じる哲学者ゴドボリは、神秘的で謎めいているが、同時にユーモラスな存在でもある。アレック・ギネスは余裕綽々で、楽しんで演じている感じがした。



インドというと、あまりに「混沌」というイメージが強く、強烈すぎて、インドという国にはワタシはさして惹かれないのだが、好きではないにも関わらず、この作品のインドは美しく、魅力的に描かれていて、一度観ると忘れがたい。多分、インドの苛烈な部分や生の隣に死が平然と存在するような描写がこの映画では生々しく扱われていないからだろうけれども、イギリス統治時代のインドにおいて、イギリス人に憧れつつもその横柄な統治を憎んでいるインド人のありようや、式典に招いておいて、全くインド人の相手をしないイギリス人の傲慢や思い上がりについても、さらりとであるが、ごく冒頭に近いところから触れられている。インド総督の歓迎式典に形ばかり招かれたインドの人々、カーストの上層の人たちなのだろうけれども、とりわけ女性たちの鮮やかなサリーの色や、その衣装の色の美しさに負けない女性たちの彫りの深い美しい顔が印象的に捉えられており、我がもの顔のイギリス人の滑稽さと、それに黙って耐えるインド人のありようを淡々と綴っている。



寝台特急の中で悠然と身を横たえる白人たちを乗せた夜行列車が陸橋を通過すると、その橋の袂にはホームレスの貧しいインド人たちが沢山眠っており、列車の振動で橋から煤や砂ぼこりなどが落ちて咳き込む。
冒頭の方で、アジズが仲間に、「どんなイギリス人も来て2年で変わる(横柄になる)。女は殊にひどい。半年で変わる」と言うシーンがある。モア夫人は、滞在が短かったにせよ、そういう変化を起こさない稀な英国夫人だったわけだが、アデラがアジズを訴えるという面妖な展開になり、公判が始まるという直前にモア夫人はどちらのために証言することも敢てせずに、一人インドを去る。列車で船の待つデリーに向かうモア夫人を、意外にもゴドボリ教授が見送る。モア夫人も教授に気付いて車窓から身を乗り出す。なんとなく「旅情」のシニア版のような趣きのあるシーンだ。


英国への帰途、夫人を見舞う運命を察知していたのか、黙って見送るゴドボリ


夜汽車で帰路につくモア夫人

前述したいくつかの印象深いシーンに加えて、ラスト近くに登場する、青空を背景に沸き上る雲の上に聳えるヒマラヤの厳かな山容が、モーリス・ジャールの音楽とあいまって高貴な美しさをたたえ、デヴィッド・リーンのインドへのリスペクトのようにも感じられる。



その他、音楽ばかりでなく、ジュディ・ムーアクロフトの衣装も非常にいい仕事をしていると思う。男性の衣装もいいけれども、インド女性たちの鮮やかできらびやかな色とりどりのサリーに対して、アデラやモア夫人のパステルカラーの衣装が品のいい対比をなしている。殊にもアデラの被っている帽子は、どのシーンでもなかなか素敵なデザインで、いかにも20年代風な帽子で、センスがよくて素敵だ。帽子好きなワタシとしては、この映画に使われているアデラの帽子は全部欲しいという感じである。



***
本作は、人に薦められた相手に特に愛情を抱けないまま(ありていに言うと、その相手とベッドを共にしてもいいとは思えないまま)結婚してしまっていいものかどうか悩んでいる女性が、インドを訪れる事でカルチャーショックを受け、内面のモヤモヤが一挙に奇妙な形をとって噴出してしまった有様を、非常に上品に美しく描いた作品といえるのではないかと思う。インドが彼女をそうさせた、という事だろうか。
ロニーがインドで行政官などしていず、アデラが結婚前にインドを訪れたりしなければ、二人はスンナリと結婚していたのかもしれないが、そのまま添い遂げたかどうかは疑問かもしれない。



因習的かつ閉鎖的で常にどんよりと曇った英国を出て、英国とはまるで異なる国を訪れ、その異文化の中で何かが目覚める女性、というのはE・M・フォスターお得意の題材だけれども、それがより青春の輝きに満ちて、楽観的に現れたものが「眺めのいい部屋」なら、別の形をとって表れたものが「インドへの道」なのではないかと思う。ワタシはどちらも映画でしか見ていないので、原作については何も語れないけれども、「眺めのいい部屋」はジェームズ・アイヴォリーの監督作品としてとても好きだし、「インドへの道」は巨匠デヴィッド・リーンが映画化してくれて良かったな、と改めて思う。



ここに出て来るインドは何だかキレイ事だ。インドはもっとそんなもんじゃない、という感想を持つ人もいるかもしれないが、ワタシはこの映画に描かれた夢幻的なまでに詩情豊かなインドの風景や建造物には強く惹かれるし(実際にインドに行ってみようとは思わないけれども)、本作はなんと言ってもそれらの数々の美しいショットが魅力の源なのだろうと思う。

コメント

  • 2015/02/05 (Thu) 17:34

    kiki さん
    ばぁばです。『インドへの道』これも十数年まえ、観て、感動したおぼえがあるのですが、プロットの記憶まったくなく、あなたの丁寧なご解説で、なるほど、そういう映画だったか、と思いあたりました。もう一度見たくなって、TSUTAYAに行きましたが、係員まったく知らないという、無知具合で、雪が谷店だからなのでしょうが、見当たらず、ショックでした。
    もう古典のような存在なのでしょうかね。代官山ならあるかしら?
    デヴィッド・リーンは巨匠です。格調高いのです。『アラビアのロレンス』もスペクタルなのに、がやがやしていない、カメラウオークが美しく、俳優もよりぬきで、ずしんと胸に迫ります。そして、『旅情』何度みてもブラッツイーとヘプバーンの出会いのシーンは素敵です。
    監督がまた生粋の英国美男で、あのひとが撮っていると思うと胸が迫る部分もあります。
    たしか岸恵子が失恋して、本命ではなかった、イヴ・シャンピに落ち着いた、というゴシップ記事がでまわっていたのを覚えています。
    『炎のランナー』も数回観ました。大好きな映画です。リンゼイ卿、注目していました。こういうひとも出ていたのですね。
    英国は確かに品格のある映画を提供してくれる国ですが、わたしはマイク・リーというひとの『家族の庭』という映画をみて、グア~ンと頭をぶちのめされたようなショックをうけたのを覚えています。
    kiki さんはご覧になりましたか?ご意見うかがいたいです。



  • 2015/02/06 (Fri) 21:03

    ばぁばさん
    「インドへの道」は、大型店に行かないとないかもしれませんね。渋谷の駅前のツタヤにはありますよ。代官山にもあると思います。
    デヴィッド・リーンは、けっこう文芸大作とか、ロレンスみたいなので有名ですが、「旅情」なんかもいいですよね。女性心理を描くのも上手だった人なんですわね。「旅情」を最初に見たのはNHKの放映で、随分前になりますが、ヴェニスに行く事があったら、ああいう小体なペンショーネに泊まりたいものだわ、と思って大分経ちます。まだヴェニスには行っていません(笑)沈まぬうちに行かなくては。

    岸恵子のそのエピソードは知りませんでした。へぇ〜、そうなんですか。岸恵子を失恋させた男なわけですね?さすが、デヴィッド・リーン。確かにハンサムだけど、ちょっと厳しい顔つきですよね。

    マイク・リーの『家族の庭』は残念ながら未見です。チャンスがあれば見てみたいと思います。覚えておきまする。

  • 2015/06/09 (Tue) 08:29

    この映画評、よくわかりました。ずいぶん前に観て、私は、以前のブログにこの映画の印象を書いた覚えがあります。
     イギリス人などの欧米人が「インド」の空気感に触れ、いわば異文化体験する映画は、「インド夜想曲」とか、種類は違うけれど「ダージリン特急」とかもありますねえ。また観たくなりました。

    • サマンサどら猫 #-
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    • 編集
  • 2015/06/09 (Tue) 22:29

    サマンサさん
    「インド夜想曲」は未見です。フランス映画でしたっけね。面白そうですね。どこかで放映されたらチェックしてみます。

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